もう6時を回っているのに、部屋の西の窓からはまあるいお月様がのぞめる。東の空は明るみ始めている。昨日も打ったし、ことさらに打つことももはやないのだが、打ちたい自分がどこかに生きている。
これを煩悩というのなら、良き煩悩と私は考え、水が流れる方向に流れるように、まさに自在に打ちたいように、言霊が浮かぶからだと自在に対話しながら、打ちたいように打てればという、いまだ外見年齢にそぐわない、青二才感覚が抜けきらない、初老男である。
でもいいのである。こういう自分を肯定感をもって受け入れながら、あくまでもどこかやるせないほどに頑固に、今は亡き父のように、(できるだけ自分のことは自分でやりできるだけ周りに迷惑をかけず)囲碁三昧ではなく、音読中心自在三昧で生きてゆければ、事は足りる今である。
本当にやりたいこと、やれることにのみ、エネルギーを費やす生活を一日いちにち過ごせれば、個人的には十分なのだが、時折休火山が噴火するかのように、老いの乾坤一滴感覚で、どこかに向かって、矢を射る情熱は持ち続けねば、無念の先人たちに申訳がないのは、先日の五十鈴川だよりに打ったとおりである。
チェーホフ作品音読し続けたい |
話は変わるが、落ち着いて物事がゆっくりと考えられる場所、居場所があるということの有難さを、つくづくコロナ渦中の今、感じている。いま五十鈴川だよりを打っている部屋のほかに、私にはもう一つ心が安定する居場所がある。
それは、この3年間肉体労働しているアルバイト先の作業道具小屋である。菜園場 もあり、昨日も出かけたのだが、働き始めた当初、先輩のTさんと二人で、雑然としていてスペースがなかったところを片付け、Tさんがどこかで机を探してきてくれ、秘密の隠れ場所として重宝しているのである。お茶も沸かせストーブもあるので、特にこれからの冬時間を過ごすのには、私にとってまたとない居場所なのである。(ここだけは秘密にしておく、妻以外)
休日は誰もいないし、声を気兼ねなく出せるので、このコロナ渦中どれだけ、今現在も助けられているかわからない。家から十数分でゆけるので、今日も午前中ゆくことにしている。
限りなく蜜とは程遠い肉体労働と、そこにある限りなく落ち着く居場所のおかげで、私はコロナ渦中を充実して生きられているし、ささやかな菜園場の野菜の成長も楽しめる。また、春の手術後の退院して七日後からの肉体労働、天と地の居場所のおかげでどれほど私が助けられているかは、計り知れない。すっかり健康ライフを取り戻すことができたのは、何といっても自在場所のおかげと繰り返し打っておきたい。
ところで、昨夜から我が家の薪ストーブに火がともった。いよいよ冬到来だが、何とバイト先には、ストーブの焚きつけに使える小枝や、枯れた薪材なども手に入るのである。何と私には、恵まれたバイト先であることかと、虚心に感謝する。
繰り返しこころするのは、お金や物では満たされない、永遠の消費にあおられる生活とは無縁時間を過ごすことである。見えないものに感謝し、想像する力を養う、それこそいっとき流行った老人力を鍛えるのには、絶好のまたとない居場所なのである。静謐時間のゆたかさを堪能しながら、今日は午前中2時間程度チェーホフ作品を音読する、のだ。
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