先日の日曜日M新聞一面に、五木寛之さんと池上彰晃さんの紙面対談が掲載されていて、五木寛之ファンの私はすぐにめをおとした。見出しに骨がらみジェンダー偏見とある。
朝から、しかも五十鈴川だよりでジェンダーに触れた一文を打つことは、あまりに荷が重いというか、あらぬことを打ってしまいそうで、気の弱い私としては これ以上打つことは控えたいのだが、大いに私は五木寛之さんの考えに共鳴したことだけは、正直に打っておきたい。
ただ、かくもジェンダー問題が、ジェンダーという言葉が頻繁にあらゆるメディアでこの数年取り上げられるようになってきたのには、きっとなにがしかの時代が要求する、目に見えない波動のようなものがあるのには違いない。そのこと事態はとてもいいことだと私は矛盾をどこかに抱えながらも、おもっている。
私など、五木さん語るところの、アンコンシャスバイアス(無意識の偏見)が多分に染み入っているのをどこかで自覚している。幼少期から少年期、環境や親の世代から受け継いできた生活の中で、自然となじんできた感覚というか、偏見や差別は、コトバにはしなくても、無意識の中に、膨大に眠っているような気がしている。
私が26歳の時に買った初版本 |
だから、どこかしら眠ったままにしておこうなどという意識しての、時代にそぐわない自分というものを、どこかしら後ろめたくもおもいながらの、自分を生きてゆかざるを得ないような、ある種の名状しがたい思いがあることを、正直に打っておきたい。
話は変わるが、先日シェイクスピアのベニスの商人を音読したのだが、あの当時のユダヤ人差別のすさまじさが、シャイロックの台詞にこれでもかというほどに込められている。長くなるので、作品を読んでいただきたいと思う。あの時代に強烈なる個性、シャイロックという人物を書いただけでも、やはりシェイクスピアは偉大である。
400年以上前の作品なので、今の私には要所要所に時代にそぐわぬ古さを感じるところもあるにもせよ、シャイロックの台詞を聴いていると、あまりのユダヤ人への差別と偏見に驚かされる。それは遠い過去の物語のなかの出来事ではなく、今もなお続いている普遍的な問題であるのだと、コトバを言い換えてもいいのかもしれないと思える。
落語は言うに及ばず、文學作品、シェイクスピア作品の登場人物が語る言葉には、差別と偏見に満ちた言葉が枚挙にいとまがないほどに出てくる。フィクションとしての表現の自由と、差別のの問題のむつかしさは、これからもずっと議論され続けながら、きれいごとでは済まされない人間の存在の奥深さの謎と共に、考え続けてゆくほかはない、のだろう。
とまあ、今朝は意外な展開の五十鈴川だよりになったが、いろんな骨がらみしがらみ問題、簡単にはゆかない この世のありとあらゆる諸問題に対して、感性を閉じず絶えず時代の行く末を見つめ発言、作家として今も原稿を書き、齢89歳でのあまりの思考のみずみずしさに打たれたこと、きちんと打っておきたい。(少しでも学びたい)
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