ページ

2021-11-23

雨の翌日、季節が確実に冬の到来を告げる朝に想う。

 音読自在塾をはじめてから、レッスンのことを、ずいぶんこのところの五十鈴川だよりで打ってきたが、おとといのレッスンのことには触れていない。逐一触れなくてもきちんとレッスンは行われているので、ことさらなことがない限り、音読自在塾のレッスンのことには、今後はあまり触れなくなると想う。

Kさんとのレッスン、二人での時間が持続的にやれそうな感じがしてきたのである。持続継続根気稽古で、シェイクスピア作品の登場人物の言葉を、繰り返し音読する中で、Kさん自身の中に、目に見えない何かが育ってきそうな、予感がしてきたからである。厳しい稽古に月謝まで払って、Kさんは挑んでいる。

そんな、ほぼ2カ月近く二人だけのレッスンが続いているなか、おとといのレッスン中、旧遊声塾生A子さんがレッスンを見学にきた。A子さんの突然の稽古見学は、まったく予期しないものだったのだが、何年にもわたってともに稽古をしてきた関係なので、阿吽の呼吸で、2年近く会っていなくても、すぐに時間を飛び越え、すんなりとレッスン空間場所にいても少しも邪魔にならず、私はKさんとのレッスンを持続できた。

うまくは言えないのだが、ただ来てくれただけでもそれだけで十分に嬉しかった。音読自在塾のレッスンは、ことさらなに特別なことがあるのでは決してない。きわめてシンプル。現代人にも通用する翻訳(ある種の部分は翻案に近い、とくに小田島訳は)言葉言葉を繰り返し、あたかも作品の登場人物が今そこに生きているかのように、真実感をもってただ、音読するだけである。 

自在塾で音読したい作品です。

全神経を集中し、耳をそばだて、自分の体が発する声で、登場人物に寄り添ってゆき、結果虚構の中で(嘘の真実)なりきるのである。その過程を生きることが、音読塾のレッスンなのである。相撲の稽古のようにつらいのだが、あの長いセリフを一気に読めた時の快感はサーフィン(やったことはないが)で波に乗れた時の感覚近いものがあるのではと、想える。(相撲と決定的に異なるのは、ある程度の人生年齢を経ないと、経てから始まるのである)

ただ音読するのではなく、必死に音読する。無になっての(なれないがなるのだ)稽古にKさんは挑んでいる。今はまだ始まったばかり、これから高峰そびえるシェイクスピア作品の登場人物の置かれた運命の過酷さを音読することで、 いやがうえにもKさんの内面と、身体は磨かれてゆくことを、私は確信する。

それはおそらく、挑み続けたものだけが手にしえる果実なのではと考える。それほどまでに挑みがいのある、現代にも通用する強烈なキャラクターが、シェイクスピア作品群の中には存在する 。Kさんにはまだ間に合う時間が十分にある。そして、私にもまだいくばくかの時間が。そこを生きるのである。

体はやがて老い、声が出せなくなる摂理である。だが今のうちに徹底的に挑んでおけば、枯れつつある体からでも、命のささやきのような声が出てくる、出せるかもしれないと、不思議な体に問わずにはいられない老春期なるものに挑みたいのである。

何よりも音読自在塾は、下り坂に花を求める塾(受苦)なのである。年齢問わず、本気で音読したい方がいれば、門戸はどなたにであれ開かれている。ただ、覚悟が必要である。

PS レッスンを終え、Kさん、Aさんとしばし我が家でお茶時間が過ごせた。これまでのわが人生の、ささやかな足跡が詰まった書斎でしばし立ち話ができた。苦しい稽古をともにできる自在塾生とは、風通しの良い関係性で在りたい。


 

0 件のコメント:

コメントを投稿