6日夜猪風来さんからお電話があり、昨日私の足は、猪風来美術館を目指した。先日かなりの時間話し合ったのに、何故再び猪風来美術館を訪ねたのかを綴るのはうまく言葉を紡げないので割愛する。意味もなく猪風来夫妻に会わねばと、ただ企画者の感が働いたのである。結果、やはり行ってよかったと、つくづく五十鈴川だよりを打ちながら思っている。
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猪風来さんは新作に挑んでいる |
一言打つなら、スパイラル・アームズのライブを体感したことが、やはり大きく作用したことは間違いない。猪風来さんご夫婦にとっては、様々な念い、(今もだが)人生50年を縄文土器探究とその製作、創作に心血を注いでこられ、新見に移住して20年間の節目の集大成のイベントに、関わるものとして、意味もなくただお会いする。企画を受けるというのは、甚だ非効率な世界に身を置く覚悟が絶対的に、私の場合不可欠である。必要とされるありがたさ、お役に立つ労を惜しむべきではないと考えたからである。
朝8時過ぎ家を出て、給油お昼の巻き寿司を買い、ゆっくりと岡山から賀陽を抜け高梁を抜け、新見にの猪風来美術館に10時過ぎについた。約束をしていなかったので、ご夫婦はいきなり現れた私に驚かれた様子であったが、幸い招かれざる客ではなかったので、暖かく迎えてくれ、それから午後2時半過ぎ、美術館を後にするまで、真剣でかつ楽しい語らいのひとときが持てたことを、五十鈴川だよりに打っておきたい。
今の時代、人間がさしで向かい合い、和気あいあい語り合うなんてことは、ほとんど消えつつあるこの世において、人里離れ自然にだけ抱かれて気持ちよく語り合える人(もう仲間である)がいる。詫びさびの美。すぎゆく世のうつろい、はかなさ、諸行無常を語り合え、しかし希望の土(織物)を失わず縄文土器創りに精魂を込めるご夫婦の姿に、俗界を浮遊する私は、お話を聞きつつ改めてうたれた。
ご子息を亡くされ5年以上の時が流れ、猪風来さんご夫妻はようやく再び新しい地平へと、出発されようとしている。北海道縄文原野に生まれた命の始まり、比類のない原野さんという才能(新しい縄文土器創作、小説、絵、これから大輪の花を咲かせる、根本に縄文精神世界の争わない豊かさを具現できる稀有な才能の持ち主であったのだと、遅まきながら知らされている)
ご子息の念いを形にするべく取り組んでいる新しい作品のレリーフを見せてもらった。姿は見えなくなったが、猪風来さんは原野さんの魂をレリーフに込めておられた。私は何度も氏の気を受けた。その気が私に五十鈴川だよりを打たせる。
世界現代IT人工知能時代、世界のパラダイムが行き詰まっている。あらゆる困難、戦争はじめ出口が見えない。プラスチック、金属、超微粒子水質汚染、生物を含めた全人類の前途はあまりにも険しい。オーバーではなく、ヒタヒタと多くの生物の命の危機が知らず知らずのうちに脅かされているのをどこかで気持ち悪く感じているのは私だけではあるまい。
多くのむこの民は、訳もわからず悲惨この上ない世界へと漂流押しやられる。いったい何故なのか。私は娘や孫をなくしていない。もしも自分が、との想像力を失いたくはない。狂おしいほどの世界の無数の民の慟哭、悲惨、うめき、痛みに無縁な生活を、今も送れている。だからこそ、見えない世界への想像力を磨かないと。明日はなんびとたりと我が身である、との不安が私を襲う。
私は土取さんを界して、本質的に猪風来さんに出会ってしまったようにおもう。お会いする度に何か縄文的な感覚が私を心地よくさせてくださる。それは常に自然、大いなるものにだけ感覚が開かれ、駆け引きの人間社会の闇から遠い地平で呼吸されているからなのだとおもう。私の霊的な感覚にはほど遠いとの自己認識が覆され、幼少の頃の原初記憶が呼び覚まされる。経済原理主義に汚染される前の世界。なにもないのではなく、すべてはあったのだと。
おそらくこの感覚が、土取さんと、猪風来さんと、僭越を承知で結びつけている、というような気が最近する。縄文の音世界、縄文の土器世界、未来への希望である。土取さんのスパイラル・アームズ、土取さんと猪風来さんのコラボレーション、この大きな企画に関われる幸運、なんとしても実現したい。
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