12月に入って先週から休日の朝、夜明け前の朝食前に、約一時間程度書写を始めている。夏場は早朝の裸足散歩であるが、冬場は今のところ書写である。書写というほどたいしたものではない、と本人は自覚している。まだコロナ以前シェイクスピア作品の音読にかなりのエネルギーを割いていたとき、リア王の長い台詞を書写したのが始まりだから、もう7年前くらいから折々、ぽっと時間が空いたときとか、空虚感が訪れたりしたときに、意味もなく紫式部が源氏物語のなかで詠んだ和歌とか、気に入った台詞とか、つまり日本語に愛着をもつ私は、意味もなくただ書写をして時間を過ごす。これが今現在の労働生活とはまた全く異なる、老い楽冬時間の休日の楽しみなのである。
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世の中に出て一番読んでいる作家 |
70代に入り一年一年をできる限り大切に生きるように心かけてはいる。が、長年身に付いた癖や慣習、また私個人のもって生まれた飽きっぽい性格、面倒くさがり等は、治しようもないとは想うものの、ようやくにして死者の世界への旅立ちを、いやでも真剣に考えておかないと、まずいし、悔いが残るのだけは避けたいという、殊勝な煩悩が新しく湧いてきているからである。
一日は一定、ならばこれまでにすでに経験したり、堪能したことは控え、独り部屋で静かにできる未知のやったことがないことをやりたいのである。私の好きな日本語を手が動くうちにただ書きたいのである。文字は好きな安い万年筆で書いている。
行のように、一行一行の書写、その事がいまとても新鮮で面白いのである。にわか思い付き程度だが、私は真面目に今のところ取り組んでいる。まだ肉体労働生活に重きをおきながらではあるし、来年は土取さん、猪風来さんとの大事な仕事があるので、来年の門松があけるまでのこれから一月の時の間、いわば私にとっての冬眠時間を、有意義に過ごすために必須なのである。
若い頃から、落ち着いてしっかりと学んだりしてこなかったそのつけを、この年齢になって思いしる。少年老いやすく学なり難し、とはいいふるされて、今時そのようなことを、のたまっているご仁などとんとお目にもかからないが、かくゆう私の実感である。ただただ18才からの窮乏生活に追われて、ながらも何とか生きてきて、今ようやく老いて学びたしと念う私である。
だが、天の邪鬼の私は想う、学問、学ぶとはどういうことか、と。学校など出てはいなくても、立派に子供を育て、よいお顔をした私よりもずっとご年配の御老人夫婦などを私は知っている。方や大学をでて本などもたくさん読んでいるのに、人間としての魅力がとんと薄い人など、数多く私は見てきたし、知ってもいる。
私は自分に問う。自分なりに、老いをいかに過ごしたらいいのか、いけないのか。考えることに終わりなし、冬の部屋に差し込む陽射しを背に受けながら、青年は荒野を目指し、きっと老人もまた永遠の荒野を目指す。生まれてきたのだからとぼとぼと、しかし大地を踏みしめ、確実に歩を進められる間を、人それぞれに想い歩むしかない、、、今朝の五十鈴川だよりである。
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