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2021-12-31

2021年最後の五十鈴川だより。

 2021年大晦日である。家族全員での朝食を済ませ、わが書斎にこもって寸暇五十鈴川だよりを打たずにはいられない、おじじである。

にぎやかという言葉があるが、27日午後次女家族と、長女が合流してから一気にこの2年分のうっ憤が晴れるかのような、にぎやかさ、にぎにぎしさ、老いも若きも各々の地声の言葉言葉言葉が家の中に満ちる。一番小さな命、葉君。次にちょっとお兄ちゃんになり、自在に言葉を操り始めた望晃くんを中心にして、多声な声が家の中に響き渡る。

直島のオブジェの中でくつろぐ長女家族

長老の母も、静かに存在感を示して言葉数は少ないものの、嬉しそうにしている。4世代揃っての大晦日は無論初めてである。年の瀬、このように能天気に五十鈴川だよりを 打てる、ささやかな多幸感は、わが人生で初めて経験する出来事である。

老いてみてこそ、でないと感じられない類のまさに出来事である、ということをいま、この時にしっかりと刻み付けたいのである。葉君や、望晃君の天然自然が放つまさに後光が刺すような、しぐさや動き、ほほえみ、泣き声、嬌声、眠りの妖精のような顔は、老い心を潤してやまないのである。こればかりは老てみないと。老いの幸徳というほかはないのである。

娘たち夫婦のむつまじさも、親としては他に何も言うことはない、いわばこれ以上何も望まない果報を、私と妻にもたらしてくれている年の瀬時間の在り難さである。

これ以上打つと親ばかを通り越してしまうので控えるが、古希をまじかに控えて、半世紀前のおのれを振り返り、このような半世紀後を迎えている現実、まるで夢の世の如しと、いうほかはないが、これは夢ではなく事実である。 何を目指して一回限りの人生を歩むのかを今後も繰り返し自問自答したいのだ。もし自問自答しなければ、おそらくこのような今を迎えることは、きっとかなわなかったのではなかろうかとおもう。

18歳の時に、幸福になりたいという漠然たる夢を描いてバッグひとつで上京し演劇を学び、艱難辛苦十数余年、挫折を重ね紆余曲折。思考錯誤の果ての今である。演劇を学んだことで生き延びることができた、のだと思う。演劇を学ぶことは生きる方法を学ぶこと、永遠の終わりなき哲学である。シェイクスピア作品で学んだ哲学思考。半世紀後、気づけば夢がかなったということをしっかりと五十鈴川だよりに打っておく。

人生谷あり山あり、今後も試練は続く。五十鈴川だよりは蛇行しながら流れてゆく。逃げ場はない、立ち向かうだけである。

 

 

2021-12-30

2021年の年の瀬を、家族全員で過ごすスナップショット、五十鈴川だより。


家族全員そろっての、2021年の年の瀬を過ごしている。

瞬く間に4日目の朝、寸暇を見つけて書斎にこもって書いている。たぶん五十鈴川だよりを打ち始めて最も短い拙文になるはずである。そして、いままでで最も写真が入った五十鈴川だよりになるはずである。昨日家族全員で直島を日帰り旅したので、スナップショットを長女の夫のレイさんがたくさん撮ってくれたので、あっぷし記録とする。
 

一番目の写真、義理の息子二人。次女の夫が関西風お好み焼きを作っている。二番目の写真は妻と母と次女、ミルクを飲んでいるのは、五カ月の葉君。3番目は母(90歳)の車いすを押す、長女の息子の望晃くんと夫のレイさん。4番目も同じ、5番目は母、望晃くん、葉君。6番目は砂浜で遊ぶ私と望晃君。7番目は言わずと知れた直島の有名なカボチャのオブジェに収まる家族全員のショット。


あわただしい年の瀬を避けて、直島での日帰り旅は、家族にとってきっと思い出に残る一日となったことを記念してわずかではあれ、拙文を打たずにはいられないほどに、良き年の瀬時間を過ごせたことの、記録を残す。パソコンを不自由にしか操れない私だが、すばらしき義理の息子二人のおかげで何とかアップすることができた。(長女の姿がないが、後日承諾を得てアップしたい)






2021-12-27

ダブルスタンダードを生きる宿命の望晃君のこれからを見据え、役に立つおじじを目指す覚悟を育む。

 すうねんぶり、いやもっと前から使っていない部屋である書斎で、五十鈴川だよりを打っている。北向きの一番寒い部屋である。冷たい冬の風の音がひゅーひゅーと聞こえる。だが打っている私の心は温かい。

長女の夫のレイさんと孫の望晃くんが一足早く我が家に帰省してきたからである。わずか一晩で、我が家の空気は一変した。そのこまごまを記し打つ時間はないのだが、爺バカは承知の上だが、3歳9か月の望晃くんの初々しい声が我が家に響き渡り、家がまるで生き返ったかのように、まさに感じられるのだ。

いま、望晃くんはおとうさんといっしょに私が普段使っている部屋で、朝食後のルーティンワークをやっているので、私も寸暇を見つけて五十鈴川だよりを打っているというわけである。先ほど次女家族と長女がすでに新幹線に乗ったとの知らせがあったので、今日はまた午後迎えに岡山に向かうことになる。

というわけで、午後からは一気ににぎやかなことこの上なし状態になるわけだが、これから新しい年までの年の瀬が団欒の、我が家のまさに小さなお祭りと化すのが、この上なく楽しみな私であり、妻はおそらく私以上の喜びで胸の内があ触れているのに違いない。

すっかり我が家になじんでいなければ、このような行動はなかなかにとれないであろうから、私も妻もこのような彼の自然な行動を、心から有難く思わなくてはいられないし、五十鈴川だよりに打たずにはいられないのである。

ともあれ、老夫婦二人だけの静かな家での暮らしに、いっきに灯が灯ったというほかない孫の存在感の不思議なオーラに、私も妻もいわばとろけてしまっているのである。

リヴィングで冬の陽ざしを浴びる望晃君

それにしてもなんともいえない成長した望晃のしぐさや、聲が我が家に響き渡る様は、オーバーではなくコロナ下、待ちに待ち望んでいたので、うれしさも格別なのである。老いゆく中で、娘たち夫婦の役に立つ、おじじ、おばばであることを、私も妻も願っているので、老いてゆく中での喜びとは、こういうまさに一瞬の中にこそ、在るのだということを、五十鈴川だよりに刻み付けたいのである。千差万別の各々の家族の在り様を、我が家の家族の今現在を。

加齢と共に、うきうきすることは現実的には減ってゆくことが摂理ではあるが、新しい生命の輝きの役に立つことこそが、これからの大きな時間の使い方になるのは自明である。孫の記憶に残るおじじでありたいと、願わずにはいられない私だが、そのためにはどうしたらいいのか、思案する。そのことがきっと私を活性化させるのは、まず間違いない。

私の老いらくの声が出る間は、要望に応えられる間は、日本語の読み聞かせをしたいと思う。ドイツ語の音読は父親であるレイさんがしっかりやる。望晃はいやでもダブルスタンダードを生きる宿命である。そのためにおじじとしてできることを私は思案し続ける覚悟を、望晃の声を聴きながら育むつもりである。


2021-12-26

師走の朝日を浴びる今朝の五十鈴川だより。

 今日も打ちます五十鈴川だより。今日は長女の夫レイさんと 最初の孫、望晃くん(3歳9か月)が午後帰ってくる。だからそこはかとなくうれしい。今私がパソコンを打っている2階の一番日の当たる部屋は彼らが使うので、しばし本来の私の書斎である狭い部屋で明日からは、すごすことになる。

昨年までは存在していなかった葉君も明日は帰ってくる し、いったいどのようなお正月になるのか、いずれにせよにぎやかなお正月になるのは確実なので愉しみである。

とはいうものの、暗い話題の世相を照らすかのような報道が多いさなか、事わが家族に至っては明るい話題が、このように 能天気に打てることがあり難いとは思うものの、私のような能天気に生きていられる環境には程遠い暮らしを余儀なくされた、あるいは余技なくされている多くの方々のことを勘案するときに、しばし打つのをためらうことがあるということも打っておく。

とくにこのコロナ下のこの2年間は、いうに言えないような私の想像の及ばない切迫した状況下を生きておられる方が多くおられるのではと想うと、いくら能天気な私でも、打つ気持ちが萎えたりすることもあるのだ。

朝日を浴びるわが部屋

しかし思うのだ、あるいはどこか八方ふさがりのような出口が見えなくてもどこかに明るい触角を伸ばして、打開策を見つけてゆかなければ、哀しいかな人生はままならなく立ち行かなくなる。厳しいのである。私の家族にだっていつそのような苛酷な状況が訪れないとは限らない。いかに平和的に生き延び新しい年を迎えるのかは、全人類の普遍的テーマである。

まさに一歩間違えば、人生にはいつだって断崖が待ち受けているといった方が正鵠を得ているお思う。だから父や母が常々口が酸っぱくなるほど、繰り返し語り続けたように、地道に一歩ずつ歩を進めるにしくはなし、なのだと想うのである。

幸い、娘たち2家族このコロナ下を東京の地で元気に乗り越え、帰省してくるという事実、次女はこの夏まさにコロナ下の夏葉君に恵まれた、そのことをこそ、私は平凡な慶賀と受けとめとりあえず家族全員でお正月を迎えることができそうなので、単純にうれしいのである。

まずは足元の平凡な、だが非凡でもあるのだということの自覚の上に、今この現在の家族全員でのお正月を寿ぎたい、ただそれだけなのである。

私の両親も、妻の両親も華美な生活には程遠く、質素極まる単純を絵に描いたような暮らしの中で子供たちを育て、人生を穏やかにまっとうしたのだが、まったくわたしもそのようにありたいと、つくづく願っているのである。【単細胞・単純に生き・こともなし】である。


2021-12-25

吉本隆明氏のお言葉をいただき【自己慰安】的に五十鈴川だよりを打ち続けたく思う師走の朝。

 静かな夜から静かな朝へ、私の住んでいるところは住宅街なので、静かなる環境で朝一番に五十鈴川だよりが打てるのは、もう何にもましてうれしい。かすかに赤穂線の電車の音が聞こえる。

さて今朝は土曜日、 年内肉体労働アルバイトは昨日で終えた。このアルバイトをはじめて3年5カ月が経つ。そのうちの2年間はコロナ下である。この年齢でつくづく天の下での労働アルバイトに 巡り合えた幸運に私は感謝しないではいられない。得意なことで役に立つ体で居られる今が。

おもえば文章を打つことも、本を読むことも、肉労働をすることも、世の中に出るまではまったく苦手であった、ということがにわかには信じられないくらいの変化を、私はし続けながら今を生きている。変化し続ける意識と体、不思議な器、面白がれるか面白がれないのか、そこが思案のしどころだ。思案を止めないただ流れる、そこが大事と定めている。

生きているという生活実感を(ささやかな幸福感を)、どこかしらに 感じていなければ<このように能天気な五十鈴川だよりが打てるはずもない。地球の自転の上の乗っかっていられ、今日もまた新しい夜明けを、生きられていられる今を、超ささやかに五十鈴川だよりに籠める、自己慰安時間はたとえようもない安らぎを私にもたらす。

もう何度も五十鈴川だよりに打っているし、これからも永遠の繰り返し、さざ波のように似たようなくりごとを綴り打つ五十鈴川だよりになることを、どこかで自覚しながらも、昨日と今日の躰意識は、コトバで表すことが不可能なほどに、あきらかに異なるのである。

だから昨日打った一文とは、異なる一文が顕れてくるのである。そのことがいやまさに生きているということなのであろうから、私は昨日を忘れて新しい今日を生きることができるのである。昨日までは木にしがみついていた枯れ葉が今日は地に落ちているように、目にはさやかに見えねども、確実に万物は変化し続け、ある日突然宇宙に帰還するのである。

妻が近所の山で見つけてきた裏白

だから、宇宙の摂理に従って生きる。五十鈴川だよりで在りたいと、いうことをこれから折々しっかりと打っておきたいのである。先年高齢でお亡くなりになった畏敬すべき学者であられた外山滋比古先生が、特に晩年忘れることの効用を説いておられたが、まったく同感する。

古希を過ぎたら、以前にもましてできるだけ他者の手を煩わせずに、勝手気ままに風のように生きてゆきたいという思いが、自由自在という言葉が沁みてくるのである。 

話は忽然といつものように変わるが、昨日の写真にアップした吉本隆明氏がなぜ言葉で思考し、詩や評論他多面的な哲学的思考を膨大な著作で(言語で)なされているのかを問われた際に応えられていたのが、非常に印象的で私にもすごく響いてきたのは、【自己慰安】のためですというご返事のお言葉だった。

この言葉に出会った時から、私は【自己慰安】という言葉を五十鈴川だよりでも使うようになってしまったが、比較するのもおこがましいが、五十鈴川だよりもどこかしら 自己慰安的に打っているからなのである。


2021-12-24

師走、掃除他生活雑事全般を超スロウなダンスをするかのように楽しんで事に当たる。

 クリスマスイブの朝である。といっても特段なことはほとんどしない老夫婦二人の生活暮らしである。だが、もしここに孫がいたら、多分、まったく異なるイブの日になるのだろう。ともあれ、夫婦二人の静かこの上ない師走の日々が流れ、続き、今年もあとわずかである。(なんてことを五十鈴川だよりを打ち始めてずっと書いているような気もするが)

サイレントな日々が、夜が、今の私には似つかわしいのである。年寄りは静かにしかしどこかで熾火のように熱く生きるのである。

オミクロン株報道(他にも)にはそれなりに目を向けながらも、内心はどこか遠くの国の出来事を眺めているかのような、 現在生活の師走時間を私は生きている。世間とのあまりのずれを、(まるで老いの無感覚状態を)楽しんで生きているかのような自覚があるのである。そのようなズレを、私はどこかで 意識的に、老いの道楽として楽しもうとしているのである。

てきぱきとは動けなくなりつつある体を引きずりながらも、やれることをあだやおろそかにはせず、ゆっくりとを愉しみながら、ゆるやかに動く身体を、まるで超スロウなダンスでもするかのようなあんばいで動かしながら、あらゆる動きを努めて楽しむように、心かけるようにしているのである。(ネガティブな紋切型一面的な報道ほかはシャットダウン、空を眺めていた方がはるかに気持ちがいい)

話は突然変わるが、吉本隆明という知的巨人、思想家でさえ、体が思うように動かせなくなって老いを痛感するようになったと書かれているのを読んで、ハタと安堵したのだが、こればかりは老いてみないとやはりわからないのだから、分かったというか老いを自覚した時点で、いかに思考しつつ老いを受け入れるのか、いかに計らうのかにおいて、いつの時も人は試練にさらされるのだと、おもうのである。

というわけで 、超スロウなダンスをするかのようにあらゆる動きの、生きて活動するのに当たり前の立ったり座ったりの基本動作からのすべての動きを、可能な範囲で、スロウではあるが確実丁寧に行うように、相務めるというのが最近の私の日々の変化、愉しみなのである。

年寄りの繰り言の繰り返し、おそらく多分、もうほかに打つことはないのかといわれても、きっと私は初めて経験する未体験ゾーン、老いゆくゾーンを、五十鈴川だよりに打つ続けてゆくのに違いなと、どうもそんな予感がするのである。

師走良き本に巡り合えている

老いない人はいないのだから、これからの初体験ゾーンを いかに生きてゆけるのかいけないのかに、焦点を絞っていけたら、と思案するのである。愉しみはお金要らずに見つける、のだ。

ということで先日も打ったが、娘たち家族が明後日には帰ってくるので、部屋の片づけや掃除に取り組んでいるのだが、雑巾がけ他ありとあらゆる生活してゆく上での事細かな生活する上での必要な諸事万端を、老いの道楽と位置づけダンスするかのような心持で取り組むのである。

運転他、とにかく反射神経他(音読他生きてことを為すすべての諸器官の体の動き)緩やかに下ってゆく機能に逆らわず。それを可能な限り楽しむように心かける。とまあ、そのような感じで事に当たるのである。ゆっくりを生きるのである。

そのようなおもいに至ったのは、やはり私にとっては初春の手術という個人的な体験が、命の重さを、生と死の分かれ目は実にすぐそばに在るということへの気づきが、そうさせているのだと想う。

手術以前と以後で、あきらかに私の中で何かが変異したのは、まず間違いない。50年近く飲んできたお酒を断っただけでも、大変身といわねばならない。意識が変わると体も変わる。身体が変わると、同じ本でもまったく初めて読んだのではないかと、おもえるほどに新鮮に読めるのはなぜなのだろう。不思議というほかはない。 

人生の持ち時間が少なくなるにつれて、老いの思索の深まりがつづれるように在りたいと思う私であるが、凡夫なりに日々を丁寧に生きてゆくほかには妙案はないと老いの身に言い聞かせる私である。


