上京、妻と東京2家族全員、9人で千葉は上総湊にある丸太小屋、ギャラリーフクロウハウスを訪ねる小さな旅を終え、戻ってきてから一週間が経つ。肉体労働にも復帰している。大事なことは言葉にならないとは、養老孟司先生の言葉だが、その言葉が秋風と共に染みる。
老いては花のように在りたい。 |
そのようなおもいを言葉で打つことに、絶対的矛盾を抱えながら、五十鈴川だよりを12年以上打ち続けている。その事に、よく打ち続けてきたものだと我ながら感心する。なぜなら小さい頃の私は、何をするにも根気のない、楽なほうに流れる3日坊主の私だったからである。
そのような私の本質的なDNAは、おそらく完全に消えることはないだろうが、世の中に出て、あらゆる事が思い通りには成らない、いわゆる世間という社会に放り込まれ、幾年月54年、自分という不確かでいい加減な存在を、何とかしてちょっとはましな存在になりたいと、あがきにあがいてきて、ようやくなにか肩の荷が降りたというか、楽になれたかのような気がしている。
Hさんとの再会、(これからは一年に一度は会うことにする)実は昨年に続いて2どめ、共に丸太小屋を共に建てた河合さんも一緒だった。そのときに娘たち家族と共に全員でもう一度ここに来たいと強烈に思う自分がいた。なぜだかはわからない。娘たち夫婦家族がこんなにもすっきりと、私のおもいを受け入れてくれるとは(子供がまだ小さいし)想いもしなかったがが、実現したその事に対する言い尽くせない私の極めて個人的安堵感は例えようもない。
一言で言えば、間に合ったという、あらゆるこれまでの歩みの思いが満たされたのである。Hさんは私より10才年上、よくぞ丸太小屋を守っていてくださったものだとの、感謝の思いが私のなかで吹き上がったのである。なんとしても娘たち家族にフクロウハウスを見てもらいたかったし、私の恩人Hさんを娘たち家族に紹介したかったのである。
13日宿から眺めた東京湾の夕陽 |
丸太小屋を建てることがなかったら、いったいあれからの私はどのような人生を送ったのだろうか。妻とも巡り会えなかったように思えるし、岡山に移住することもなかった。
晩年こうやって五十鈴川だよりを打ち続けるような、現在をいきることもあり得なかった、と思える。不思議である。
あらゆる意味での後半の人生へと舵を切ることができた象徴的な丸太小屋が、Hさんのお陰で現存し、姿を変え、威風堂々今もあの頃と全く変わらず現存していることへの驚きは、これまた言葉かできない。なぜか出てくる言葉は、間に合った、よかった、と満たされる、である。
18才から、未熟、無知蒙昧(いまも)を何度も何度も思い知らされながら、ふがいない自分と向き合いながら、激変する時代に翻弄されながら、なんとかよたよたよろよろ、ときにごまめの歯軋りをしながら、あらゆる人や森羅万象に助けられながら歩を進め(一段一段細いちいさな丸太を積み上げてゆくように生きてきた)今を生きているという実感が私を包んでいる。
卒業という言葉がある。中世夢が原退職後の60代シェイクスピア作品の日本語音読を生活の基本にしてきておおよそ丸12年、特にコロナ渦中でのこの3年間、新しい孫二人の生誕は、決定的に私を次なるステージに誘う。それはシェイクスピアの音読中心の生活からの卒業である。中心からのシフトチェンジ、個人的に声が出る間は続けるが、もっとほかの事に時間を過ごしたくなったのである。
それはまだもわっとしているが、老いを見つめ続けながら、おいおい五十鈴川だよりを、これからも打ち続けながら、思索したい。
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