土曜日の朝がやってきた。フルタイムではなくても、好きなトレーニングを兼ねた肉体労働に勤しむことができ、日々の糊口をしのぐ生活の糧を得ることができるということの、在り難さを、今週もまた噛みしめられるのは、やはり土曜日の朝ならではである。
妻も週に何日かは働いているし、老夫婦二人の生活には今ところ何の支障もない。 時間的なことも含め、このような穏やかな現在を生きられているのは、健康だからこそなのだと、五十鈴川だよりを打ちながら、感謝の念を深める初冬の朝である。
新聞を取りに外に出あると半月が浮かんでいた。なんとも静かな夜明け前、しばし寒さの中観月とは、物好きここに極まれりというほかはない。コーヒーを入れ、おもむろに何を打とうかと思案の一時が、至福である。
心に一点の不安もなく、今在る生活 が送れていられるのは、きっと何かのお影というほかはない。このところ、ありがたやありがたやとまるで念仏を唱えるかのような、五十鈴川だよりになりつつあるなあ、と自覚している。この世の役割をほとんど終えた今、これからはいよいよの夢うたかた時間を生きたいと想うのである。
今日はどのように過ごすのかと思案橋。寝て起きて、こちら側から あちら側へとまるで死から生へと日々向かうような感覚で現在を生きる。コトバというものは不思議である。うっていると、予期しない言葉が生まれ、その言葉が、今日一日をいきる栄養のように思えてくる。まさに、コトバを食べて生きているかのような、五十鈴川だよりなのである。
さて、昨日午後とある場所に薪をもらいに妻と出かけ、年内は十分に燃やせるだけの薪を確保することができた。二人してともにやれる薪づくりとか野菜作りは、老夫婦にとって、日々の潤滑油である。幸い二人とも、お互いにおもねず自立自在干渉せずを生きているのだが、ここ一番では共通、共有して事に当たる。
この、阿吽の呼吸を生きることが、この先最も肝要なことだと私は思っている。まったく異なる人間同士がたまさか出会い、生活をともにし、やがてはそのようなことも夢うたかたのように思えてくるのかもしれないが。
音読しないと面白さは出てこない |
話を変える。極めての俗事を大事に生きるのが、自分には似つかわしいとの思いが私にはある。だからきっとシェイクスピアが好きなのであり、音読したくなるのである。これでもかというほどの悪人から、聖なる崇高な人物までが、運命の糸に操られるかのように、劇中でうごめくさまはまるでこの世である。
シェイクスピアの登場人物の関係性で変化する多面性、時代が複雑化するほどに、面妖に心が揺れ動くその在り様。複雑怪奇というほかはない。聖なる世界と俗なる世界との自在な往還こそが、シェイクスピア作品の魅力である。
明日のレッスンは、Kさんの提案でシェイクスピアの【尺には尺を】を音読する。そうそう他者と共に、何度もは音読できない。時間は有限。膨大なシェイクスピア作品群であるが、一つ一つの作品を少しでも、深く味わいつつ音読するこれからの冬時間をこそ大切にしたいと念う朝である。
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