2021-12-21

冬至間近、一人夕方薪割をする。

新聞を取りにゆくと3日連続して夜明け前の月が浮かんでいた。寒いのでちらと眺める程度だが、このような寒さの中でもきちんと、こんなにも早くすでに新聞が届いている。

ささやかにすでに1日を始動している人のいることの平凡さに、どこかしら自分もまた今日1日が始まるのだとの、当たり前なことに思いをいたしながら、すでに落ちている暖かいコーヒーのある台所へと向かい、一息入れおもむろにパソコンに向かう。

早寝早起きだから、よほどのことがない限り21時時以降に 何かを為すということはしない。その代わりといっては何だが、起きてから午前中の7~8時間はエネルギー全開でいまだ過ごすことができるわが体があるということの喜びは、加齢と共に深まる。

文章を打つことも含め、本を読むことの殆ども午前中か、午後の午睡の後か、夕方ひと風呂浴びてのちの夕飯前の 一時しか本は読まない。とくに音読するための本や、集中力を要する類の本は、午前中よく休んだ体で読むことにしている。(ノート片手に、すぐ忘れるので)

疲れ切った身体での読書は、この歳になるとなんの意味も持たない。決して無理なく自然にやがては枯れてゆく五十鈴川でありたいと、最近はとみにそういう感慨がわいてくるのである。

天空土光、雨を風を感じる。

だが、とはいうもののほかの方はいざ知らず、この冬の季節、さあ今日も働こうという気力が満ちてくる体があるということ、在り難きかなである。ありがたやと日々何度もつぶやき、深呼吸する私である。誰もいない冬の青い空の元、我ひとり草とたわむる、なんていいではないかと自己慰安するのである。

話変わり、アルバイトしているところで直径30センチくらいの丸太が手に入ったので、昨日の夕方薪にするために、チェーンソーである程度の長さに切り、斧で 割木にした。おおよそ一時間半で作業を終え、結構な薪ができた。

この年齢での薪割は、年々しんどくなってくるのだが、休んで息を整えては挑む。私は軽いジョギングくらいの気持ちで、冬場の作業と割り切って 、どこか楽しんでいる。夢が原時代も含めれば、30年近く続けていることになる。

午後3時過ぎくらいから作業を始めたのだが、割った薪を車に積み込むころには西の空に真っ赤な日没が。朝日を浴び、夕日を眺めいる。贅沢な時間である。

だが、あっという間に暗くなる冬至間近。家に戻って暗い中妻も手伝ってくれ、薪を積んだ。家に入ると、すでに妻がストーブに火をつけてくれていた。

2021-12-19

夜明け前・寒月眺めて・五十鈴川。

 昨日のM新聞の書評に、私の好きな佐藤優さん(気やすく打たせていただきます)が田原総一朗氏の【堂々と老いる】という新刊本を取り上げている。田原さんは現在87歳でこの本を書いている。。

詳細は省くが、こころに迫る書評であったので、五十鈴川だよりに、切り抜いたことも打って、すこしだけ感じたことを打っておきたい。 田原氏は私よりははるかに高齢であり、その生き方には、潔さが(書評によれば)横溢していて、来年古希を迎える私としては、大いに田原大先輩の生き方を学びたいものであるとの認識をもった。

田原さんは加齢と共に訪れる記憶力、気力体力根気他、若い時にはなんともなくできた体全般の機能がが減退するのにあらがわず、それは仕方がないことと現実的に受け止め、対処することを勧めておられるといい、死についてあれやこれや考えるのはやめて、ひたすら生きることを選択していると書かれておられた。まったく同感する。

来年古希を迎える私だが、大いに共鳴するのである。もうこの年齢になったら、死について想いを巡らす暇があったら(若い時にこそよく考えるべきである)、いかに今日一日を過ごすかということに想いを行き渡らせ、身体が喜ぶことに、気持ちのいいことに情熱を 費やしたいと心底思うのである。

ようやく手元に届きました。音読し続けます。

この書評を読んで、もう一つ私が打たれたのは、書評をしている佐藤優さん自身が、現在前立腺がん、末期腎不全と闘病中であることを、告白しておられたからである。

人生の持ち時間が限られてくる中で、このような書評が書ける、佐藤さんの思想というしかない根拠の 奥底の胆力にはびっくりさせられる。ただ一言、凄いヒトというのは存在するのだと、教えられる。

何度かは修羅場を潜り抜けておられる方でないと、このような一文は書けないのではないかと、思わせられる。佐藤優さんはは1960年のお生まれだから、私などよりはずっとお若いのに、このようなある種突き抜けた透明感のある、氏にしては珍しく平明で分かりやすい書評を書かれていることに、驚いてしまった。

田原氏も佐藤氏も、学生時代の友情を限りなく大切にしていることが触れられている。然りと私も膝を打つのである。姉兄弟含め 、社会に出てから出逢って、若いころに苦楽を共にした仲間や友人はまさに宝であると、加齢と共に痛感する。

先の五十鈴川だよりでもふれ、きっとこれからも加齢が進むにつれて触れることが多くなると思うが、同時代を熱く生きた仲間たちとの時間をこれからは大事に、大切に生きたいとの思いは、深まるばかりである。

PS 蛇足だが、佐藤優さんは最後こう触れている。不調ががあれば怖がらず、病院で診察を受け、毎日の生活のリズムを整え、神や死について実証できない面倒なことには考えないのが、田原式老後術の秘訣だ、とある。かく在りたい。


2021-12-18

娘たちの帰省を迎える準備を妻と共に整える。師走の土曜日の朝に想う。

家を建て替えて22年目の冬を迎えている。今朝は今年一番の寒さである。昨日は午前中肉体労働アルバイトをし、午後電動チェーンソウと斧で薪づくりに精を出した。妻がそばで細かなことを手伝ってくれる。我が家の冬の恒例行事である。

薪ストーブの薪づくりをもう22年もやっている。一口に22年といえばもう十分にふた昔以上だ。たぶんいつまでもは、薪づくりはできなくなり、やがては薪を買うことになったりもするのかもしれないが、いつものようにそのようなことを考えるのは、私の性格としては良しとしない。

その時はその時である。とにもかくにも今はまだ、斧を振り下ろす気力体力があり、夫婦そろっての体動かしができる今をこそ、在り難くいつくしみたいという思いなのである。灯油ストーブ他の 暖房器具もあるのだが、薪ストーブに魅せられた私としては冬の季節を過ごすのには決してなくてはならない、必須アイテムである。

北海道は富良野で体感した薪ストーブの暖かさを、私は死ぬまで忘れることはないだろう。家を建て替えるときに絶対欲しいもの、それは薪ストーブであった。よもやまさか薪ストーブのある家に住めるようになるなどとは思いもしなかったが、40代の終わりに夢がかなったときの嬉しさは感慨深く、まさに夢のような個人的出来事であった。

妻もすっかり薪ストーブの魅力にはまり、薪づくりに関しては全く労を惜しまないので、その点本当に夫婦間の潤滑油のような作用もあって火の効用のすごさに脱帽するばかりである。

話は逸脱するが、娘たちが何はなくとも極めて常識的な、普通人として生活を営んでくれていること、また思春期他の誰でもが通過する難しい時期、そんなに大過なく(はたからはわからないにせよ)成長してくれたのには、この冬の季節の薪ストーブの効用が大きく作用しているのではないかと、私は考えている。

冬の朝陽を浴びるわが寝室(しばし長女家族の部屋になる)

もうあと一週間もすれば、娘たち家族が帰省してくる、次女の葉君は初めての里帰り、母も含めて一気に9人での大所帯になる。妻はそのために男の私には到底思いも及ばない準備を細部に至って考え尽くしているかのように、あれやこれやと知恵を絞っている。

今私が五十鈴川だよりを打っている部屋は長女家族が使うことになり、先日妻主導で、私は指示に従い、本その他の品々を主に私の書斎に移動し、机も移動し、余分なものは捨て、すっきりと片付けたのだが、実に快適な空間に変貌した。妻はカーテンも買い替えたりして娘たちの帰省を愉しみ待っている。

コロナ下で孫たちに頻繁に会えないので、この度の正月帰省をどれだけ妻が楽しみに待っているのかが私に伝わる。母親の、男親とは全く異なるとしか言いようがないほどの、細部を詰める能力の発露には、驚きを通り越して月並みだが感動を覚える。

普段暮らしているのには大きすぎる気がしないでもない家だが、何とか母の部屋も含め、全員がそれぞれの部屋で収まり年越しができる。家の中心部分に薪ストーブの炎が団欒を促す。

コロナ下での、葉くん初めて参加の家族全員そろってのお正月。今の私の暮らしが時折夢ように思えるが、夢ではない。見渡せば心寒々としたニュース報道が引きも切らないが、(しばしそのことは心に留め置き)つましくもささやかに、娘たち家族を迎える、足元を温める準備を妻としたいと想う朝である。

 

 


2021-12-14

2021年12月12日。ヌーヴォーシルクジャポンを高松城玉藻公園 披雲閣で体感しました。I氏のお招きに感謝します。

 コロナ下のこの2年、普段はほとんどルーティンな日々なのだが(それを最近は楽しめている)先週土日2度も瀬戸大橋を渡り、徳島と高松に出掛け、昨日はルーティンの肉体労働をこなし、やはりどこかしら意外な良き刺激と、電車の往復時間が長かった事で、年齢を感じた。昨夜はなんもする気がおきず、夕飯後すぐに横になった。(でもすぐれて良き疲れなのである)

だがこの二日間のちょっと年齢的に、すこし無謀とも思える二日間連続日帰り旅は、まったく異なる世界へ今の私をいざない、導いてくれたという意味で、五十鈴川だよりをやはり打たずにはいられないという気にさせてしまう。わずかであれ日記風に打っておきたいのである。

賀川豊彦記念館を訪ねた翌日、私は 午後2時過ぎのマリンライナーで高松に向かい駅のスタバで、ご招待いただいたI氏とほぼ4年ぶりに再会し、すこしおしゃべり個人的なDVDを渡し再会を喜び合った。

ついでに、こういう時間はめったなことでは訪れないので、私は香川で土取さんのサヌカイトの野外公演イベント実現に向けて熱い情熱を持続しているOさんを、I氏に紹介することにしていたのだが、わずかな時間ではあったが、お互い面識を交わすことができ、私としてはうれしかった。

そのスタバに一本遅れのマリンライナーで、I氏のお招きイベントに私がお誘いしたNさんもついて、駅から歩いて600メートルの会場に4時過ぎに向かった。会場は史跡高松城跡玉藻公園内 重要無形文化財【披雲閣】。


イベント名は ヌーヴォーシルク ジャポン(フランス語である)IN玉藻公園 披雲閣とある。私はほとんど何も知らず、先入観も何も持たず、このお招きにあずかったのだが、一言でいえば、めったなことでは味わえない、まさに異次元の世界へいざなわれるかのような、いつものルーティンの日々では決して味わえない時間を過ごしたことだけは、五十鈴川だよりにしっかと留め置きたい。

高松城の史跡 披雲閣 の場が生み出す、で行われる、お能、琵琶、笛、(古楽器)謡、オブジェ、明かり、そして初めてみた瀬戸内(現代)サーカスとの調和融合、そして能の羽衣に沿ってヌーヴォーな試みの時間が進行する。

コロナ下の閉塞逼塞状況下、眼福聴福(笛の音・琵琶の音・謡、そして瀬戸内サーカスのしなやかな鍛えこまれた体の動きのさなかにも、遠く記憶の底を呼び覚ますかのような音色の響きがどこからともなくかすかに聞こえる)良きものに触れ、見ることができた喜びを再び打っておきたい。(生者だけがこの世に在るのではない死者たちと共に現世は在るのだ)

それにしても、お能の衣裳(あのような衣装を生み出したお能の美、花伝書をまとめた世阿弥のすごさには震撼とした、世界の乱世を鎮めるにはお能は最適な芸術と私には思える)をまとった演者が顕れた時のあのたたずまいの静謐なる存在感には、まさに幽玄としかたとえようなない霊が舞い降りてきたかのような、心持に陥った。嘘の仕掛けの圧倒的リアル。

まったく突拍子もないことだが、前日訪れた賀川豊彦氏が能の衣裳をまとって現れたのではと、錯覚するほどのあらぬ妄念が湧いてきたのも、この試みのなせる何かが、羽衣のように私の中にも舞い上がるのではなく、舞い降りてきたのである。一言、良き正夢をみた。

PS I氏は開演前総合プロデューサーのTさんを私にご紹介してくださった。


2021-12-12

昨日、日帰りで賀川豊彦記念館を訪ねました。そして想う。

昨日五十鈴川だよりを打ち終えた後、思い立って徳島県の鳴門の近くにある、賀川豊彦記念館に日帰りで行ってきた。賀川豊彦氏のことを私に教えれくれたのは、音楽家の土取利行さんである。

手術後の今年の春、新緑の美しい岐阜県郡上八幡の立光学舎に一人暮らす土取さんを訪ねた時のことである。土取さんとお目にかかることは、頻繁ではなく稀なのであるが、お会いするたびに、いやでも新たな世界の、あたかも扉が開くかのような、私にとっては未知なるお話の数々を淡々と、しかしその底流には、語りつくせぬ熱い情熱が灯り続けていることが、凡人の私にも、かすかにだが伝わってくる、いわば稀人である。

氏のおかげで、賀川豊彦の代表的な著作の一つ、書かれた当時400万部も売れたという【死線を超えて】を何とか図書館で探し、分厚い上下巻を読んでキリスト者として、まるでキリストが乗り移ったのではないかと思えるほどの、真摯極まる生き方に、凡人の私は圧倒され 、賀川豊彦記念館には必ずゆきたいとは思っていたのだ。

賀川豊彦は明治21年父の事業の関係で神戸で生まれているが、ルーツは徳島県、まさに数奇極まれる人生を歩み、一言ではとてもくくれるほどではないほどの、多岐にわたるまさに革命的というほかないほどの、先見性に満ちたその時代としては画期的な思想を多岐にわたって探究模索し続け、思春期にプロテスタントに入信、その後キリスト者として超人的に生きて実践活動した方である。

自ら当時の神戸の貧民街に住み込み、布教活度と共に貧しい人々と共に、命がけで生活し、なおかつどうしたら、この社会的目に余る不平等の、不条理の貧困窮に対して、嘆くのみではなく、根本的な救済活度に従事してゆき、あらゆることを学んでゆく様は、まさに常軌を逸したかのような、超人としかい言えないほどのものである。このような人間が日本にいたのである。

コロナ下の今の時代、いわば忘れられているかのような偉人の存在を、土取さんは何故か私に熱く語られたのである。そのことがずっと気になってはいたのだが、昨日年内に行くことがかなって、私は叶ったことだけを簡略に五十鈴川だよりに打っておきたいだけなのだが、もう少し打ちたい。

一番札所 霊山寺

西大寺を9時過ぎの電車で出発、徳島に12時過ぎに着き、ローカル線で板野 に向かう。スマホでそこから歩いて20分とあったのでゆこうと駅にいた方に道を訪ねると、とてもではないが歩いてはゆけない車でも10分以上かかるくらいの距離とのこと。

だが、姓を書かせていただくが、橋口さんという、私と同年代の方。お嬢さんが私と同じ電車に乗っていたお父さんを迎えに来ていたのだが、その方に道を訪ねたのである。この親子本当に親切というほかはない奇特な方で、なんとそのまま賀川豊彦記念館まで私を車に乗せて運んでくださったのである。この現代において、このような親切を受けたことの喜びを、何としても五十鈴川だよりに打っておかねばならない。何やらのお導きと思わないではいられない気がした。

まさに途方に暮れかけていた私の気持ちが、一瞬にして晴れやかになったことは言うまでもない。橋口さんには名刺を渡したので、きっと五十鈴川だよりを読んでくださると思う。この場をかりて厚くお礼を申し上げます。(このような方がまだ住んでおられるのだ、さすがお遍路の地である)

さて、賀川豊彦記念館はアクセスはともかく、とても良いところにあって一人記念館で一時間以上の時間を過ごし来てよかったと思った。帰りは賀川豊彦記念館から歩いて20分のところにある坂東駅から電車に乗ったのだが、なんと賀川豊彦記念館は、四国霊場一番札所、霊山寺のそばだったのである。

坂東駅の近くには、第一次大戦でのドイツ人の捕虜収容所があったところなのでもあった。周辺の風景の中、賀川豊彦は4歳で両親と死別、その後父の本家に引きとられ、17歳までを鳴門大麻町で過ごしている。いわばこの地の周辺大地を踏みしめて育ったのである。わずかではあるが、私も同じ大地を歩いたのだ。また再び今度は元気なうちに車出来たいと思った。

坂東駅から、徳島に出て遅い昼食を済ませ、4時46分の岡山行きにのり、西大寺駅に降りた。午後7時半、賀川豊彦記念館を詣でる日帰り旅を終えた。空には半月が浮かんでいた。

 

 


2021-12-11

古希目前の師走の土曜日の朝に想う。

うれしい 土曜日がきた、と毎週同じようなことを打っているが、いいのである。年が明けてもまもなく70歳の生誕がやってくる。別に開き直っているのではなく、(いやどこか開き直っているかな)還暦を迎えた時にも思ったことだが、老いてゆくこれからのあたえられた時間を、できるだけあるがまま、わがまま、正直に自分の体が喜ぶことをやろうと決めて、早10年が経つ。五十鈴川は流れる。感慨深い。

