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2021-11-18

めまいのするからだとお付き合いしながら、もの想う朝。

 朝起きるときも含め、横になって立ち上がる時の軽いめまいと、かすかな吐き気の、(ひどくはないのだが)のような状態が4日かほど続いている。それでも動いているとこうやって、五十鈴川だよりを打つ気になるから、と自分で自分に暗示をかけるように、気を入れている。

これを年寄りの冷や水というのかもしれない。人間冗談も言えなくなったらどこかものがなしいとはいえ、軽いめまい程度で済んでいられるからこそなのであるが、やがてはめまいなどでは済まないことにならないように気をつけねばならない。

もう十分に若くはないのだということを、あらためて思い知らされる、冬が近い 晩秋は昭和男の私には、ひときわ物悲しさが、移ろいゆく日々が一段と沁みる、落ち葉の季節である。

このような事ばかり打っていると、気が滅入ってくるが、五十鈴川だよりは自分で自分を鼓舞するために打っているので、落ち込んでくるような拙文、駄文は打ちたくない。嘘とまでは言わないが、どこかしら日々の暮らしに、一滴の潤いのような元気が湧いて、日々の潤滑油のような五十鈴川だよりを打ち続けられれば、本望である。

何よりも、今在る自分ほかを含めどのような悲惨な情報他耳にしても、あまねく太陽が万物を、公平平等に照らすように、そのような目線感覚、地上数センチから世界を、あたまを低くして世界をとらえる感覚を、老人を自覚する私は、光、土や水酸素から学び続けたいし、そのような老人の繰り言感覚をこそ磨きたいと、めまいのする体をいたわりながら、しっかと今を生きている、血迷う感覚を大事に生きたいと、悪あがきではなく、よくあがきをするのである。

おぎゃと生まれて、間もなく古希、声が出る間は声を出し、動ける間は肉体労働というか、天の下での酸素すいすい労働、この惑星に生まれし、幸運不運全部ひっくるめて私は肯定的に生きてゆく側に立って生きてゆきたい、という淡い幻想をもつ。

だが、日本以外の国々に暮らしている、あまたの国々の多くの民衆、いや日本でも私の知らないところや、目に入らないところで、困窮の極みをの中生活している人たち、俗にいう私を含めた一般大衆は、選挙に行くことにも絶某しながら存在しているのではないかと、想像の羽を、めまいを覚えながら伸ばすのである。 

きれいごとを打つのは簡単であるが、ではどうしたらいいのか。18歳からなんとか自分の食い扶持を養いながらこの世の、身過ぎ世過ぎをしてきての現在だが、今現在の私の置かれた生活状況は、半世紀前とは考えられないくらいの豊かさを生きられている。ヒトの嫌がる肉体労働のおかげで。(いつできなくなっても悔いはない)

なぜ、この年齢であえて肉体労働をして、音読するのか、はっきりと打っておこう。それはあまたの無数の死者(近親者たちのみではなく)たちの眼に見えないエネルギーを感じるし、そのことを忘れないためである。

音楽会や数多の芸術や文化に一生涯触れることなく生命活動を遮断され、あの世にゆかれたかたがのおもいを忘れたくはない、という感覚なのではと考えている。何か申し訳ないのだ。私の記憶の中の祖父母は、生涯ただ働き、時代に翻弄され、多分苦労続きの中でいき、子育てをしっかりとしてきたのだと思う。

私の両親にしても然り。そしてそれは多くの日本人が、明治からつい数十年まで、いきて辛酸をなめつくしてきながら、子育てという大事業を成してきたのだと、孫に恵まれて、私はようやく思い知らされているのである。

時間を見つけて読みたい作家である

ところで、【めまいのする散歩】というタイトルの武田泰淳の小説があったと記憶する。軍隊経験のある方々の小説を、元気な間に読みたくなっている。

コロナが収まって自由自在になったら、自在塾者として、自在にわがままに少数者を対象にした音読活動を、我が家か、口が動く間にどこかでやれたらと、夜明け前の西の空に浮かぶ満月に近いお月様を眺めながら、想う朝である。

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