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2024-10-19

丸太小屋再訪上京旅、【藤原新也さんの個展ー天国を下見する僕ー】岡山に帰る16日にもう一度ゆき、想う五十鈴川だより。

 やはり夏の疲れと、上京旅の疲れが出たのか、昨日は喉がいたく発熱しなにもする気が起きず、スダチのジュースをのみ栄養をとりひたすら安静にしていたら、今朝には喉の痛みも収まり熱も引いたので、16日のことや今回の家族揃っての丸太小屋訪問旅で徒然思ったことなどを、少しでも記しておきたい。

孫3人の後ろ姿、向こうに老夫婦

16日あの日、次女は珍しく出社していて、家にはレイさんだけがリモートワークをしていたのだが、10時前にレイさんにご挨拶し、その足で私は京王線、中央線と乗り継ぎ、東京駅に向かい、手荷物をコインロッカーに入れ、有楽町へから歩いて、着いた日に一寸覗いた藤原新也さんの個展会場永井画廊に向かった。

着いた日は落ちついてみることが叶わなかったので、もう一度みたいと思ったのである。一昨年北九州私立美術館で開催された集大成ともいえる【祈り・藤原新也】回顧展には行った。そのさいのことは、五十鈴川だよりに書いているはずである。ギャラリーでの絵画展は36年ぶりとのことである。

永井画廊での個展は、2011年の【藤原新也展ー死ぬな生きろー】四国巡礼88ヶ所の各写真とそれに添えた書88点が展示されていた。以来二回目とある。私はその最初の、死ぬな生きろ展の最終日に日帰りで岡山から駆けつけたのだが、すでに作品の87点は売れていて、残りは一作品だけであった。最後の作品を私は求め、その事で作品は完売となり、経費を除いた全額が東日本大震災被災地に寄附されたとある。その作品は私の部屋にある。

話は飛ぶが、1970年代、20代の半ば頃、私は藤原新也さんの著書、インド放浪や、東京漂流、メメントモリ、などなど主に書物から、大きな影響を受けその事が進路の変更をきめこのような寄り道多き人生になったのではないかと、今となっては思えるほどである。31歳になっていたのに富良野塾に飛び込んだのは、今だから言えるが藤原新也さんの言葉に触れなかったら、安易な道に逃げ込んだのではないかと言う気がしてならない。

仙人のデジタル絵画

富良野塾を卒塾して千葉の浜金谷に小さな丸太小屋を建てるきっかけ、動機のなかに、藤原新也さんが浜金谷の近くに小さな山荘をお持ちであることを、多分朝日新聞に毎週日曜、当時連載されていた丸亀日記を読んで知っていたからかもしれない。

丸太小屋が完成してから、突然バイクで山荘にお訪ねしたことも、今となっては懐かしい思い出である。(当時の私にとってはとにかくかっこいい憧れのひとであったのである)

打っていると、あれやこれやの、お恥ずかしき青春の終わり時代の出来事が思い出される。ようやくこの年齢まで生き延びて来て思う。その後岡山に移住してからは、ご縁が遠退いていた方々にも、悔いなく会えるときに会っておかねばと、思うのである。

この度娘たち家族と共に丸太小屋再訪の旅に向かう直前、永井画廊での個展の案内をいただいたとき、あまりものタイミングのよさと、嬉しさに即行くことにしたのである。

12日私が行った時間、藤原新也さんは画廊におられ、私のことを記憶しておられた。思わず明日丸太小屋に娘たち家族と共にゆきます、と話したら、えっ、丸太小屋まだ在るの、と驚かれたので、フクロウハウスというミニギャラリーになっていることを手短に伝えると、行ってみるとおっしゃってくださった(のである)。

我が家には藤原芸術作品が(よく私の自由になるお金で手にできたものである)2点ある。ささやかな我が人生の宝である。私は藤原芸術の多分野の領域の作品にこめられた奥深さを、ほとんど理解しているとはいえない。だが、でくの坊なりに引かれる。超細かいタッチ、と自由自在な線、色使いの変幻自在さ、とにかく他の誰もが描けない唯一無二の、一作一作に途方もない時間がかけられているのがわかる。

絶望的な状況を前にどこか軽やかな明るさと、ユーモアを感じる。猿やロバや、カラスや、犬猫への、独特な情愛と偏愛。氏の持つ弱者(市井の片隅でそっと暮らす)に向ける眼差しのやわらかさと、時代の闇の諸相の根源をカメラと言葉で切り取り照射する勇気と胆力には、脱帽する。

80才になられいくぶん穏やかさを身に付けてはおられるが、青春期からつい最近の香港の一連の暴挙というしかない出来事にも、ほぼ単独で異議抗議をされておられたが、そのどくとくというしかない、オリジナル表現活動力は他の怠惰な追随者を凌駕してやまない。(数多芸術か、評論家、知識人はいるが、体を張っての単独活動家を知らない。私が知らないだけなのかもしれないが)そのような方と我が人生で直接言葉を交わし会えた幸運を、一行であれきちんと五十鈴川だよりに打たずにはいられないのである。

今回の絵画展でまたもや脱帽するしかないのは、デジタル仙人となられ、新境地のデジタル絵画に、1983年からすでに挑戦されていたその事である。その足掛け40年にも及ぶ間になされた成果の作品をみて(ふれて)、72才の私が今思うことは、出掛けて本当によかった、その事だけである。


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