長女はまだ結婚もしていなかったし、次女は大学生であった。当たり前だが今は二人となった孫もこの世に存在していなかった。 来年の生誕日にはまた似たようなことを綴るのかもしれないが、あきらかに老いるにしたがって妻も、おばあちゃんも、家族の在り様も変化し、私自身もいまだ変化し続けていることを、実感しながら五十鈴川だよりを打っている。

いわく言い難い日々揺れ動く内なる思いを 、いわばとらえどころのない老年期、遊行期のつれづれを、さあ、これからいつまで打てるのかは、私自身にも覚そくないが、打ちたいという思いがわきあがる間はこれからもうちつづけたい。

とくに今も続くコロナ渦中の2年間の五十鈴川だよりは、極めて個人的な事にせよ、やがては宇宙の彼方のちりと化す我が身にせよ、いつの日にか娘たちや孫が、おじじのつれづれとしていくばくかでも目にしてくれたら本望だし、よしんば目に触れることがなくともいいのである、との軽い気持ちで、しかし当人はいたって真面目に打っていることを、しっかと打っておきたい。

このような作家がいると安堵する

さて、そしてこれから10年後私が生きていて、もし五十鈴川だよりを打つづづけていたら、果たして家族は、世界は世の中はいかなる変貌を遂げているであろうか、とまあこのようなことをおもうと、妄想老人としてはどこか安らぐのである。

日々の足元の生活を限りなく大事に、大切しながらも、どこか遠く遠くを展望しながら、生きる老いてゆく時間を、ささやかに五十鈴川だよりに込めたいとの淡いおもいは、死が近づくにしたがって深まってゆくように思える。

自己愛ここに極まれりである。どこかはかなくとも、今は見えなくなってしまった死者たちと共に、老いゆく日々をしっかと見、刻み続けたいと想うのである。

還暦の時には、まだまだやりたいことのエネルギーが勝っていたのだが、いよいよの70代は、まさに下ってゆく最中での、だがまだやりたいことが湧いてくるからだに、天然にすがりたいとの思いが静かに湧いてくる、師走の土曜日の朝である。

2021-12-09

12日I氏の御招待で瀬戸内サーカスを観にゆくことになりました。そして想う。

 3日も五十鈴川だよりを打っていないと、何やらどこかちょっと打ちたくなるから、10年近く毎日ではなくとも打ち続けていると、常態化している というほかはない。そのことがそこはかとなくうれしい。

12月も早9日だが、淡々とルーティンワークをこなしながらも、どこかいい感じで、師走の日々が送れている。12月3日の五十鈴川だよりで打ったように、I氏の突然の来訪、関係性の新たな復活が一抹の新たな喜びを加えているのも、あると想う。生きてればこそいいことが舞い降りてくる。どうすれば舞い降りるのかは各々考えるにしくはない。

この12日には、氏が理事を務める瀬戸内サーカスの香川の庭園美術館で行われる公演にご招待を受けている。もちろんご招待にあずかることにした。ひさかたの再会が実に楽しみである。

幼少のころより落ち着きがなく、軽佻浮薄、粗忽者であったがために、今は亡き父親に糸の切れた凧、どこかふわふわしているの で風船玉などと呼ばれたこともある私である。これでよくこの年齢まで生き延びてきたものだと、自分でも呆れるくらいである。

でももうよろしいのである。バカは何とか言うし、こういうままならない自分 をどこか引きずりながら、流れ流れてゆくしかない五十鈴川、といい意味でのあきらめの境地の昨今である。ふわふわ生きてきたからこそ、アフリカ音楽の豊かさが企画できたのだから。

もって生まれた器、生れ落ちた場所の問題で、今となってはこういうふうにしか生きてこれなかったのだとの、(苦い経験も多々しながら)おもいしかない。今、現在地で冬の夜明け前、こうして五十鈴川だよりを打てる幸福を天に向かって感謝している。 

冬の旅で静かに読みたい

話は変わるが、安田登氏の書かれた【三流のすすめ】という本を読んでいたく同感し、私のような飽きあっぽく、気移りのする輩には大いなる味方というしかない本に出合って、そうか私だけではないのだと(才能の差は置くとして、そもそも才能なんて何だろう)大いに得心安堵した。本当に生きてゆく勇気をいただける御本、お薦めです。

さて、何度でも繰り言五十鈴川だより、人生は過ぎゆく、一回限り。ならば、いかに生きたらいいのかを自分の頭で考え歩んでゆくしかない。セーヌ川であろうが五十鈴川であろうが、川は流れとどまらない。だが人は死ぬのだ。

話を元に戻す。とういうわけでI氏との旧交を温める結果になり、電車に乗ればればすぐにも会える距離にI氏がいるということが、なにゃらうれしいのである。この2年にも及ぶそして今も続く、コロナの出口の見えない不透明極まるパンデミック渦中の中での、きわめて私にとってはあかるい話題なのである。

またひさかたの再会については、五十鈴川だよりに是非書きたいし、わが体に新鮮な風が吹き抜けるような関係性が、老いゆく中で再びともる予感がしている冬の朝である。




2021-12-05

師走の一日、山里高梁のY氏の古い日本家屋の屋敷で、お鍋料理を美味しく頂きました。そして想う。

 高梁の山里にひとりかくしゃくと暮らしておられる。旧遊声塾生Y氏の生家にお招きにあずかり、師走の一日、この上なく粋で、私にとっては記憶に残る良き時間を過ごすことができた。そのことをわずかでも、五十鈴川だよりに打ち綴りたい。

昨夜は私にしては珍しく、いろいろな意味で刺激を受けたことであたまがさえ、全身疲れているのに眠りに落ちるのが遅くなったが、気持ちよく目覚めた。私の筆力では、一日の細部を事細かに記すことは不可能にもせよ、 記さずにはいられないのだ。

I子さんが9時きっかりに迎えに来てくれ、穏やかに晴れた冬空の元、彼女の運転に身をまかせ、私は傍らで聴き上手なI子さんに、即興あれやこれやを語り続けながら、高梁に向かった。おおよそ1時間半で少し最後迷ったが、無事にY邸に着いた。

Nさんは所用でおくれてくることになり、二人での意外なドライブをI子さんはともかく、私自身は娘に語り掛けるかのように気楽に、一方的に多くのことを語り続けられた。このような時間は、めったなことではありえないので 、運転しながら聞いていたI子さんはさぞかし疲れたことと思う。この場をかりて(ありがとね、I子さん)とおつたえしておきたい。

さて、Y氏はまったく以前と変わらず、良き暮らし、生活をされていることがたたずまいからわかった。おおよそ2年ぶりとは思えぬさわやかな笑顔の自然体で迎えてくださった。私はその瞬間に来てよかったとの思いに満たされ、私にとっては大兄のような氏に、すぐに焚火がしたいとわがままを申し出た。

氏は不肖な私の申し出に、すぐに焚火の用意をしてくださり、3人で火の周りに集まり、焚火に打ち興じた。年齢を忘れ、しばし童心に還る。火は内なるざわつく心を鎮めてくれ、油断するとすぐにたまってしまう心の雑念や煩悩をはらってくれる、私にとっては魔法の杖のような遊び心儀式、いわばひさかたのお招き再会の始まりには、必須だったのである。

焚火さえあれば、私はどなたとでも打ち解け合える。遅れてやってくるNさんが到着するまで焚火を続ける。3人でモミジの枯れ葉や小枝を集めては 弱火の焚火遊びをしていると、Nさんが到着した。わずかな時間ではあったが4人で良き焚火時間を過ごすことができた。

焚火を終え、Y氏が用意万端準備整えてくれたシシ鍋を食す暖かい部屋に移動し、鍋奉行のY氏にお任せする。みそ風味のだし汁の入った黒い鍋がすでに煮立っている。最初まず近所で捕れたイノシシの肉をふんだんに放り込み煮込む、イノシシの肉は煮込むほどに柔らかくなると知った。

写真はY氏から送られてきた一枚です。

そこに火の入るのが遅い野菜を順番に入れ、白いふたをししばし煮込む。(鍋は黒ふたは白である)火が通り、いただきますと我々3人は、ただしばし黙々といただいた。すぐに体がポカポカ、温風ヒーターを消し、口数少なくただいただいた。

とてもおいしく一人ではない昼食を、こんなに多くの量をただいたのは手術後初めてである。初老男の胃袋に高梁の大地の恵みがしみたことの有難さを、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

ともに食していると穏やかな時間が流れ、ずいぶんあっていなかった空隙を埋めるかのように、会話も自然と流れて、コトバは不要の心地いいとしか言いようがない、いつもとは異なる眼には見えない山里の神が、しばしわが体に取りついたかのようなこころもち、身体は山の神、自然と一体化つながっている。

我々3人はふんだんにY氏の畑地が生み出した幸、白菜、ネギ、ニンジン、大根、春菊、水菜、ゴボウ、(豆腐、こんにゃくなど以外のすべて)をいただいた。おいしく、ただ在り難く舌鼓をうった。

おなか一杯になり、別室で音楽を聴きながらコーヒータイムと団欒タイム。氏のコレクションの中から、Nさんが選曲、バッハのシャコンヌ(聴いたことがあるが曲名は知らなかった)。そしてピアノが堪能なNさんがいま取り組んでいる、展覧会の絵の曲(ムソルグスキーだったか、間違っているかもしれない)を聴いたりしながら、何とはなしに会話は自然に流れた。このコロナ下Yし邸で、このメンバーでたまたま過ごしているこのいっときが、やはり何かのお導きのようにわたしには思えたことも、打っておこう。

師走の山里の日暮れは早い、あっというまに時は流れる。最後氏が新疆ウイグル自治区への旅で求めたという、珍しいお茶をふるまってお開きとなった、なるはずだったのだが、今ニュースになることが多い、新疆ウイグル自治区への旅で、たまたま見知った氏の直接体験リポートのお話は、私にとっては意外な展開のお開きとなり、束の間の夢の時間から、反転して現実の世界が抱えている問題へと頭のスイッチがきりかえった。

明日から、これからをいかに生きてゆくかについての現実世界へと還ってゆくのには、ウイグル自治区のお茶と、初めて耳にする氏の旅の話は、私と氏との関係性により一層の色どりを加えたことも、打っておきたい。

遊声塾ではやれなかったことをこそ、これからやりたいがためにこそ、音読自在塾に始めた私には、世界の不条理に置かれているあまたの国々の、国家のことではなく、民族の民の声にこそ耳を傾ける一歩として、一人ででも音読自在塾をやりたいし、もし賛同してくれる方がいたら、自在に思考しながら、これまで出会えた方々や、そしてこれからの未知の方々とも連動したいのである。

社会的な不条理 、国家的な弾圧、ジェノサイドの隠蔽、あまりにも常軌を逸した人民弾圧、行き過ぎた暴力、差別や偏見や力と金での権力行使に関しては、初老凡夫、五十鈴川だよりでごまめの歯ぎしりであれ、勇気をもって発言したい。

もうほとんど失うものはな年齢である。楽なところにいてであれ、おかしく感じることには、勇気をもって発言する五十鈴川だよりでありたい。(もうすでに書いているが)

PS 氏は最後我々3人にお土産に焼き芋(これが素晴らしくうまいのだ)をくださった。帰路私はめったにない機会だと思ったので、よろしければとNさんを我が家のお茶に誘った。即オーケーとなり、意外な展開は流れ続き、はじめてNさんのお話も直接お話を聴くことができて、お茶に誘ってよかったことも、きちんと打って起きたい。時計は夜の9時を回り、おおよそ12時間にわたる、Y氏の住む高梁への旅をつつがなく終えることができたことの慶賀、往ってよかった。しっかと五十鈴川だよりに打っておく。


2021-12-04

旧遊声塾に最初から最後まで参加してくださったY氏の生家にお招きにあずかる日の朝に想う。

 コロナ下ということは差し引いても、この年齢になると、朝がやってきて来て五十鈴川だよりを打とうという気がおきることが、生きていることの確認、生へのきわめてわがままな自己愛的執着、その自覚が私にはある。(何やら打つことが、書くことが好きになりつつある)

夜露をしのぐ身に余る部屋があり、食べ物衣服があり、何よりも家族や大切な方々が健康であり、私自身の心が平安であるということの自覚がなければ、能天気に五十鈴川だよりなど打てるはずもない。

私にとっては生まれて初めての大きな手術体験が、性格はともかく、何か新しい世界をもたらしてくれたことは、術後9か月の今、まず間違いない。その新しい世界がどのようなものであるのかは、まだようとしてわからないのだが、老いつつある中での、いわく言い難いおもいは、手術しなければけっしてこのような気持ち生まれてくることはなかったであろう。

さて、今日は旧遊声塾生、Y氏の高梁の生家にお招きにあずかる日の朝である。このコロナ下、Y氏にはなんどもお声掛けをいただき、ようやっと実現の運びとなった。結果集うのは私を含め3人、Y氏を入れて4人となった。



旧塾生I子さんが運転をしてくださることになり、我が家まで朝お迎えに来てくれ、NさんをピックアップしY邸までゆくことになっている。

師走のこの時期、コロナ下で遊声塾継続をあきらめた私としては、何とも言葉になしえない思いを抱いての参加なのだが、決めたのは旧遊声塾 に最初から最後まで参加し続けてくださったY氏に直接お礼と、感謝を伝えたかったからである。

コロナ渦が収まり、世の中も私自身にも平安が来たら、いずれは個人的にお会いするつもりではいたのだが、氏の旧遊声塾(生)に対するおもいの深さに感動したからである。それに全員ではなくても、今日集う旧塾生に直接私の思いが些少でも伝えられればと。(願うのである)

遊声塾を手放し、コロナが終息したら一人で始めようと思っていた音読自在塾、終息しないうちに見切り発車をしてしまったが。不甲斐ない塾長としては慙愧にたえない、制御しがたい自分という存在を、さらしたいのである。

ともあれ、ごちゃごちゃ言っても始まらない。潔く在りたい、気持ちよく在りたいというのが、正直な私の気持ちなのである。だから、今日はどこかすっきりとどこかうれしいのである。機を逃したら取り返しがつかないことが、人生には多々ある。

これまでの人生で何度かそういう経験をしてきた私である。ヒトは別れと出会いを繰り返す生き物である。別れは出会いを促す。だが、Y氏とは今後もずっと友人で居たい。そのことをただ、伝えたいのである。

I子さん、Nさんとの高梁横山邸お招き師走旅は、どのような旅になるのか、一期一会の山里旅、初冬の静けさを愛し、旧交を温め未来を見つめる老いる旅にしたい朝である。

PS 今朝の写真は、先月県立美術館の星野道夫展で求めた写真集。11月はユージンスミスの写真展も見ることがかなった。写真集も求めた。タイプは全くといっていいほど異なるが、人類の行く末に危機感を持ち続け、偉大なお仕事をされた写真家なのだということを、痛感した。

 

2021-12-03

I氏の突然の予告なしの我が家への来訪、ほのぼのと私はうれしく、再び新たな関係性を深めたく思う師走の朝。

 人が人の家を突然訪ねてゆくなどということは、電話がなかった時代を知る私としては、そんなに不自然ではなく、今となってはそのような行為が、懐かしいというよりは、ほんまありがたい、意外性に満ちた出来事として、記憶に残るしうれしいのである。

そのような出来事が昨日起こった。元アサヒビールで管理職まで経験をされ、今は企業の診断士として第2の人生を歩まれているI氏が突然夕刻、私も妻も不在の我が家に来られたのである。

不在だったので氏は玄関わきに、新しい名刺と短い文章と、とある有名な淡路島の名産を置き土産にし、まさに風のように去ってゆかれたのだった。妻は買い物、私は仕事帰り図書館で本を読んでいてあいにくの不在、面会は叶わなかったものの、コロナ下、一陣のさわやかな風が吹き抜けたかのような心持に私はなった。

氏との交友については、多分この五十鈴川だよりでも打っていると思うので、繰り返しては打たないが、出逢ってから26年は経っているかと思う。

今の時代、と人との縁が浅いというか、あまりにも複雑化された現代社会、一言でいえば本人の意志とは無関係に、分断かが進んでゆかざるを得ないような時代状況下、I氏との関係性が君子の交わりのように、続いていることが、はなはだもって奇跡のように私には思えるのである。

氏の置き土産の淡路の特産玉ねぎ

ともあれ、一足早く帰った妻から事の次第を知らされ、自室で本当に何年ぶりかで電話を通して旧交を温めることができた事の嬉しさを五十鈴川だよりに打たずにはいられない私なのである。

一口に26年、関係性が切れずに続いているということの重みは、来年古希を迎える私にははなはだもって希少価値というほかはないほどに、こころに迫りくるものがある。とくにI氏とは私が企画者としてガンガンやりたいことが湧いてきて、次々とそれが実現していた40代に出会えた幸運が。

