いまだ起き上がるときにかすかなめまいが続いているが、朝日を浴びて動いていると普段通りに動けているので、今週も何とか肉体労働をやれ、うれしい土曜日の朝を迎えている。
月食を見ることは叶わなかったのだが、月の満ち欠け、昨夜の満月は夜中外に出て月光浴。雲がほとんどなかったのでそのあまりの夜の明るさを、しばし体で堪能した。(このコロナ渦中の私の楽しみの一つは月の満ち欠けを、愛でることなのだ)
さて、大相撲が始まっている。私は相撲が大好きである。年齢を重ねるにつけ、相撲の奥深さ、人間性がその置かれている立場で、このようにも過酷に心技体があらわになる世界を私はほかに知らない、魅入られてしまう。
そして、いつも不思議だと想うのは、地位が上がるにつけ、怪我や病気などでいったん地位が下がるにつけ、人間の顔つきが微妙に揺れ、千変万化することに驚かされる。まさに人生の縮図をそこに私は感じる。
わけても一番感動するのは、怪我や病気他の、あらゆる肉体にかかる負荷を克服して土俵に復帰して、番付を上げてゆく力士の顔を見ていると、なんとも言えない。本当にいい顔に変化してゆくのである。大人の顔になるのには、どんなに時代が変わろうが男は試練を乗り越えないと大人にはなれないのではと私は考える。(人間はと言い換えてもいいのかもしれないが)
勝者と敗者のあまりの相違。不条理劇を描いた最初の劇作家 といわれるサミュエルベケットは、世界の涙の量は一定である。誰かが泣けば誰かが泣き止むと書いている。誰かが勝てば誰かが負ける。勝負の世界のあまりの過酷な現実と醍醐味が、時折体力差含めあまりの不条理なまでの現実を感じてしまうのは、私だけではあるまい。
だが大相撲では、本当にたまにだが、想わぬ番狂わせが、時に一瞬の狂風が吹いたかのような、逆転劇がある。その時の館内を飛び交う座布団の嵐は、まさに熱狂である。
わが国の古典を学びたい |
小学生のころ我が家に初めてテレビがやってきて、60年近く相撲を見続けている。時代と共に外国人力士が増え、様々な時代にそぐわないような問題を抱えながらも、大相撲の魅力の本質は土俵上に、まさに人間の熾烈なドラマとして今を生きている私の胸に響いてくる。
観客席が取り囲む中での、かこくきわまりな、肉体と肉体のあまりに嘘が入りこむすきがない中での、人間同士の攻防。
勝者が敗者をいたわる戦ったものだけが、肉と肉が触れ合ったものだけが知る、微妙な男同士の無言の会話。そういった世界に痩せた初老単細胞男子の端くれの私は、つまり妄想を抱えて、感動するのである。
いきなり話は変わるが、シェイクスピアは人間とは嘘をつく、ふりをする生き物だと、喝破しているが、この世は嘘まみれ、泥まみれだからこそ、たまさかの真実に人々は熱狂するのかもしれない。
シェイクスピア自身、フィクション化、膨大な都合のいい作品の中に普遍的にヒトの心の隙間に届く言葉(真実)を星の様にちりばめた作家なのである。だから私はこよなく嘘を愛しながらも、ある種の嘘を憎み、限りなく嘘の心を宿しながらも、限りなく純粋に裸で勝負を土俵上で行うお相撲さんから私自身の穢れのような心が洗われてゆくのではと、考えている。
ちなみにごひいきの、お相撲さんが何人かいるのだが、一番は照ノ富士関である。可愛く、風格が漂ってきて、しぐさの一つ一つに惹かれる。勝負目前、顔面が赤い血潮で 満る。カッコイイというほかはない。
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