昨日音読自在塾の8回目のレッスンが、もう8回目だ、いつものように緑化公園 の部屋でKさんとのレッスンが行われた。音読自在塾を始めたてから、毎回なにがしかの拙文を打っている。これは記録的にも打てる間は、何としても持続的に、わずかにではあれ持続したいという、わが思いである。
毎回一期一会的に、集中力を養う持続的稽古を繰り返す。その稽古が少しでも一人の普段の生活の中でも、繰り返し行えるようになれば、きっとKさんの中になにがしかの変化が顕れると、確信する。私のレッスンで声を出し始めてKさんは、まだ一年にもなっていないのだ、焦らずコツコツ、まったくの田舎者、粗忽者が18歳から世の中に出て、演劇などというものを学び、その中でつかんだ、あれやこれやの思いのわずかを、Kさんに伝えられたら本望である。
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声を出すだけではなく、企画することの醍醐味、面白さなども並行して、限られた時間、レッスン時間以外にでも、kさんが、あくまでも望むのであれば、伝えられたらとの、願望を持つ。(のである)
芸は盗むもの、とやはり小三治師匠もおっしゃっていた。ことばだけが語り伝えるのでは絶対的にない。所作や振る舞いからも何かを感じ取る、昆虫的な触覚感性が必要だと。わが道を生きる、自分を信じ切る覚悟が音読自在塾生には必要である。
その点は、昨日の8回目の稽古でかなり確信したのだが、Kさんの中には私とは異なる、世代も、性差も異なるのだが、ある種のおおらかな大胆さが備わっているように思える。めげないのである。至らなさを知る、まず。
そのことを、十分に自覚しながら、自分の体を鍛え、呼吸力を鍛え、何よりもシェイクスピア作品の魅力的な登場人物の長いセリフを、(苦悩する人格の多面性を)流れるように発語、音読できる、と確信した。繰り返す、Kさんは1年7カ月もレッスンを中断していたのだし、トータルでまだ一年も私のレッスンを直接面受していないのだ。(リモートでは無理である)
そして、音読自在塾の突然のコロナ渦中での見切り発車。わずか8回目のレッスンを終えたばかりだが、Kさんの情熱が私に伝わらなかったら、まず年内の音読自在塾の開始はなかったであろう。私ひとりでの稽古は家やその他の空間でやっただろうが、Kさんとともにのレッスンを、コロナ渦中でも始めたのは、時間が大切、今始めねばとのわが想いからだ。
そして今のところ、コロナにも感染せず二人レッスンがやれていることに関してまったく在り難いというほかはない。距離を取り向かい合わず、マスクをしての動き回らない音読稽古、不自由な稽古なのだが、思い立ったが吉日二人だからこそ、やれているのである。
そして、あらためて年内はもとより、Kさんの情熱にできるだけ向き合い、このコロナ渦中でできなかった1年7カ月のレッスン時間を少しでも取り戻すべく、密度の濃い負荷のかかる稽古をしたいと私は考えている。決して焦らず、十分に寝て食べて天と地を味方に、酸素を十分に体に行き渡らせながら進む、音読自在塾を私は目指す。
Kさんは昨日もハムレットの長台詞(2幕3幕の)、エドリエーナの長台詞を正味2時間以上繰り返し音読した。まずは3年かけて土台作り、愉しみである。
昨日のエドリエーナの長いセリフ、以前わずかであるが音読したところがある場面を、ずいぶん久しぶりに音読したのだが、以前レッスンした時間が無駄ではなかったことが、昨日の稽古で私にはわかった。
今音読している、ハムレットやデズデモーナ、エドリエーナほか、これから数年後、いやもっともっと後、私がこの世からおさらばするころ、kさんがどのように変身してゆくのかが、私には非常に楽しみである。そのようなことをおもわせる稽古が、昨日はできた。来週からはベニスの商人を音読する。
(PS 今日はこれから上京するので五十鈴川だよりはしばしオフ、月曜日遅く戻ります)
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