企画者として絶えずお金の工面に頭を悩ませていた時に、アサヒビールがビッグスポンサーになってくれたことで、どれだけ助けられたか計り知れない。(インターネット以前、とにかく私は動き回ってヒトに会いに行ってスポンサーのお願いをしていた。ああ、懐かしさに打ち震える)

事お金だけのことではない、中世夢が原のあのような場所でのリスクの多い野外音楽会、それも当時としてはあまり集客の望めない企画を上司にお伺いを立ててまで、応援してくださったその先見性に私は驚かされ、まったく利害がない関係性が世代を超えてつづいている。そのしなやかな柔らかい物腰と思慮の深さは、まったく私にはないものである。

その後、私は企画をひき、シェイクスピア作品を音読する塾を始めたのだが、我々の関係性は 続き、氏がアサヒビール高松支店長時代には瀬戸大橋から月に何度か遊声塾のレッスンにも参加してくれ、(言葉数は少ないがここ一番では勇気、好奇心があるのだ)なんと発表会にも 参加したことがある奇特な方なのである。

その後、博多支店に転勤され、ともにの声出しレッスンは途絶え、そうこうしているうちにコロナというわけで、本当に数年ぶりの電話ではあったが、あっという間に音声での関係性復活がかなったというわけである。(氏も病を経験され、今後は茶飲み話相手になれる)

私には数年ぶりであろうとすぐに打ち解け合える、まさに同時代を熱く生きた空気感を共有できる、得難い友人知人が(会えなくてもどうしているかしらと気になる方が)10人くらいいる。そのことが私の全財産といってもいい。(ことがあったら駆けつける) 

コロナ下、時代の先行きは不透明だが、健康でありさえすれば、少なくとも私の周りはささやかであれ希望の明かりがともっている。香川在住となったI氏との再会は、ひょっとしなくても腹が決まれば、何か明るい企画(生き方)ができる予感がする。予告なき来訪、映画のようなタイトル。意外性のない人生なんて私には、ああ、わからないしつまらないというほかはない。




2021-12-01

師走寒風一番、朝の風の音に耳を済ませ、初老の体に活を入れる、五十鈴川だより。

 起きてメルや花にえさを与え、コーヒーを淹れ新聞を取りにゆくと、雨は上がり星が瞬いていた。さて、今日から師走である、とはいってもたぶん私の師走の日々は特段な変化はない。(ような気がする)

五十鈴川が、暑さ寒さに関係なく流れているように流れてゆくだけである。万物流転の法則にのっとって流れ流されてゆく。まだ目を通していないが今朝の新聞の一面の見出しは、オミクロン株国内初感染である。

この2年近いコロナ禍報道で、いささかどころか、おおいに私の感性感覚は鈍ってきているのをどこかで感じながらも、基本的なウイルス対策を自分なりに考え、とにかく 静かなルーティン一日を可能な限り充実して過ごが都がせるように、五十鈴川だよりを打ちながら、自問自答する。

幸いというほかはないが、以前も書いたけれど、コロナ以前あれほど人との交流時間を過ごしてきたわが人生なのに、コロナ禍でいい意味で鍛えられたのか、すっかり今のところひとり時間の過ごし方のような暮らしが、苦にならなくなってきている。

とはいっても本来のもって生まれた性格のようなものはいかんともしがたく治らなまま残っているので、コロナが収束したら、また元の木阿弥になるかもしれないとも思いつつ。

ただいまは、自分との根気比べのように、自分の無知なる世界を少しでも広げたく、読書音読労働に、勤しんでいる。努めて日々好日時間を、一日を新鮮に感じる生き方ができないものかと、思案模索探究瞑想深呼吸し、青空を眺めるのである。

このような戯言遊びを打っていると、老いの体にいまだかすかに血が全身にゆきわたり、今日やりたいことが、やれることが定まってくるのである。

古い本を読み英気をいただく

耳を澄ますと夜明け前、木枯らし風の音が聞こえてくる。まさに冬を告げる、風の音色である。昔だったら、冬、古希が近い体での外での労働などは、ネガティブでしかなかったはずなのに、いまはどういうわけなのかは、わからないが、とくにコロナ禍中生活になって、いちだんと、肉体労働が苦にならなくなってきたのが自分でも不思議である。

おそらくは、フルタイムではないからなのだということは承知しているが、日々是だけの労働に、自分の体は十分に耐えられているということの確認をしながら動く。働きたいという意欲がまったく今のところ(先のことは分からないし考えない、今日一日を緩やかにしのぐ)衰えず、慶び以外の言葉がないのである。(動けるということの何たる在り難さを、私は手術入院で思い知った、そのことは決して忘れたくない)

多分、この2年間もし外での肉体労働がなかったら、私は頭でっかちな自分でも嫌な初老凡夫に成り下がっていたのではないかとさえ思えるのである。

養老孟司先生はとにかく自然の中に身を置けとおっしゃっている。防寒対策栄養補給をしっかりとしながら、身体を広大無辺の冬の空の下にさらして動ける自分を確認しながら動かしていると、身体が生き生きと動き始め温まってくる。

けっして無理せず、登山感覚で体と対話しながらの労働の喜びというものを、このコロナ渦中で、日々私は学ばせていただいている。とくに手術後8か月、今のところかすかなめまいはあるものの(今のところ労働には全く支障はない)生活できているのは、完全にアウトドア労働のおかげなのである。

午後はまったく別のことに時間を過ごし、夜はひたすら動いてくれた体を休める。すっきり目覚める。そのあまりのシンプルさが、遊行期を生きる今の私にはぴったりなのである。

さあ、寒風に身をさらして今を生きている、あまたの労働者たちのことを想像し、先人たちの労働に想いをはせ、私自身も働くのである。

2021-11-29

何も打ちたいことがなくても、打っていると五十鈴川だよりが流れ始める、初冬の朝に想う。

 丸6時間一回も起きず、熟睡した体は在り難いことに、夜明け前のコーヒー一杯で、老いの身に灯が灯るかのように、さあ、今日も五十鈴川が打てるささやかな喜びに、心がしっとりとしてくる。

ほとんど何も打ちたいことも、とりたててはないのに打つというのは、ルーティン儀式のように、老いの繰り言五十鈴川だよりになりつつある証左であるとの自覚はある。

でもいいのである、いくつになってもパソコン画面と遊ぶかのように、キィを打つことは、老いのデジタルゲーム である、とさえ最近は感じている。

呼び水のように、今日一日を生きる、オーバーではあるものの、いわばささやかな覚悟のような儀式なの である。うつために生きているといえるのかもしれない、それはやはり確実にどかで死を意識して(そこに向かって)生きているという自覚の深まりであろう。

人生は一回限りである。メメントモリという言葉を、頭では どこかで若いころから死を意識するようなことが多かった私である。だからこのような人生を歩むことになってしまったのだと、今は言える気がする。40歳で企画の仕事をするようになり、50歳過ぎて人があまり来ないような企画をやりたくなってきたときに、いつも考えたことは、やらなかったらいつの日にか老いて後悔することがないか、考えて企画してきた。

土取さんとの仕事は依頼があれば受ける覚悟です。

2001年9・11同時多発テロが起こりあきらかに私の中で何かが変わった。還暦以後、あまりにも早い時代の推移と、人心の移り変わり、それとともにの私の心の推移、肉体的な推移で企画することは、今はやめた状態が続いている。

娘たちが成長する過程と共に、個人的に企画する余裕がなくなってしまったのである。企画することはお金の問題が付きまとうので、老いの身の肉体には、正直精神的な負担があまりにも大きく、家族に余計な心配をかけたくなかったのである。

家族に心配をかけず、しかし人間としてどうしてもやりたい企画を、娘たちの成長期と重なった50代ギリギリのところでまさに綱渡りのような状態の中で、よくもまあ、何本かの大きな自分にとっては、荷の重い企画がやれたものであると、今となっては、やはりやってよかったとの思いなのである。

企画とはやはり覚悟なのである。腹が決まり、支援してくれる人たちがいたからこそできたのだと、つくづく今となってはやってやはりよかったとの思いしかない。やってもやらなくても人生は終わるのである。企画を10年近くやっていないが、やめたわけではない。

同時代を今もいき、多大な影響を受けた土取さんをはじめ、私が直接出遭えた方々から、何かの依頼があった時には、老いの残り火をすべて傾けたいという意気は、いまだ燃え続けている。だから肉対労働も、音読も持続できているのかもしれない。

要は早い話、生きていればこそやりたいことは生まれてくるのだし、やりたいことが起こらない生まれてこない人生というものが、私にはつまらないし、【生きているのかいないのかそれが問題だ)という、ハムレットの永遠の謎に直結するのである。

 

2021-11-27

これからの冬時間、冬眠するかのように、シェイクスピア作品他を音読したいと念う朝。

 土曜日の朝がやってきた。フルタイムではなくても、好きなトレーニングを兼ねた肉体労働に勤しむことができ、日々の糊口をしのぐ生活の糧を得ることができるということの、在り難さを、今週もまた噛みしめられるのは、やはり土曜日の朝ならではである。

妻も週に何日かは働いているし、老夫婦二人の生活には今ところ何の支障もない。 時間的なことも含め、このような穏やかな現在を生きられているのは、健康だからこそなのだと、五十鈴川だよりを打ちながら、感謝の念を深める初冬の朝である。

新聞を取りに外に出あると半月が浮かんでいた。なんとも静かな夜明け前、しばし寒さの中観月とは、物好きここに極まれりというほかはない。コーヒーを入れ、おもむろに何を打とうかと思案の一時が、至福である。

心に一点の不安もなく、今在る生活 が送れていられるのは、きっと何かのお影というほかはない。このところ、ありがたやありがたやとまるで念仏を唱えるかのような、五十鈴川だよりになりつつあるなあ、と自覚している。この世の役割をほとんど終えた今、これからはいよいよの夢うたかた時間を生きたいと想うのである。

今日はどのように過ごすのかと思案橋。寝て起きて、こちら側から あちら側へとまるで死から生へと日々向かうような感覚で現在を生きる。コトバというものは不思議である。うっていると、予期しない言葉が生まれ、その言葉が、今日一日をいきる栄養のように思えてくる。まさに、コトバを食べて生きているかのような、五十鈴川だよりなのである。

さて、昨日午後とある場所に薪をもらいに妻と出かけ、年内は十分に燃やせるだけの薪を確保することができた。二人してともにやれる薪づくりとか野菜作りは、老夫婦にとって、日々の潤滑油である。幸い二人とも、お互いにおもねず自立自在干渉せずを生きているのだが、ここ一番では共通、共有して事に当たる。

この、阿吽の呼吸を生きることが、この先最も肝要なことだと私は思っている。まったく異なる人間同士がたまさか出会い、生活をともにし、やがてはそのようなことも夢うたかたのように思えてくるのかもしれないが。

音読しないと面白さは出てこない

話を変える。極めての俗事を大事に生きるのが、自分には似つかわしいとの思いが私にはある。だからきっとシェイクスピアが好きなのであり、音読したくなるのである。これでもかというほどの悪人から、聖なる崇高な人物までが、運命の糸に操られるかのように、劇中でうごめくさまはまるでこの世である。

シェイクスピアの登場人物の関係性で変化する多面性、時代が複雑化するほどに、面妖に心が揺れ動くその在り様。複雑怪奇というほかはない。聖なる世界と俗なる世界との自在な往還こそが、シェイクスピア作品の魅力である。

明日のレッスンは、Kさんの提案でシェイクスピアの【尺には尺を】を音読する。そうそう他者と共に、何度もは音読できない。時間は有限。膨大なシェイクスピア作品群であるが、一つ一つの作品を少しでも、深く味わいつつ音読するこれからの冬時間をこそ大切にしたいと念う朝である。


2021-11-26

五木寛之さんの骨がらみのジェンダー偏見発言に、戦後昭和男として忸怩たる思いを抱えながらも共鳴する。

 先日の日曜日M新聞一面に、五木寛之さんと池上彰晃さんの紙面対談が掲載されていて、五木寛之ファンの私はすぐにめをおとした。見出しに骨がらみジェンダー偏見とある。

朝から、しかも五十鈴川だよりでジェンダーに触れた一文を打つことは、あまりに荷が重いというか、あらぬことを打ってしまいそうで、気の弱い私としては これ以上打つことは控えたいのだが、大いに私は五木寛之さんの考えに共鳴したことだけは、正直に打っておきたい。

ただ、かくもジェンダー問題が、ジェンダーという言葉が頻繁にあらゆるメディアでこの数年取り上げられるようになってきたのには、きっとなにがしかの時代が要求する、目に見えない波動のようなものがあるのには違いない。そのこと事態はとてもいいことだと私は矛盾をどこかに抱えながらも、おもっている。

私など、五木さん語るところの、アンコンシャスバイアス(無意識の偏見)が多分に染み入っているのをどこかで自覚している。幼少期から少年期、環境や親の世代から受け継いできた生活の中で、自然となじんできた感覚というか、偏見や差別は、コトバにはしなくても、無意識の中に、膨大に眠っているような気がしている。

私が26歳の時に買った初版本

だから、どこかしら眠ったままにしておこうなどという意識しての、時代にそぐわない自分というものを、どこかしら後ろめたくもおもいながらの、自分を生きてゆかざるを得ないような、ある種の名状しがたい思いがあることを、正直に打っておきたい。

話は変わるが、先日シェイクスピアのベニスの商人を音読したのだが、あの当時のユダヤ人差別のすさまじさが、シャイロックの台詞にこれでもかというほどに込められている。長くなるので、作品を読んでいただきたいと思う。あの時代に強烈なる個性、シャイロックという人物を書いただけでも、やはりシェイクスピアは偉大である。

400年以上前の作品なので、今の私には要所要所に時代にそぐわぬ古さを感じるところもあるにもせよ、シャイロックの台詞を聴いていると、あまりのユダヤ人への差別と偏見に驚かされる。それは遠い過去の物語のなかの出来事ではなく、今もなお続いている普遍的な問題であるのだと、コトバを言い換えてもいいのかもしれないと思える。

落語は言うに及ばず、文學作品、シェイクスピア作品の登場人物が語る言葉には、差別と偏見に満ちた言葉が枚挙にいとまがないほどに出てくる。フィクションとしての表現の自由と、差別のの問題のむつかしさは、これからもずっと議論され続けながら、きれいごとでは済まされない人間の存在の奥深さの謎と共に、考え続けてゆくほかはない、のだろう。

とまあ、今朝は意外な展開の五十鈴川だよりになったが、いろんな骨がらみしがらみ問題、簡単にはゆかない この世のありとあらゆる諸問題に対して、感性を閉じず絶えず時代の行く末を見つめ発言、作家として今も原稿を書き、齢89歳でのあまりの思考のみずみずしさに打たれたこと、きちんと打っておきたい。(少しでも学びたい)

2021-11-23

雨の翌日、季節が確実に冬の到来を告げる朝に想う。

 音読自在塾をはじめてから、レッスンのことを、ずいぶんこのところの五十鈴川だよりで打ってきたが、おとといのレッスンのことには触れていない。逐一触れなくてもきちんとレッスンは行われているので、ことさらなことがない限り、音読自在塾のレッスンのことには、今後はあまり触れなくなると想う。

Kさんとのレッスン、二人での時間が持続的にやれそうな感じがしてきたのである。持続継続根気稽古で、シェイクスピア作品の登場人物の言葉を、繰り返し音読する中で、Kさん自身の中に、目に見えない何かが育ってきそうな、予感がしてきたからである。厳しい稽古に月謝まで払って、Kさんは挑んでいる。

そんな、ほぼ2カ月近く二人だけのレッスンが続いているなか、おとといのレッスン中、旧遊声塾生A子さんがレッスンを見学にきた。A子さんの突然の稽古見学は、まったく予期しないものだったのだが、何年にもわたってともに稽古をしてきた関係なので、阿吽の呼吸で、2年近く会っていなくても、すぐに時間を飛び越え、すんなりとレッスン空間場所にいても少しも邪魔にならず、私はKさんとのレッスンを持続できた。

うまくは言えないのだが、ただ来てくれただけでもそれだけで十分に嬉しかった。音読自在塾のレッスンは、ことさらなに特別なことがあるのでは決してない。きわめてシンプル。現代人にも通用する翻訳(ある種の部分は翻案に近い、とくに小田島訳は)言葉言葉を繰り返し、あたかも作品の登場人物が今そこに生きているかのように、真実感をもってただ、音読するだけである。 

自在塾で音読したい作品です。

全神経を集中し、耳をそばだて、自分の体が発する声で、登場人物に寄り添ってゆき、結果虚構の中で(嘘の真実)なりきるのである。その過程を生きることが、音読塾のレッスンなのである。相撲の稽古のようにつらいのだが、あの長いセリフを一気に読めた時の快感はサーフィン(やったことはないが)で波に乗れた時の感覚近いものがあるのではと、想える。(相撲と決定的に異なるのは、ある程度の人生年齢を経ないと、経てから始まるのである)

ただ音読するのではなく、必死に音読する。無になっての(なれないがなるのだ)稽古にKさんは挑んでいる。今はまだ始まったばかり、これから高峰そびえるシェイクスピア作品の登場人物の置かれた運命の過酷さを音読することで、 いやがうえにもKさんの内面と、身体は磨かれてゆくことを、私は確信する。

