手術後の春の労働中心生活、暑いさなかでの夏の労働中心生活、そこに秋が来て、音読自在塾が加わり、何やらやはり声を出すことで、すべてが私にとっては良き方向に動き初めていることを、臆面もなく打てる幸せを実感している朝である。
孫が成長してゆく過程で、読み聞かせを一年でも長く続けるというただそれだけの目的だけでも、どこかしら今の私はささやかにときめく。新しく読みたい本をどれにしようかと、還暦での人生再出発ではなく、手術後の再出発のような心持で、実りの秋を生きられている今が在り難い。
音読自在塾をはじめてからの、充実しながらもどこかしらのハードワークがたたったのか、今朝はいつもより起きるのが遅かった。でも睡眠が満ち足りたわが体はどこかすがすがしい。でも無理はしない。今日は午前中オフタイム頭を空っぽにして散歩でもしよう。
とはいうものの、日々の持続的な決まったルーティン日課のようなこと、(五十鈴川だよりにはことさらには書いていないが)は、特に休日は欠かさずやることには変わりはない。明日は9かいめのレッスンがあるし、日々の生活の中に、ささやかにもあれやこれやのやりたいことが、老いつつも増えてくるのは、やはりありがたいことと、念仏のように繰り返す。
時折記事を切り抜くノートから |
五十鈴川が流れるように私の時間も流れてゆく、そのことを どこかで感謝できていることが、ありがたやなのである。とまあ、このようなことを打っていると目の前の青い空が、いちだんと青くなっている。労働しているときに一番眺めるのが空と雲の流れと大地である。飽きない。(所詮人間は大地をゆききするいきものである)
昼だけではない、昨日も日没時いつものように 運動公園でルーティンワークをしていたら、見事な🌓、しばし寒さの中一人観月。大いなる蒼穹に我ひとりを、ただ感じる感覚を私は養いたいという、欲求が以前よりも深まってきている。
以前は人とのつながりのようなことに、関心の重きが何十年にもわたって続いていたのだが、そのようなことももちろん続いてはいるのだが、物言わぬ大天蓋、大空、広大無辺宇宙の無数の星々との無言のつながり、足元の雑草の無言の花々のけなげな美しさに、魂が揺れ動く。これまたありがたやデアル。
聖なるものと、俗なるわが心を自在に行き来する。揺れる老いこころ、今この世に存在するということの不思議、光と土と水からネギが育つように、わが心にもなにがしかの栄養素を日々注がなければ、と祈りすがる。
見えないものに、遠くの彼方に耳を澄ます感覚、感性を養う。現世の、人間が作った一見気持ちよくきれいな不純なものに、かどわかされ毒され続けるのではと、危惧する。
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