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2021-11-10

出会って51年、佐々木梅治さんの【父と暮せば】を長女と共に見る(聴く)ことが叶いました、そして想う。

音読自在塾でも勉強したい

 11月6日上京2日目のことを五十鈴川だよりに打っておきたい。今回の上京目的は私が18歳で上京して3年間通った、貝谷芸術学院演劇科夜間部の一年先輩に、今も劇団民芸に所属する舞台俳優、佐々木梅治さんがいる。

1944年生まれだから、私より8歳年上今年77歳である。舞台俳優なのでほとんどテレビには出ないが、すこし有名になったのはチャングムの誓いで育ての親の軽妙ひょうきんな吹き替えである。経歴については長くなるので控える。

宮崎の田舎から上京し、大都会で木の葉が舞うような貧乏暮らしをしながら、昼は働き夜は週に三日、演劇学校に通う生活をし、夢を追いかけていた私がもっともお世話になったのが、佐々木さんである。

想えば3年間 、まさに少年期から青年期に差し掛かる苦悩する、苦悩し続けた怒涛のような3年間を密に過ごした先輩が佐々木さんなのである。氏のアパートに3ヶ月くらい居候したこともある。お世話になり多大な影響を受けた。本を読むようになったのは氏の影響が大きい。

前回も書いたが、娘たちは父の青春時代を知らないので、このような形で五十鈴川だよりに、折々打てる範囲で打っておきたい年齢にようやく私もなってきたのである。

その佐々木さんが、20年近く続けている一人語り芝居に井上ひさし作、【父と暮せば】がある。先日、氏から父と暮らせばのチラシとお手紙の入った封書が届いた。内容は、丁寧な筆書き、長女の住む稲城のお寺で父と暮せばをやることになったので、私の娘が稲城に住んでいたのを思い出し、できたら観てほしいという文面であった。

 私はスマホで長女にチラシを送った。子供がまだ小さいし、よもやまさか見に行ってくれるとは思いもしなかったが、何と長女が見に行くという。そのことが私にはことのほかにうれしかった。

6日は、次女葉君と共に、お昼前にマンションを出て、お昼を長女のところで レイさんが買ってきてくれていたテイクアウトのお寿司をご馳走になった。次女は少し休んで葉君と共に三鷹に戻っていった。一人語り芝居は開園5時、午前中長女は孫の望晃くんの保育園の行事で稲城の野山を歩き回りつかれていたし、私も少し疲れていたので横になって休んだ。

夕方、私と娘はマンションから2キロくらいのところにあるお寺にタクシーで向かった。タクシーがなかなか捕まらず、ちょっと慌てたが開演にはまにあった。私は何度も佐々木さんの父と暮らせば派を観劇しているが、コロナ渦中の手術後、二人の孫に恵まれてみるのはもちろん初めてである。

1時間40分近く、父と娘語り分け、ト書も語る。全部一人で語る。77歳の年齢で。感動した。私はほとんど目をつむって耳を済ませ聴き入った。情景が浮かび今も佐々木さんの声が耳にこびりついている。しんみりと涙が出た。なぜ先輩との交友が続いたのかは謎である。一口に51年間も関係性が切れることがなく続き、このような形で再会が良き形で実現したことの喜びはたとえようもない。

何はともあれ岡山からかけつけることができ、たまたま娘が稲城に住んでいたことから、お手紙をいただき、その娘と共に、父と娘の井上ひさしさんの傑作芝居を観劇できたことの、えも言えぬ運命のめぐりあわせを静かに胸に刻み、感謝した。コロナ前に観た時とは全く異なり、初めてみるかのように氏。の聲が私の体に沁みこんできた。

そして、なんの先入観年もなくまっさらな状態で見てくれた娘が感動した老いってくれたことが、そのような感性を持って成長してくれていることが、私はただただありがたく嬉しかった。

終演後、3人で記念撮影をすることができた。私は感無量であった。佐々木さんのお便りで、娘と共に佐々木さんの父と暮せばを見ることができた幸運を、五十鈴川だよりにきちんと打っておく。

 

 

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