それはおそらく、挑み続けたものだけが手にしえる果実なのではと考える。それほどまでに挑みがいのある、現代にも通用する強烈なキャラクターが、シェイクスピア作品群の中には存在する 。Kさんにはまだ間に合う時間が十分にある。そして、私にもまだいくばくかの時間が。そこを生きるのである。

体はやがて老い、声が出せなくなる摂理である。だが今のうちに徹底的に挑んでおけば、枯れつつある体からでも、命のささやきのような声が出てくる、出せるかもしれないと、不思議な体に問わずにはいられない老春期なるものに挑みたいのである。

何よりも音読自在塾は、下り坂に花を求める塾(受苦)なのである。年齢問わず、本気で音読したい方がいれば、門戸はどなたにであれ開かれている。ただ、覚悟が必要である。

PS レッスンを終え、Kさん、Aさんとしばし我が家でお茶時間が過ごせた。これまでのわが人生の、ささやかな足跡が詰まった書斎でしばし立ち話ができた。苦しい稽古をともにできる自在塾生とは、風通しの良い関係性で在りたい。


 

2021-11-21

晩秋、初冬、二つの居場所を往還し、老人力を養う遊行期を楽しみ、生きる。

 もう6時を回っているのに、部屋の西の窓からはまあるいお月様がのぞめる。東の空は明るみ始めている。昨日も打ったし、ことさらに打つことももはやないのだが、打ちたい自分がどこかに生きている。

これを煩悩というのなら、良き煩悩と私は考え、水が流れる方向に流れるように、まさに自在に打ちたいように、言霊が浮かぶからだと自在に対話しながら、打ちたいように打てればという、いまだ外見年齢にそぐわない、青二才感覚が抜けきらない、初老男である。

でもいいのである。こういう自分を肯定感をもって受け入れながら、あくまでもどこかやるせないほどに頑固に、今は亡き父のように、(できるだけ自分のことは自分でやりできるだけ周りに迷惑をかけず)囲碁三昧ではなく、音読中心自在三昧で生きてゆければ、事は足りる今である。

本当にやりたいこと、やれることにのみ、エネルギーを費やす生活を一日いちにち過ごせれば、個人的には十分なのだが、時折休火山が噴火するかのように、老いの乾坤一滴感覚で、どこかに向かって、矢を射る情熱は持ち続けねば、無念の先人たちに申訳がないのは、先日の五十鈴川だよりに打ったとおりである。

チェーホフ作品音読し続けたい  

話は変わるが、落ち着いて物事がゆっくりと考えられる場所、居場所があるということの有難さを、つくづくコロナ渦中の今、感じている。いま五十鈴川だよりを打っている部屋のほかに、私にはもう一つ心が安定する居場所がある。

それは、この3年間肉体労働しているアルバイト先の作業道具小屋である。菜園場 もあり、昨日も出かけたのだが、働き始めた当初、先輩のTさんと二人で、雑然としていてスペースがなかったところを片付け、Tさんがどこかで机を探してきてくれ、秘密の隠れ場所として重宝しているのである。お茶も沸かせストーブもあるので、特にこれからの冬時間を過ごすのには、私にとってまたとない居場所なのである。(ここだけは秘密にしておく、妻以外)

休日は誰もいないし、声を気兼ねなく出せるので、このコロナ渦中どれだけ、今現在も助けられているかわからない。家から十数分でゆけるので、今日も午前中ゆくことにしている。

限りなく蜜とは程遠い肉体労働と、そこにある限りなく落ち着く居場所のおかげで、私はコロナ渦中を充実して生きられているし、ささやかな菜園場の野菜の成長も楽しめる。また、春の手術後の退院して七日後からの肉体労働、天と地の居場所のおかげでどれほど私が助けられているかは、計り知れない。すっかり健康ライフを取り戻すことができたのは、何といっても自在場所のおかげと繰り返し打っておきたい。

ところで、昨夜から我が家の薪ストーブに火がともった。いよいよ冬到来だが、何とバイト先には、ストーブの焚きつけに使える小枝や、枯れた薪材なども手に入るのである。何と私には、恵まれたバイト先であることかと、虚心に感謝する。

繰り返しこころするのは、お金や物では満たされない、永遠の消費にあおられる生活とは無縁時間を過ごすことである。見えないものに感謝し、想像する力を養う、それこそいっとき流行った老人力を鍛えるのには、絶好のまたとない居場所なのである。静謐時間のゆたかさを堪能しながら、今日は午前中2時間程度チェーホフ作品を音読する、のだ。


2021-11-20

大相撲九州場所を、見続けながら初老凡夫は、裸のお相撲さんからエネルギーをいただく。

 いまだ起き上がるときにかすかなめまいが続いているが、朝日を浴びて動いていると普段通りに動けているので、今週も何とか肉体労働をやれ、うれしい土曜日の朝を迎えている。

月食を見ることは叶わなかったのだが、月の満ち欠け、昨夜の満月は夜中外に出て月光浴。雲がほとんどなかったのでそのあまりの夜の明るさを、しばし体で堪能した。(このコロナ渦中の私の楽しみの一つは月の満ち欠けを、愛でることなのだ)

さて、大相撲が始まっている。私は相撲が大好きである。年齢を重ねるにつけ、相撲の奥深さ、人間性がその置かれている立場で、このようにも過酷に心技体があらわになる世界を私はほかに知らない、魅入られてしまう。

そして、いつも不思議だと想うのは、地位が上がるにつけ、怪我や病気などでいったん地位が下がるにつけ、人間の顔つきが微妙に揺れ、千変万化することに驚かされる。まさに人生の縮図をそこに私は感じる。

わけても一番感動するのは、怪我や病気他の、あらゆる肉体にかかる負荷を克服して土俵に復帰して、番付を上げてゆく力士の顔を見ていると、なんとも言えない。本当にいい顔に変化してゆくのである。大人の顔になるのには、どんなに時代が変わろうが男は試練を乗り越えないと大人にはなれないのではと私は考える。(人間はと言い換えてもいいのかもしれないが)

全力で 生きている、知力の限りを尽くして、相手と自分とたたかっている姿が、裸の姿で、あまりにも赤裸々に浮かび上がってきて、どこか身につまされながら、まさにあのまあるい小さな土俵の中に、この世のあまりの熾烈というほかはない、残酷なまでの現実が、世界が時折浮かび上がってくるのを私は感じるのである。

勝者と敗者のあまりの相違。不条理劇を描いた最初の劇作家 といわれるサミュエルベケットは、世界の涙の量は一定である。誰かが泣けば誰かが泣き止むと書いている。誰かが勝てば誰かが負ける。勝負の世界のあまりの過酷な現実と醍醐味が、時折体力差含めあまりの不条理なまでの現実を感じてしまうのは、私だけではあるまい。

だが大相撲では、本当にたまにだが、想わぬ番狂わせが、時に一瞬の狂風が吹いたかのような、逆転劇がある。その時の館内を飛び交う座布団の嵐は、まさに熱狂である。

わが国の古典を学びたい

小学生のころ我が家に初めてテレビがやってきて、60年近く相撲を見続けている。時代と共に外国人力士が増え、様々な時代にそぐわないような問題を抱えながらも、大相撲の魅力の本質は土俵上に、まさに人間の熾烈なドラマとして今を生きている私の胸に響いてくる。

観客席が取り囲む中での、かこくきわまりな、肉体と肉体のあまりに嘘が入りこむすきがない中での、人間同士の攻防。

勝者が敗者をいたわる戦ったものだけが、肉と肉が触れ合ったものだけが知る、微妙な男同士の無言の会話。そういった世界に痩せた初老単細胞男子の端くれの私は、つまり妄想を抱えて、感動するのである。

いきなり話は変わるが、シェイクスピアは人間とは嘘をつく、ふりをする生き物だと、喝破しているが、この世は嘘まみれ、泥まみれだからこそ、たまさかの真実に人々は熱狂するのかもしれない。

シェイクスピア自身、フィクション化、膨大な都合のいい作品の中に普遍的にヒトの心の隙間に届く言葉(真実)を星の様にちりばめた作家なのである。だから私はこよなく嘘を愛しながらも、ある種の嘘を憎み、限りなく嘘の心を宿しながらも、限りなく純粋に裸で勝負を土俵上で行うお相撲さんから私自身の穢れのような心が洗われてゆくのではと、考えている。

ちなみにごひいきの、お相撲さんが何人かいるのだが、一番は照ノ富士関である。可愛く、風格が漂ってきて、しぐさの一つ一つに惹かれる。勝負目前、顔面が赤い血潮で 満る。カッコイイというほかはない。

2021-11-18

めまいのするからだとお付き合いしながら、もの想う朝。

 朝起きるときも含め、横になって立ち上がる時の軽いめまいと、かすかな吐き気の、(ひどくはないのだが)のような状態が4日かほど続いている。それでも動いているとこうやって、五十鈴川だよりを打つ気になるから、と自分で自分に暗示をかけるように、気を入れている。

これを年寄りの冷や水というのかもしれない。人間冗談も言えなくなったらどこかものがなしいとはいえ、軽いめまい程度で済んでいられるからこそなのであるが、やがてはめまいなどでは済まないことにならないように気をつけねばならない。

もう十分に若くはないのだということを、あらためて思い知らされる、冬が近い 晩秋は昭和男の私には、ひときわ物悲しさが、移ろいゆく日々が一段と沁みる、落ち葉の季節である。

このような事ばかり打っていると、気が滅入ってくるが、五十鈴川だよりは自分で自分を鼓舞するために打っているので、落ち込んでくるような拙文、駄文は打ちたくない。嘘とまでは言わないが、どこかしら日々の暮らしに、一滴の潤いのような元気が湧いて、日々の潤滑油のような五十鈴川だよりを打ち続けられれば、本望である。

何よりも、今在る自分ほかを含めどのような悲惨な情報他耳にしても、あまねく太陽が万物を、公平平等に照らすように、そのような目線感覚、地上数センチから世界を、あたまを低くして世界をとらえる感覚を、老人を自覚する私は、光、土や水酸素から学び続けたいし、そのような老人の繰り言感覚をこそ磨きたいと、めまいのする体をいたわりながら、しっかと今を生きている、血迷う感覚を大事に生きたいと、悪あがきではなく、よくあがきをするのである。

おぎゃと生まれて、間もなく古希、声が出る間は声を出し、動ける間は肉体労働というか、天の下での酸素すいすい労働、この惑星に生まれし、幸運不運全部ひっくるめて私は肯定的に生きてゆく側に立って生きてゆきたい、という淡い幻想をもつ。

だが、日本以外の国々に暮らしている、あまたの国々の多くの民衆、いや日本でも私の知らないところや、目に入らないところで、困窮の極みをの中生活している人たち、俗にいう私を含めた一般大衆は、選挙に行くことにも絶某しながら存在しているのではないかと、想像の羽を、めまいを覚えながら伸ばすのである。 

きれいごとを打つのは簡単であるが、ではどうしたらいいのか。18歳からなんとか自分の食い扶持を養いながらこの世の、身過ぎ世過ぎをしてきての現在だが、今現在の私の置かれた生活状況は、半世紀前とは考えられないくらいの豊かさを生きられている。ヒトの嫌がる肉体労働のおかげで。(いつできなくなっても悔いはない)

なぜ、この年齢であえて肉体労働をして、音読するのか、はっきりと打っておこう。それはあまたの無数の死者(近親者たちのみではなく)たちの眼に見えないエネルギーを感じるし、そのことを忘れないためである。

音楽会や数多の芸術や文化に一生涯触れることなく生命活動を遮断され、あの世にゆかれたかたがのおもいを忘れたくはない、という感覚なのではと考えている。何か申し訳ないのだ。私の記憶の中の祖父母は、生涯ただ働き、時代に翻弄され、多分苦労続きの中でいき、子育てをしっかりとしてきたのだと思う。

私の両親にしても然り。そしてそれは多くの日本人が、明治からつい数十年まで、いきて辛酸をなめつくしてきながら、子育てという大事業を成してきたのだと、孫に恵まれて、私はようやく思い知らされているのである。

時間を見つけて読みたい作家である

ところで、【めまいのする散歩】というタイトルの武田泰淳の小説があったと記憶する。軍隊経験のある方々の小説を、元気な間に読みたくなっている。

コロナが収まって自由自在になったら、自在塾者として、自在にわがままに少数者を対象にした音読活動を、我が家か、口が動く間にどこかでやれたらと、夜明け前の西の空に浮かぶ満月に近いお月様を眺めながら、想う朝である。

2021-11-16

生まれて初めてかすかなめまいを覚える最近の朝に、世界の不条理に初老凡夫はめまいを覚える。

 一昨日の朝起きるとき、人生で初めてめまいを体験した、実は昨日の朝も、今朝も軽いめまいを感じたのだが、起きて歩いていると普通にふらつかなくなるし、昨日は普通に肉体労働も、おとといは音読自在塾のレッスンもでき、今朝もこうして五十鈴川だよりが打てるし、労働したいという気持ちほか、やりたいことができることにはことさら変化はない。

写真 BY K・YOSIHARA
ただ改めて今更のように思うのは 、わが体にある種の異変が生じれば、普通にできていたことが、まったくできなくなる年齢なのだということのあらためての自覚の深まりである。このように当たり前のように打っている五十鈴川だよりも、ぱたりと打てなくなるということである。

そのことは、3月の手術入院で一度経験している、その経験があるがために、いつ五十鈴川だよりが打てなくなっても、さほどの後悔はないが、音読ができなくなるのはやはり困るので、ひどくなる前に一度医者に診てもらおうかとは思案中である。

だが今朝は五十鈴川だよりが打てる心と体がある、ほっとしている。悲しいかな私は自分中心にしか、物事をとらえられない哀しい性を、生きている。

話を変える。昨日夕飯中、コップ21、温暖化のニュースや、アフガンの人たちのかなりが、食い物がなく冬が越せないのではないかと 、危惧する報道が映像と共にながれた。一方で大谷選手の報道など。私はこの数十年、いつもあまたの世界に関する報道を耳に、映像で間接的に、目にするのだが、自分の感性がもはや、無感覚、無痛覚になってきているのではと、危惧している。(だが老いの身で何かしたいと思案している)

ことさらなことは何もできなくても、いつ何が起きても不思議ではないほどに、世界の持てるものと持てないものの、複雑精妙な強欲資本主義のからくり構造、初老凡夫の頭では到底立ちうちできないほどに、広がっていることの不条理を、ごまめの歯ぎしりのように打っておかねば、どこか人間としてやるせなく、忸怩たる思いである。(もう半世紀以上にもの長きにわたって私の中世夢が原ほかでの企画は、このやる瀬なさが生み出したものである)

持てる者が持てないものを見下ろして着飾り平然としていられる感覚の分断、せめてあまねく、全地球上に存在する民、人類が飢えない程度の人道資本主義、民主主義が行き渡るような仕組みを、構築できる人物の出現を想うのは、私だけではないと考える。

こんなことを打っても、虚しさはつのるが、そこはおおらかに絶対矛盾的に大空を友に私は何人かの信頼できる知人友人に声をかけあるいは、一人ででも音読したりせて、(コロナ後実践してゆく準備をしている)不条理極まる世界の、もっと打たなくても、人類がこの先、未来の人たちが安心して生きてゆけるための、環境を遺してゆける英知をこれからの10年で築かないと危ないと、どこか多くの心ある方が、漠然とした不安感を抱えながら生存しているのではないかと、私もその一人である。

SDGs、ひょっとしたら時すでに遅しというところまで来ているのかもしれない、というは嫌なおもいの深まりは、私自身がCO₂を出す車に乗り続け、プラスティック製品を日々買わないと生きられない資本主義社会経済にからめとられているゆえなのかもしれない。

だがまだ間に合うのだという側に立たないと、という淡い願望を持つのは、孫の存在が老いの身にかすかな灯を点すのである。孫の存在は、世界の子供のこれからの未来と、ささやかに連動する。世界のあらゆる不条理に対して声を上げ続ける五十鈴川だよりでありたい。

2021-11-14

 昨日、オフタイムの午前中、とある場所で久しぶりに夫婦での二人時間を過ごした。お花を生けるのに用いる、ガマ、といわれる植物を採りに出かけたのである。妻はお花が大好きなのである。華道とかは習ったこともないそうだが、ほどんど自分で育てた花や、植物を年間通して、家の内外に花がある。まったく関係ないが、愛猫の名前も花である。

トイレ、浴室はもとより、意外な場所に可憐な小さなが置かれている。このような私にはない特質というか、美質をともにくらすようになるまで私は知らなかった。つつましく、小さきものに、そしてあまねく近しい存在にほとんどのエネルギーを費やして足りる生活の中に、充足しているかのように、私には見える。

昨日妻が撮りました

足るを知ると、言う賢者の言葉があるが、私にとってはさしずめそのような存在なのである。五十鈴川だよりでは、彼女が嫌がるので、これ以上は打たないが、ともあれ昨日は彼女のドライバーを務め、私自身もいつもとは違う時間を過ごせ、良き気分転換になった。

そして、夫婦二人でのこれからの時間の過ごし方を、大切に生きねばと秋空のもとで思案したことは五十鈴川だよりに打っておきたい。

ところで、五十鈴川だよりの写真自分で撮って入れられるようになってきたので、Kさんの写真と併用でゆくことにしました。Kさんに負担をかけたくないという思いと、自分の拙文にはやはり自分での写真をとの思いも募ってきたのである。

上手下手ではなく、撮りたいものや、こころが動いた瞬間をスマホで切り取りたいという思いが、強くなってきたのである。文章だけの五十鈴川だよりではなく、写真を自力で入れたくなってきたからこそ、Kさんや妻のおかげで入れられるようになったのである。

以前は昔人的気分から文字だけでもいいという、どこか慢心感があったのだが、しゃしんの魅力にあらためて、惹かれる自分がいるのである。夕方運動公園でルーティン散歩しているときに出会う人とか、子供とか、落ち葉とか、犬とか、そして空とか、樹木とかを無償に撮りたくなってきたのである。

来年は古希を迎えるので、意識的に写真を撮る、という時間もまた大切にしたいと想うのである。論より証拠、とりあえずは先ずは五十鈴川だよりに、身近なこの世のわが生活をとれればと願う朝である。


2021-11-13

秋の陽光が差し込む部屋、今朝はこのような五十鈴川だよりになりました。

 手術後の春の労働中心生活、暑いさなかでの夏の労働中心生活、そこに秋が来て、音読自在塾が加わり、何やらやはり声を出すことで、すべてが私にとっては良き方向に動き初めていることを、臆面もなく打てる幸せを実感している朝である。

孫が成長してゆく過程で、読み聞かせを一年でも長く続けるというただそれだけの目的だけでも、どこかしら今の私はささやかにときめく。新しく読みたい本をどれにしようかと、還暦での人生再出発ではなく、手術後の再出発のような心持で、実りの秋を生きられている今が在り難い。

音読自在塾をはじめてからの、充実しながらもどこかしらのハードワークがたたったのか、今朝はいつもより起きるのが遅かった。でも睡眠が満ち足りたわが体はどこかすがすがしい。でも無理はしない。今日は午前中オフタイム頭を空っぽにして散歩でもしよう。

とはいうものの、日々の持続的な決まったルーティン日課のようなこと、(五十鈴川だよりにはことさらには書いていないが)は、特に休日は欠かさずやることには変わりはない。明日は9かいめのレッスンがあるし、日々の生活の中に、ささやかにもあれやこれやのやりたいことが、老いつつも増えてくるのは、やはりありがたいことと、念仏のように繰り返す。

時折記事を切り抜くノートから

五十鈴川が流れるように私の時間も流れてゆく、そのことを どこかで感謝できていることが、ありがたやなのである。とまあ、このようなことを打っていると目の前の青い空が、いちだんと青くなっている。労働しているときに一番眺めるのが空と雲の流れと大地である。飽きない。(所詮人間は大地をゆききするいきものである)

昼だけではない、昨日も日没時いつものように 運動公園でルーティンワークをしていたら、見事な🌓、しばし寒さの中一人観月。大いなる蒼穹に我ひとりを、ただ感じる感覚を私は養いたいという、欲求が以前よりも深まってきている。

以前は人とのつながりのようなことに、関心の重きが何十年にもわたって続いていたのだが、そのようなことももちろん続いてはいるのだが、物言わぬ大天蓋、大空、広大無辺宇宙の無数の星々との無言のつながり、足元の雑草の無言の花々のけなげな美しさに、魂が揺れ動く。これまたありがたやデアル。

聖なるものと、俗なるわが心を自在に行き来する。揺れる老いこころ、今この世に存在するということの不思議、光と土と水からネギが育つように、わが心にもなにがしかの栄養素を日々注がなければ、と祈りすがる。

見えないものに、遠くの彼方に耳を澄ます感覚、感性を養う。現世の、人間が作った一見気持ちよくきれいな不純なものに、かどわかされ毒され続けるのではと、危惧する。



2021-11-12

2021年、昨日瀬戸内寂聴さんの訃報が知らされた、11月12日の朝に想う。

 東京から戻って、今日を入れれば4日連続して肉体労働をし、3日連続して五十鈴川だよりを打って、今また打っているから打ち終われば4日連続になるが、打ちたくなる自分がいるだけで、遊ぶかのように打てる自分が、この歳になっている。そのことをどこかいいことなのだと、言い聞かせる唯我独尊的な自分がいる。

小さな子供が、一人で お砂場遊びをしているかのように、初老男児の今を生きているだけである。お金を消費して遊ぶのではなく自分の内面生命生活をそれこそ、日々是好日的に生きることが、生きられることが、遊ぶことが最近の私の贅沢である。

そして、先の上京の際のように、ここ一番の時に、必要な時にいくばくかの使えるお金があれば今の私は満足である。お金というものは、魔物である。ヒトを生かしも殺しもする。だから、お金とある種の女性を極端に私は警戒する。お金に、女性に弱い自分を知っているからである。

というわけで、何回も書いているが、老いてきたらお金に執着しない、ある種前近代的な、持たないことを楽しむ、その日その日の風が体を吹き抜けるかのような生き方が、これからの私の目指す、方向性のような気が最近特にしている。

感動しました。

ほとんど一気書きに近い、極力推敲しないその日五十鈴川だよりなので、変換ミスがやたら多いけれども、かまわないのである。読んでくださる方は想像力で補ってくださるものと確信している。

人数の多寡ではなく、読んでくださる方がいる、ということが私にはうれしい。間接的にどこか闇の中で、見えないところでつながっているかのような、幻想がわたしをして、五十鈴川だよりを打たせるのである。

労働するのも、読むのも、打つのも、何をするにしても、やはり体全部がどこか健やかでないと、無理である。先の手術で私は健康に体が動くことの、在り難さを思い知らされたのだ。(臆面もなく打つが、本質はともかく私の中の何かが変わったのである。理解されなくても構わない)

だが我が拙五十鈴川だよりでさえ、打つ気がおきないなんてことがやはり老いと共に、いつの日にかはやってくるのだろう。自然の摂理を私は受け入れたい。だが今はまだ打てるし働く意欲も湧いて、天との対話もできる、いわば実りの秋を生きられている。歌の文句ではないが、今はまだ人生を語らずである。生きたい、未来へ向かいたい、という老いの幻想に近い何か淡いおもいををはせ、老いゆく肉体にしがみつくのである。

さて、いきなりだが瀬戸内寂聴さんがお亡くなりになった。謹んでご冥福を祈る。命はやがて見えない世界へと旅立つが、そのことは素晴らしいことではないかという気が最近し始めている。生命の誕生だけが素晴らしいのではない、と。

死もまた、年齢とは関係なく十分に生き、与えられた命を全うした方の人生は、すこぶるどこかすがすがしく、まさに後光が刺す。美しく枯れ逝くには、いかに生きればいいのかが問題である。

2021-11-11

ジョニー・デップ演じるユージンスミスのMINAMATAの映画を見ることができました。

 私の娘たちの世代は、もうほとんど水俣病のことは知らないないだろう。だからといって私が水俣病について深く知っているかというと、ほとんど大差はない。だが、この歳になっても、水俣病という言葉を耳にすると、身体のどこかが反応するのはなぜなのか。わからない。

上京したばかりの青春真っただ中、生きるのに、喰うことに必死の日々のさなかに、東京では光化学スモッグ注意報がよく発令され、公害という言葉をいやというほど耳にし、水俣病のこともしった。

あれから半世紀、いまだ水俣問題は続いている。続いているどころか、似たような事例、成長発展という、経済幻想の上に、置き去りにされてしまうかのような、弱者の民の存在は世界各地にかえって増え続けている。

そのことを、その事実の重さを声高にではなく淡々と、だがうちには激しい理不尽不条理なコトバにならないおもいをこめフィクション化し、映画化した、【MINAMATA】というフィルムを、次女の住む近く、吉祥寺のパルコの地下にある、アップリンクという映画館で7日日曜日、午後2時20分から見ることができた。1日一回だけの上映、56席で満席のミニシアターで。


このフィルムのことは、一人の今を生きる初老男として、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。ジョニー・デップという一人の世界でよく知られた俳優が、知る人ぞ知る伝説の戦場カメラマン、W・ユージンスミスを演じる。

今回、わずか3日間の上京でMINAMATAというフィルムを見ることができるとは思わなかったが、映画館から歩いてゆける距離に住む次女が、すぐに調べてオンライ予約をしてくれたおかげで、運よく見ることができた幸運を打たずにはいられないのである。

私は最近、ユージンスミスの奥様の、アイリーン未緒子スミスさんの新聞記事を読み、(ユージンスミスと共に水俣で写真を撮られた)続けてユージンスミスのドキュメンタリー番組をNHKBSで みたことで、ユージンスミスの生涯に非常に関心があったので、機会があったら何としても見たいと思っていたのである。

映画に関してはジョニー・デップがユージンスミスを演じるというただそれだけで、何としても見たかったのである。それ以外ほとんどなんの予備知識も先入観念もなく、いきなり見ることが思いもかけず意外な速さで叶ったことが、ただ嬉しいのである。(先日のふるさと帰省では兄と共に水俣を訪れたことも 、私の行動に影響をあたえているのは間違いない)

やはり、先入観なく見てただよかった。長くなるので詳細を打つのは控えるが、音楽は坂本龍一、窒素側と激しくやり合う役の真田広之はじめ、いちいち記さないがそうそうたる俳優が、日米で出演している。

そして一番驚いたのは、ユージンスミスを演じるジョニー・デップをはじめ、映画にかかわる表裏すべてのスタッフが一人の人間として、このMINAMATAという作品に取り組んでいるその姿がが映画を通して伝わってきたことである。

コロナパンデミックのこの時代、今なぜユージンスミスのなした仕事【写真】が蘇るのか、今またユージンスミスの【水俣の写真】が蘇るのか。名もなき民の無念の聲をユージンスミスは聞き取る。無念に全神経を集中し、耳を済ませシャッターを押す。1千回シャッターを押し、奇蹟の写真が死者の聲として浮かび上がる、50年の時を超えて。

見終えて思わぬことが起こった。この映画誕生に深くかかわった、奥様のアイリーン未緒子スミスさんが会場の来られ、何と舞台あいさつされたのだ。

私は娘たちはもとより、孫に手渡すためにMINAMATAの写真集を求め、アイリーンさんにサインをいただき、ミーハーのように写真にともに収まった。

PS 翌8日岡山に帰る日、たまたま 六本木の富士フィルムスクエアで、【ユージンスミスの見たもの】という写真展が行われていた。ゆっくりと見て回ることができた。3泊4日の上京は私にとって実りの秋となった。

 


2021-11-10

出会って51年、佐々木梅治さんの【父と暮せば】を長女と共に見る(聴く)ことが叶いました、そして想う。

音読自在塾でも勉強したい

 11月6日上京2日目のことを五十鈴川だよりに打っておきたい。今回の上京目的は私が18歳で上京して3年間通った、貝谷芸術学院演劇科夜間部の一年先輩に、今も劇団民芸に所属する舞台俳優、佐々木梅治さんがいる。

1944年生まれだから、私より8歳年上今年77歳である。舞台俳優なのでほとんどテレビには出ないが、すこし有名になったのはチャングムの誓いで育ての親の軽妙ひょうきんな吹き替えである。経歴については長くなるので控える。

宮崎の田舎から上京し、大都会で木の葉が舞うような貧乏暮らしをしながら、昼は働き夜は週に三日、演劇学校に通う生活をし、夢を追いかけていた私がもっともお世話になったのが、佐々木さんである。

想えば3年間 、まさに少年期から青年期に差し掛かる苦悩する、苦悩し続けた怒涛のような3年間を密に過ごした先輩が佐々木さんなのである。氏のアパートに3ヶ月くらい居候したこともある。お世話になり多大な影響を受けた。本を読むようになったのは氏の影響が大きい。

前回も書いたが、娘たちは父の青春時代を知らないので、このような形で五十鈴川だよりに、折々打てる範囲で打っておきたい年齢にようやく私もなってきたのである。

その佐々木さんが、20年近く続けている一人語り芝居に井上ひさし作、【父と暮せば】がある。先日、氏から父と暮らせばのチラシとお手紙の入った封書が届いた。内容は、丁寧な筆書き、長女の住む稲城のお寺で父と暮せばをやることになったので、私の娘が稲城に住んでいたのを思い出し、できたら観てほしいという文面であった。

 私はスマホで長女にチラシを送った。子供がまだ小さいし、よもやまさか見に行ってくれるとは思いもしなかったが、何と長女が見に行くという。そのことが私にはことのほかにうれしかった。

6日は、次女葉君と共に、お昼前にマンションを出て、お昼を長女のところで レイさんが買ってきてくれていたテイクアウトのお寿司をご馳走になった。次女は少し休んで葉君と共に三鷹に戻っていった。一人語り芝居は開園5時、午前中長女は孫の望晃くんの保育園の行事で稲城の野山を歩き回りつかれていたし、私も少し疲れていたので横になって休んだ。

夕方、私と娘はマンションから2キロくらいのところにあるお寺にタクシーで向かった。タクシーがなかなか捕まらず、ちょっと慌てたが開演にはまにあった。私は何度も佐々木さんの父と暮らせば派を観劇しているが、コロナ渦中の手術後、二人の孫に恵まれてみるのはもちろん初めてである。

1時間40分近く、父と娘語り分け、ト書も語る。全部一人で語る。77歳の年齢で。感動した。私はほとんど目をつむって耳を済ませ聴き入った。情景が浮かび今も佐々木さんの声が耳にこびりついている。しんみりと涙が出た。なぜ先輩との交友が続いたのかは謎である。一口に51年間も関係性が切れることがなく続き、このような形で再会が良き形で実現したことの喜びはたとえようもない。

何はともあれ岡山からかけつけることができ、たまたま娘が稲城に住んでいたことから、お手紙をいただき、その娘と共に、父と娘の井上ひさしさんの傑作芝居を観劇できたことの、えも言えぬ運命のめぐりあわせを静かに胸に刻み、感謝した。コロナ前に観た時とは全く異なり、初めてみるかのように氏。の聲が私の体に沁みこんできた。

そして、なんの先入観年もなくまっさらな状態で見てくれた娘が感動した老いってくれたことが、そのような感性を持って成長してくれていることが、私はただただありがたく嬉しかった。

終演後、3人で記念撮影をすることができた。私は感無量であった。佐々木さんのお便りで、娘と共に佐々木さんの父と暮せばを見ることができた幸運を、五十鈴川だよりにきちんと打っておく。

 

 

2021-11-09

11月5日上京初日、娘と孫のお散歩買い物で武蔵野の農家の老快男児Aさんにに出会えたことの嬉しさを五十鈴川だよりに打っておきたい。

昨日遅く3泊4日の上京旅から戻ってきた。5日と7日は次女のところ、6日は長女のところに泊まった。

実に有意義な滞在時間を過ごすことができた、そのありのままを可能な範囲で、記録的に五十鈴川だよりに何回かに分けて打っておきたい。

5日金曜日、8時半の新幹線で岡山を発ち、午後1時過ぎに次女の住む井の頭公園まで歩いて20分のところにあるマンションに着いた。住んでいるところから歩いてゆける距離に、巨木が多い井の頭公園があるなんて幸せな環境である。

さて、送られて来る写真で孫の成長は間接的には分かっていたが、葉君はしっかと間もなく首が据わるところまで、両親の愛情をたっぷりと受けて、まばゆいほどに成長していた。すぐに抱っこしたが、この小さき命の輝きは私のつたない言葉ではなんとも表現が不可能、命のつながり、神妙におじじは触れさせてもらった。

大きくなったら望晃くんと葉君に読んであげたい

心づくしの昼食(自賛した宮崎の干物もいただいたのだが義理の息子が美味しいといってくれ、私はうれしかった、娘が作ってくれたワカメの酢の物が干物によくあっおいしかった)をいただいたのち 、娘と孫の葉君(生後間もなく4カ月)3人で散歩がてら、次女がよくゆくスーパーに出かけた時の、ある心に残る出来事を打っておきたい。

次女の住むマンション一階にもスーパーは在るのだが、散歩がてら出かけるのに適したスーパーがもう1か所、次女のマンションから500メートルくらいの距離にある。

その間に、なんと今では都心ではほとんど見ることは叶わなくなって久しい立派な農家が在るのだ。その農家では絶えず小松菜をかなり広い耕作地に植えている。その畑の整然とした見事さ美しさはたとえようもない。(娘にスマホで撮って送ってもらおうと今おもい付いた、後日アップしたい)

前回7月に上京した際たまたまそこを通りかかり、年のころ40歳代の男性(ご子息)が小松菜を収穫されていたので、声を交わしたら何と売ってくださったことがあったので、今回もまたどなたかが働いていたら、声をかけたいとは心のどこかで思わないでなかったのだが、今回は娘と孫の3人で通りかかって、あまりに雑草がなくきれいな農地に整然と植え時をずらして育った小松菜がまたもや目に入った。

娘曰はく、この小松菜畑を見ると気持ちが落ち着き癒されるのだと。だから散歩がてらちょっと遠いスーパーに買い物に行くのだと。娘とそのようなことを話しながら歩いていると、何と私たちの話し声が畑にいた初老の男性の耳に届いたのか、向こうから雑草が少ない理由などを話し始め、丹精込めた自慢の農地を、武蔵野のかってはたくさんあった農家の灯を守っているとのことをいきなり話始めた。家長でお年72歳のAさんであった。

私と娘はすっかりうれしくなった。厚かましくも前回上京した際もたまたま小松菜を分けていただいたので、今回もお願いしたところ、出荷しているのだからいいですよと、快く応じてくださった。スーパーで買い物を済ませ、帰りに豪邸の玄関わきにある野菜の洗い場に伺うと土をきれいに落として、袋に入れてくださった。なんと100円、消費税なし。

これも何がのご縁奇縁と、私は持っていた名刺を差し上げ、娘に今後も小松菜を売ってほしい旨お願いしたところ、心安く受けてくださった。武蔵野の大地を守る心意気に、私はどこか懐かしい日本人の面影を感じ、見た。

娘の住んでいるところの近くにある、大地の空間に色づく緑の野菜、葉君の母乳のためにも娘は安心な野菜他を食べなくてはならない。現代のメガポリスの目と鼻の先で収穫された小松菜がいただけるなんて幸せという以外ないではないか。

上京初日、Aさんという年上の武蔵野快男児に会えたことの出来事、何としても五十鈴川だよりに記録としてのこしておきたいのだ。わずか3日の上京初日の出来事が私をすっかりといい気持にさせた。私の人生をいまだ左右する座右の銘、犬も歩けば棒に当たるである。

帰ってさっそく夫のSさんに出来事を報告。Sさんはことのほかに聞き上手、私は彼と一緒の時間を過ごすたびに、親近感が増してくる。それは長女の旦那さんのレイさんにも言える。おまけにレイさんとSさんは仲がいい、臆面もなく打たせてほしい。私は果報者であると痛感している。

夜は、娘のお鍋料理をいただいた。葉君がぐずったりしても、二人力を合わせ辛抱強くケアーしている様に打たれ、上京初日良き気持ちで眠りに落ちた。


2021-11-05

シェイクスピア音読自在塾8回目のレッスンを終えた翌日の朝に想う。

 昨日音読自在塾の8回目のレッスンが、もう8回目だ、いつものように緑化公園 の部屋でKさんとのレッスンが行われた。音読自在塾を始めたてから、毎回なにがしかの拙文を打っている。これは記録的にも打てる間は、何としても持続的に、わずかにではあれ持続したいという、わが思いである。

毎回一期一会的に、集中力を養う持続的稽古を繰り返す。その稽古が少しでも一人の普段の生活の中でも、繰り返し行えるようになれば、きっとKさんの中になにがしかの変化が顕れると、確信する。私のレッスンで声を出し始めてKさんは、まだ一年にもなっていないのだ、焦らずコツコツ、まったくの田舎者、粗忽者が18歳から世の中に出て、演劇などというものを学び、その中でつかんだ、あれやこれやの思いのわずかを、Kさんに伝えられたら本望である。

このフィルム是非見たい

声を出すだけではなく、企画することの醍醐味、面白さなども並行して、限られた時間、レッスン時間以外にでも、kさんが、あくまでも望むのであれば、伝えられたらとの、願望を持つ。(のである)

芸は盗むもの、とやはり小三治師匠もおっしゃっていた。ことばだけが語り伝えるのでは絶対的にない。所作や振る舞いからも何かを感じ取る、昆虫的な触覚感性が必要だと。わが道を生きる、自分を信じ切る覚悟が音読自在塾生には必要である。

その点は、昨日の8回目の稽古でかなり確信したのだが、Kさんの中には私とは異なる、世代も、性差も異なるのだが、ある種のおおらかな大胆さが備わっているように思える。めげないのである。至らなさを知る、まず。

そのことを、十分に自覚しながら、自分の体を鍛え、呼吸力を鍛え、何よりもシェイクスピア作品の魅力的な登場人物の長いセリフを、(苦悩する人格の多面性を)流れるように発語、音読できる、と確信した。繰り返す、Kさんは1年7カ月もレッスンを中断していたのだし、トータルでまだ一年も私のレッスンを直接面受していないのだ。(リモートでは無理である)

そして、音読自在塾の突然のコロナ渦中での見切り発車。わずか8回目のレッスンを終えたばかりだが、Kさんの情熱が私に伝わらなかったら、まず年内の音読自在塾の開始はなかったであろう。私ひとりでの稽古は家やその他の空間でやっただろうが、Kさんとともにのレッスンを、コロナ渦中でも始めたのは、時間が大切、今始めねばとのわが想いからだ。

そして今のところ、コロナにも感染せず二人レッスンがやれていることに関してまったく在り難いというほかはない。距離を取り向かい合わず、マスクをしての動き回らない音読稽古、不自由な稽古なのだが、思い立ったが吉日二人だからこそ、やれているのである。

そして、あらためて年内はもとより、Kさんの情熱にできるだけ向き合い、このコロナ渦中でできなかった1年7カ月のレッスン時間を少しでも取り戻すべく、密度の濃い負荷のかかる稽古をしたいと私は考えている。決して焦らず、十分に寝て食べて天と地を味方に、酸素を十分に体に行き渡らせながら進む、音読自在塾を私は目指す。

Kさんは昨日もハムレットの長台詞(2幕3幕の)、エドリエーナの長台詞を正味2時間以上繰り返し音読した。まずは3年かけて土台作り、愉しみである。

昨日のエドリエーナの長いセリフ、以前わずかであるが音読したところがある場面を、ずいぶん久しぶりに音読したのだが、以前レッスンした時間が無駄ではなかったことが、昨日の稽古で私にはわかった。

今音読している、ハムレットやデズデモーナ、エドリエーナほか、これから数年後、いやもっともっと後、私がこの世からおさらばするころ、kさんがどのように変身してゆくのかが、私には非常に楽しみである。そのようなことをおもわせる稽古が、昨日はできた。来週からはベニスの商人を音読する。

(PS 今日はこれから上京するので五十鈴川だよりはしばしオフ、月曜日遅く戻ります)

2021-11-04

たまたま図書館で桂小三治師匠の自伝的遺された言葉を読み打たれました。心の師としたい方です。

昨日夕方の雨が降る中の日没

 生活暮らしの中で私がもっとも出掛けてゆくところは、何と言っても図書館デアル。とくにこのコロナ渦中では、閉鎖されているときにはもちろんゆけなかったが、昨日も午後出かけた。

図書館散歩といっていいくらいに、平均すれば2週間に一回は必ずといっていいくらい出かけている。借りたい本があるなしにかかわらず、出かける。ゆけばなにがしかの本に必ずといっていいほど、巡り合う。さあ、今日はどのような本にめぐりあえるかと、ささやかにうれしいのである。

もう十分に老いてはいるのだが、いまだ在り難いことにどこかしらときめく自分がいる。この胸のときめき、歌の文句ではなく、これがなくなったらおそらく生きている甲斐がないとまではいわないが、極端に物悲しくも、寂しい人生になることは自明だろう。

だからなのだろう、音読自在塾を始めたのは。自分で自分を 追い込んで(そのことを楽しむ余裕のある追い込みでないとまずいが)いまだどこか変身できる可能性の在りやなしやをはかっているのではと、自分では考えている。

生活に限りなく自己満足的な老いの潤い、精神のコラーゲンやオキシトシンの分泌を促すような、悪あがきじみたことに、現を抜かすなんてことを考えてしまうのである。もう老いた自覚の生き恥をさらして打つが、天上天下唯我独尊(限りなく謙虚に)でゆくことに、音読自在塾を始めた時に決めたのである。

胎が据わると、生活のメリハリにリズムができ、おのずと目的のようなものも生まれてきて、図書館に何か宝物を見つけに出もゆくかのような心持になるのが、なれるのがささやかなれどどこか好奇心が満たされありがたやなのである。

シェイクスピア作品を翻訳された小田島先生は、好奇心とは高貴心であるとの名言を残されている。これでゆくのだ、男一人細身を引きずり、風に吹かれてよたよたと、だが足はしっかと大地をつかみ、踏みしめ、カッコつけて頑固にと、願う私なのであります。

とまあ、ここまで打ってきて思うのは、今日もまたいけしゃあしゃあと、五十鈴川だよりが打てる幸せを噛みしめるのである。今日午後は音読自在塾のレッスン。明後日からは3泊4日上京する、往復新幹線の中で読む本は借りることができた。

突然話は変わるが、今は亡き桂小三治師匠の本に巡り合ったのも図書館だった。昨日夕方、過日逝かれた桂小三治師匠をしのぶ再放送番組を民放BSで見た。生で見ることは叶わなかったが、間接的にカッコイイあこがれの噺家だったので、しっかりと眼底に焼き付けるように見た。存在そのものが匂い立つ。生き方に一本筋がピーンと立っている。声が話し方が人生そのもの。地面近くに名もなくもすっくと咲いている誇り高き花。立ち上がる姿、目つき、後ろ姿、私にはすべてがカッコイイ方としか言いようがない。

お亡くなりになる5日前まで高座に上がり続け、自分で自分を叱咤激励し続けた見事な生涯に、拍手を送りたくなった。爪の垢でも学ばねばと、音読自在塾を始めたばかりの私は、これでまた一人、私の背中を押してくれる黄泉の国のかたがたの存在を、五十鈴川だよりにしっかりと打っておく。(遺された師匠の噺をこれからしっかりと耳に刻みたく想う)

2021-11-03

読書の秋、カレルチャペックの作品の音読に挑む。

 音読自在塾を始めるまで、おおよそ1年7カ月、家族、親族以外の人とはほとんど話をしていない状況下を生きてきた。音読自在塾を始めたことで、平均すれば週に一度Kさんとのレッスンがあるので、限られた時間の中での言葉のやりとりはしているが、普段はほとんど他者との交流は今もない。

そのようなことは、これまでのわが人生にはなかったので、まあある意味では非常事態ではあるとは言えるものの、以前も打った気がするが、おおよその社会的親としての責任生活を終えたのちの、突然のコロナ自粛自粛生活は 、ある意味で私にとってはいい方向に作用しているのではないかと想えている。

どこかで、コロナにかかっていないから、このような能天気なことが打てるのだとは思いながらも、である。これまでの人生、ほとんど成り行きのような状態で、かぼそき肉体を引きずりながら、何度も行き詰まり、全身で何度もどっちにむかおうか、呻吟した若い日々のことを、いまだ昨日のことのように、おもいだす私である。

私が植えた下仁田ネギ根付きました

よく乗り越えられたものだと、ときに我が身の運の強さに、(業の深さに)天を仰いで感謝する。まだ人生を振り返るには早いという気もどこかではするものの、これからは振り返りつつ、老いの深まりを確認しつつ、一歩一歩をと、念じつつ前進したいのである。

老いる覚悟の深まりを、一段と想う秋である。還暦を過ぎてのち、この9年で私が多大な影響を受けた方々が、(いちいち記さない、しるせない)黄泉の国にたびだたれたが、私は生きている。だから、私はこれからの人生をより謙虚に、敬虔なおもいで生きなければと、初老凡夫なりに自戒のおもいが深まるのである。

で、私に何ができるのか、と問うのである。私のできるのは、やはり音読や、企画なのである。大きなことはできもしないし、したくもないが、手の届く範囲の人にリアカーをひいて、行商するかのように、小さな主催イベントを、小さき営みを成して生きておられる方々に届けられたらとの、おもいが深まる秋なのである。

いずれにせよ、今後のコロナの終息次第ではあるものの、ささやかに表現活動が自由にできるようになったなら、私自身まずはシェイクスピア作品の大人数の作品の音読ではなく、小さな作品で、こころが引かれる作品の音読を始めてみたいので、学び勉強するのにはコロナ渦中は、私にとっては、逆説的にありがたいのである。

2021-11-01

写真家ユージンスミスの2本のドキュメンタリーをたまたま見ることができた、翌日の朝に想う。

 昨日は衆院選挙の投票日であり、私も投票には出かけたが結果はさほど山は動かずに終わったのではないかと、結果も見ずに床に就いた私には思える。今朝はまだ新聞が届いていないのでよくわからないのである。

それよりも、昨日の午後たまたま、午後2時からNHKBSで、写真家ユージンスミス のドキュメンタリーを2本たまたま見ることができた。そのことをわずかでも打っておきたい。私が見ていないだけで、2本とも再放送であるが、近年の番組である。一本は若き日の戦場カメラマンとしてのユージンスミスの足跡をたどるドキュメントと、もう一本は戦後民家を借り、水俣に棲みついて撮り続けた、貴重極まるとしか言いようがないドキュメンタリーフィルム。

この年齢でたまたま見ることができたことの好運、コロナ下で、おそらく自分の中になにがしかの変容が起こっているからこそ、このような稀な作品番組に激しく心がゆれうごくのだと、想える。

ユージンスミス、人間としてあまりにすごいとしか言いようがない地点まで紆余曲折の果て、たどり着いた時代が生んだ稀有な写真家、悩み続け、苦悩の果てに結果作品が残っているのだと、痛切に知らされた。老いつつも 魂を揺さぶられた。

このような珠玉のドキュメンタリー番組を創る時代に流されない、硬派の番組スタッフも存在することを、私はどこかで感謝しながら、そして私自身がそういった番組をチェックすることなく、見逃していたことに、内心忸怩たる思いもどこかで感じながら、それでも見ることができたことの感謝を、 五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

写真家ユージンスミスの有名な一枚の写真、(楽園への旅立ちというタイトルは知らなかったが)は記憶にあったが、彼のあまりのというしか言葉がない、第二次世界大戦アメリカ海軍の戦場カメラマンとしての履歴、南方の島や沖縄の激戦地でのライフの契約カメラマンとしての履歴、彼が若き日に目撃した無残極まる戦場の地獄(9割はアメリカの検閲で没収された)のことはまるで知らなかった。

私は今更のように、この年齢での自分の無知を思い知らされた。このようなおぞましいというしか表現不可能のような事実の、撮影したものの良心というしかない、敵味方をやがて超えて、ヒトはなぜ罪なき人をこうまで殺りくして、都合のいいように写真を選び改ざんできるのか、するのか、不条理な世界に、ユージンスミスが目覚めてゆく過程が伝わってきて、私はなんとも言えない、気持ちにいたたまれないおもいで、画面を凝視し続けた。

とくに遺作となった水俣の写真を撮る苦悩と葛藤の上に成った作品の崇高な神々しさは、どのようなコトバも超えて(むなしく)沈黙を迫る。ユージンスミスにしか撮りえない写真の素晴らしさに、私はどこか慄く。番組の中でとくに私が感銘を受けたのは、苦悩するユージンスミスの遺された声である。

水俣病で青春の自由のすべてを奪われた少女に語り掛けるユージンスミスの聲は、地底の底からの懺悔の聲のように私の耳には響いてきた。この2本のドキュメンタリーを見ることができたことの重さを噛みしめ、これから繰り返し反芻し、人間としての良心を一枚の写真に籠めたユージンスミスの写真をみつづけてゆきたい。

2021-10-31

結婚35年目の記念日の朝に想う。

 結婚記念日の朝である。35年目はやはり大きな節目だなあと、おもう、深く言葉にはなしえない感謝の感情が体の芯から湧いてくる。私のような馬の骨、唐変木との長きにわたっての生活を持続してくれている、妻というか、今現在ではパートナーという言葉が一番しっくりと来る存在との出会いに。

今でこそハロウィンという言葉と行事はかなり日本人の生活に溶け込んでいるが、当時はインターネットもなく、まだどこかしらかすかにのんびりしていた。 双方の両親も元気で我々の門出を揃って祝福してくれたことを、はっきりと思い出すことができる。

式は西大寺の教会で挙げ、披露宴は建て替える前の古い家でにぎやかに行われた。まだ中世夢が原で働くことも決まっていない。前途に不安がなかったといえばうそになるが、新婦は私と異なり、生活力が在りどこか堂々としていたことが今となってはしきりに思い出される。

このような思い出話は、際限がないが、いつの日にかもっと面の皮が鉄面皮のようになり、つまりもう何もおもいのこすことがないような心境になれば、臆面もなくつづり打つことがあるかもしれないが、今はまだ思い出よりも今を生きることが肝要である。

妻が丹精しているマリーゴールド

ともあれ、無事是名馬ではないが支え合い35年、二人の娘は本当にすくすく成長し、結婚し、今では二人の孫にに恵まれ、穏やかに過ごすことができていることに関して、平凡の非凡さを私はこの上もなく感じながら生活している。すべてはひとりの女性との縁、めぐりあわせの妙のおかげと感謝している。そのことを五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

とくにコロナ渦中の35年目、大きな初めての手術 、妻の存在、家族の存在なくしては、術後あんなには踏ん張れなかったのではと思う。今音読自在塾を立ち上げ自由闊達に生活できているのも、すべては家族の土台の上に在るのだということへの感謝は以前の日ではない。

もし家族になにがしかの重大事が起きれば、すぐに中断手放すつもりである。そのこともまた、きちんと打っておきたい。35年前にすべては一からふたりで築き上げてきた暮らし、そこそこ普通に何とか歩めた事の有難さ、敬虔なきもちになれるのは、きっと今が幸せを実感できているからだと思う。

そしていよいよこれからのお互いの人生を邪魔にならない程度に寿ぎ、下り坂こそ難しい初めて経験する老いてゆく時間を、日々大切に歩むための努力を、積み上げてゆかなければならないと、自戒する。臆面もなく、愛ある暮らし、生活を大事に生きたい。

【PS 今朝の写真は私が撮ったもの。レッスン日他、Kさんと二人で、五十鈴川だよりの写真はまいります】

 


 

2021-10-30

手島圭三郎さんの絵本、カレルチャペックの作品を、静かに音読する秋日和、そしてつれづれ想う。

土曜日の朝である 。カーテンを開けると晩秋の朝の光が部屋に差し込んでくる。昨夜は珍しく2本のDVDフィルムを見たので、あまり寝ていない。一本は実話に基づいたアメリカ南部のあまりにもむごい奴隷制の時代に、そこから命がけで脱出し、最後は銃を抱えて闘続け、数々の功績を遺した一人の女性の物語、【ハヌエット】ともう一本はホームレスが図書館を占拠する話【パブリック図書館の奇蹟】俳優たちの演技が抜群、なんだか歴史土台が違うと
Kさんと妻のおかげで自力で写真を入れることがかないました

唸らせられる。

対照的な作品だが、このような作品が創られる、アメリカ映画の、アメリカ社会の豊かさ、おおらかさのような、多人種移民社会の広さ、画面を通してあまりにも狭い小さい島国日本に生を受けた初老凡夫には、新鮮だった。打ちだしたら長くなるので端折る。

もうあまりDVDを見ることも、映画館に足を運ぶことも、音楽会に行くことも若いころに比すべくもないが、時折は今旬の素晴らしい俳優たちの演技力を見ることは、音読自在塾を続ける間は、見続けねばいかんとあらためて自分に言い聞かせている。

昼は地に足の着いた労働ほかのことで体を動かし、 夜はひたすら体を休め、主に読書、想像力を養ってくれるような静かな時間を過ごす。これが今現在一番の私の初老凡夫生活の在り方である。

音読自在塾を中心に新たに回り始めた最近のわが暮らしではあるが、基本的な生活はまったくコロナ以前とは変わらないのだが、あきらかに自分の意識がコロナの到来と共に緩やかに変容し続けていることは、振り返って読むことはほとんどないが、五十鈴川だよりにしっかりと表れている、と思う。不確かに揺れながら、その日その日五十鈴川だよりを打ちながら、自在を確かめながら、不確かだがあるがままの自分を求めている、といったあんばいである。

話を変える。来週末3泊4日上京する。理由はまた打つことにするが、わずかな時間でも孫との触れ合いが楽しみである。送られてくる日々変化し続ける孫の動画を見ることは、私の日々の楽しみであり、私自身の老い楽ライフに活が入る。

単細胞、シェイクスピア作品他、自分の好きな作品しか読まない、偏った読書傾向、または偏った生き方しかできないかのような自分の愚図愚鈍な性格を、ひょっとしたら孫たちの無垢な無心なまなざしが、私に老いの変容を迫るかのような気配なのである。

それは、孫たちに読み聞かせをしたいという欲求からにわかに最近私の中に湧いてきている、新たな感情なのである。それは私の孫たちのみではなく 、未来の子供たちに機会があれば、音読自在塾と並行してやってゆきたいとの思いが湧いてきたのである。

というわけで、カレルチャペックの【長い長い郵便屋さんのお話】9編の大人が読んでも十分に面白い破天荒な展開、空想力、想像力あふるる物語が収まっている作品集を今読んでいる。孫の存在が私を新しい読書世界にいざなうのだ。

それと手島圭三郎圭三郎さんの木版画原始の森の絵本集、これは音読自在塾としてのライフワーク、声が出る間は読み続けたい。塾生にもよませる。畏敬するお仕事を生涯かけて続けてこられた偉業といってもいい絵本の素晴らしさを、少しでも音読することで伝えることができるのであれば、望外の喜びである。

 

2021-10-29

シェイクスピア音読自在塾6回目のレッスンの翌朝に想う。


 起きたばかりでほとんど何も打つ気がおきないほど、体は寝ているかのようなあんばいなのだが、昨日の音読自在塾6回目のレッスンのことをわずかであれうっておきたい。

ハムレットの有名な3幕市一場の 名台詞、2幕2場の最後の長台詞、それから間違いの喜劇のエドリエーナの2幕一場の長台詞を正味2時間くらい繰り返し繰り返し、立ってもらって外に向かって音読してもらった。そして、レッスンの最後にオフィーリアの3幕1場の台詞を音読してもらった。一人の塾生Kさんとのレッスンは瞬く間にすぎ、流れた。

昨日、私は午前中肉体労働の後のレッスンで 体が重かったのだが、Kさんとの音読が始まると、Kさんの一途さが伝播したのか、やにわに体に、疲れた体にスイッチが入り、今現在の体に電流が流れ始めたかのように、音読するする、集中する、できる自分がいた。

Kさんはエドリエーナの女こころのあふれんばかりの長いセリフを、事前に稽古してきたことが声の流れを聴いていて、私にはわかった。やる気と根気、未来の声を自分の体に見つけるのが音読自在塾の目指す方向である。彼女は集中力を切らさないように必死で挑む。

エドリエーナに近づく声を出すために、一行目のおんどくをを始めたら、一瞬たりとも最後まで集中力を切らさず、あふれんばかりの愛をもって、夫を罵倒する揺れる女こころを表現しなければならない。どこの劇団であれ主役級の役を演じるのは、その劇団のトップクラスの女優である。

だがそんなことは音読自在塾には全く関係ない。だれにだってやる気があれば、ハムレットをはじめシェイクスピア作品群のあまりに魅力的なヒロイン、ヒーローの言葉言葉言葉は、今を生きるどこかの無名の民に音読されるのを、コトバが開かれるのを静かに待っているかのように、私には思えるのである。無名こそが素晴らしいのである。そこを私は掘り起こしたいのである。どこにどのような才能が眠っているのかはだれのもわからないのである。

自分の中の才能、鉱脈が見つかるかどうかはやってみなければ、自分はもとより誰にもわからないのである。そのことは自分が一番自覚している。何度も何度も途方に暮れながらも、若き日に音読したことで、間違いの喜劇のイージオンの役がもらえた時の喜びは、いまだわが心の中にある。無我夢中で取り組んだ今となっては宝石のような時間であったと、きちんと五十鈴川だよりに打っておく。(娘たちは父の青春時代を知らないから)

Kさんが一途にエドリエーナを音読する姿を聴いていたら、突然先日亡くなった状況劇場の知る人ぞ知るヒロイン【李麗仙】の姿と共に劇中の台詞、【女一人大地を往くんだ】という台詞が忽然と脳裏に浮かんだ。記憶の底に眠っていた台詞が突如蘇ることの、何という不思議。記憶の宝が私には眠っている。Kさんが呼び起こしたのだ。

もうほとんど隠居生活を楽しんでいるかの風情だが、音読自在塾のレッスンがある日は、隠居生活から脱出、今は亡き自分と戦った死者(音読者)たちの おもいに勇気をいただき、鼓舞されながら私よりもずっとこれからがあるKさんに、かすかに私が学んだことを伝えられたらとのおもいである。


2021-10-27

老いゆく読書の秋、パオロ・ジョルダーノ著【コロナの時代の僕ら】を読み、そして想う。

 このひと月以上、つまりはシェイクスピア音読自在塾を、見切り発車することになるKさんとの再会対話から、何やら怒涛のように時が流れ、そのことにまつわる五十鈴川だよりに終始しているかのようなあんばいなのは事実だが、日々の生活他にも限られた時間の中、読書だけは頭のスイッチを変え、好奇心のアンテナをわずかでも磨きたいとの淡い思いが、いまだ私にはある。

そのような中、先日図書館で、パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳【コロナの時代の僕ら】という本を手にした。著者のことはまるで知らなかったが、本のタイトルにひきつけられた。著者は1982年生まれ、イタリアではよく知られた、若くして傑作を書いている小説家だ、と知った。(是非、小説を読みたい)

もちろんそのようなことを私はまったく知らなかった。昨年一月末イタリアに最初のコロナ感染者が発症し、瞬く間に感染者が増え、死者が増える。わずか数か月で死者の数は万を超える。自粛生活、ロックダウンが 始まる。家族はお葬式、死者にも会えない、病院での面会もできない。(コロナではなく私も入院したが妻との面会はできなかった)分断、寸断、無会話。日常が非日常になる。日本でも同じである。(その点、心からスマホに助けられた)

読んだばかりでコメントは控えるが、すばらしい本に出合ったそのことだけは、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。人間はのど元過ぎれば忘れやすい。特に私のような単細胞はそのことを肝に銘じないと、いけないということを、あらためて感じている。

今のところ日本での感染者数は減少傾向で 、そのこと事態は好ましいことではあるが、油断は禁物である。間もなく2年近くにもなろうかというパンデミック狂騒とでもいうしかない、コロナ時代から、我々はいったい何を学べばいいのかという根源的な、全人類が問わねばならないまさに哲学的な命題が、このエッセイには籠められている。ポストコロナから何を学び、新たな感染症時代の到来を見据え、いかに生きるのかを。

おそらくコロナ時代が訪れなかったら、私は能天気に遊声塾を続け、音読自在塾を発想することはなかった、と断言できる。きわめて個人的な事ながら、コロナはこれからの限りある人生を、まさにどのように、何を基軸にして、羅針盤にして歩めばいいのかを、今も私に問う続けている。

そのようなさなかに、このような異国の30歳も若い世代の思考の柔らかさを知ることができて、まさに読書の秋の果実に巡り合えた幸運に感謝せずにはいられない。インターネット世代の素晴らしさ、私などの世代では及びもつかない思考回路世代が顕れていることが、どこか安心して、老いられる嬉しき感覚に襲われる。

【PS この数十年の人類のあまりのというほかはないほどの温暖化、環境破壊、プラスチックのごみ、森林破壊、アマゾンほかで頻発する大火災、未曾有の気候変動、洪水水害、地震、津波。、海底火山の爆発、激甚災害の多発。映像に麻痺してしまうほどの繰り返し報道。動機が不条理な犯罪の多発、いじめによる自殺者の増加、年齢が高齢化する引きこもり、正直もう打つのが嫌になる、途方に暮れる初老凡夫だが、このような本に巡り合うと、絶望している時間があったら、まずは己の生活を希望をつぐむ時間に当てることをこそが、肝要だと若い世代に教えられる】


2021-10-25

10月24日、音読自在塾5回目のレッスンを終え、翌日の朝に想う。

 今や夜の時間帯に、五十鈴川だよりを打つなんてことは、ほとんど不可能だが、朝はいまだまだ生き返ったかのように、五十鈴川だよりを打つことが可能な自分が存在する。

これを在り難いことだと思わずして何とする。オーバーではなく、手術後 の日々、リハビリ労働だと、自分にむち打ち言い聞かせ、よたよたと歩きながらも、気持ちはしゃきっと、動き始めた時のことが(あれからもう7カ月が過ぎ、信じられないくらい元気になった)どこかしら遠くに感じられるほどに、私の体はなっている。

繰り返す。ありがたや、ありがたや、と歌の念仏のように唱えてしまいかねないほどの今の私である。その気持ちが今日もまた五十鈴川だよりをうたせる。

さて昨日は、音読自在塾の5回目のレッスンだった。もうほとんど音読自在塾のことしか打っていないかのような 五十鈴川だよりだが、それでかまわないのだとどこか達観している。(私は家族の健康ほかをどこか念じながら極めて普通極まりない生活を、まずは土台にして、最優先に生きている、初老凡夫である)

そのうえで自分が一番で情熱を傾けられることに、打ち込めることがあるということが、かけがえがないとの、これが一番贅沢な時間の過ごし方なのだという認識が、今いちだんと深まる。カッコつければまさに人生の黄昏、晩秋時間を、どこかしら自己満足的に輝いて過ごせる幸福感につつまれるのだ。繰り返してのありがたやである。

5回目のレッスンに話を戻す。緑化公園控室でKさんと、ハムレット4幕5幕をいつものように音読した。これでオセロー、ハムレットと一応音読はすんだ。この2冊を意味もなく手始めに、音読自在塾の出発にあたって読んだことは、やはりよかったとの思いである。

詳細な想いは省くがいろんな課題が、Kさんの今後の、今差し当たっての、当面腰を据え取り組まなければならない、シェイクスピアを音読をするために、必須不可欠な多面的な課題が、見えてきたことである。見えれば対処できる。

私がこれまで見つけてきた、シェイクスピアを音読するために最低必要な息継ぎ、呼吸力含め、シェイクスピア作品という高い山に登るための基礎力を培うための訓練を、後はKさんがやれるかどうかにすべてはかかっている、そのことをきちんと打っておきたい。

そのためにはどうしたらいいのかを、まずはKさん自身が考え、限りある人生時間を有効に、いかに過ごすのかに、かかっている。このようなことを打つとシェイクスピア作品の音読は、難しく大変なことに思われるかもしれない。が、しかし実際シェイクスピア作品の音読は難しい。そのことは私自身が一番自覚している。だがだからこそ、やっていて苦しくもまた楽しいのである。

縁あって、音読自在塾に参加されたKさんの今後が実はいま純粋に一番楽しい。私の指導にくらいついてくる根性が、今のところの彼女にはある。あとはレッスン時間外をいかに大切に、何より生活しながら(その生活が内面を鍛える訓練になる、あれもこれもに使える人生時間は本当に少ないのだ)悩みながらも、何よりも自分自身のために使い稽古時間を自分で見つけやれるかどうかにかかっている。

5回目のレッスンで初めて、時間があったので、立ち上がって私に背を向けてちょっと大変なハムレットの長台詞を音読してもらった。出来なかったことができるようになるということが、やはり苦しみの果報である。つらい苦しみの後の果実を自分の体で見つけるのが、音読自在塾なのである。

うてば響く身体が幸いKさんにはある。可能性が開かれている。指導はできるが、音読するのはKさんの全身である。私も全身で稽古に向かい合うただそれだけである。



2021-10-24

私のホームグラウンド、秋の緑化公園での自主トレ(体も動かす)がいい感じ、残月の朝に想う。

ほとんどテレビには出ず、古典落語を中心に高座に上がり、直接お客様に噺を語ることを当たり前のように続けていた、私の好きな落語家、柳家小三治さんの(師匠)訃報記事を見たのは、10月12日の朝刊だった。

昨日半日かけて、不在の間読めなかった新聞を、ザーッとだが目を通して、これはきちんと読みたいと思う記事だけを切り抜いて、あらためて場所を変えきちんと読み、貼りつけたいと思うものだけを ノートに貼りつける決まり事。小三治師匠の記事もむろん張り付けた。

このようなことを続けられている、続けてしまう自分がいまだいる。結構時間がとられるし、何度かやめようとは思ったこともある、だがやめない自分がいる。何故なのかはわからない。きっと敬愛、尊敬する死者から学び続けたいという思い、忘れないという敬意の顕れなのである。

写真 BY KAYO

に芯のような、メリハリの核のようなものが、生まれてきているのを老いつつも自覚している。

一人の塾生の参加が、臆面もなく打つが、私のレッスンを望まれる方の存在に応えるべく、老骨に鞭打つというのではなく、老体をいたわるかのように、月に何度かのレッスン時間を中心に生活が回転し始めたのである。

教えることは、学ぶことだと、はよく聞く話である。生活の中の喜び、ささやかにもはっきりとした大事な目的が生まれると、老いつつもどこか体の奥深くにかすかに電気が灯り、やり残した青春の熾火のようなものが、いまだ覚醒するのである。

これが灯ると、生活全般に良き影響を及ぼし、何やら再び臆面もなく打つが、このところいい感じである。苦心惨憺のおもいから音読自在塾は生まれてきたし、いつまでできるかもわからないので、とにかく一回一回のレッスンを、試行錯誤しながら大切に、大事に行うことしか考えていない。

以前にもまして、足元の緑化公園での自主トレが、やにわに活性化しているかのようなあんばい生活なのである。声は体、これまでの人生の総体として、にじみ出てくるように最近とみに感じる。日々の生活の大事の上にこそ声は在り、その人なりの人柄、唯一無二の声が醸し出されてくるではと、小三治師匠の聲やたたずまいにおもいをいたすと、判然としてくるのである。

声は、つまるところその人の生き方の集大成とでも呼ぶしかないほどに、顕れてくると私には思われるのである。だから、自分が感応する方々からは、間接的ではあれ学びながら、細き体を磨きながら変化する(これが人間にとって最も素晴らしいことであると想う)自分と出合いたい。そのためのシェイクスピア音読自在塾なのである。