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2021-11-03

読書の秋、カレルチャペックの作品の音読に挑む。

 音読自在塾を始めるまで、おおよそ1年7カ月、家族、親族以外の人とはほとんど話をしていない状況下を生きてきた。音読自在塾を始めたことで、平均すれば週に一度Kさんとのレッスンがあるので、限られた時間の中での言葉のやりとりはしているが、普段はほとんど他者との交流は今もない。

そのようなことは、これまでのわが人生にはなかったので、まあある意味では非常事態ではあるとは言えるものの、以前も打った気がするが、おおよその社会的親としての責任生活を終えたのちの、突然のコロナ自粛自粛生活は 、ある意味で私にとってはいい方向に作用しているのではないかと想えている。

どこかで、コロナにかかっていないから、このような能天気なことが打てるのだとは思いながらも、である。これまでの人生、ほとんど成り行きのような状態で、かぼそき肉体を引きずりながら、何度も行き詰まり、全身で何度もどっちにむかおうか、呻吟した若い日々のことを、いまだ昨日のことのように、おもいだす私である。

私が植えた下仁田ネギ根付きました

よく乗り越えられたものだと、ときに我が身の運の強さに、(業の深さに)天を仰いで感謝する。まだ人生を振り返るには早いという気もどこかではするものの、これからは振り返りつつ、老いの深まりを確認しつつ、一歩一歩をと、念じつつ前進したいのである。

老いる覚悟の深まりを、一段と想う秋である。還暦を過ぎてのち、この9年で私が多大な影響を受けた方々が、(いちいち記さない、しるせない)黄泉の国にたびだたれたが、私は生きている。だから、私はこれからの人生をより謙虚に、敬虔なおもいで生きなければと、初老凡夫なりに自戒のおもいが深まるのである。

で、私に何ができるのか、と問うのである。私のできるのは、やはり音読や、企画なのである。大きなことはできもしないし、したくもないが、手の届く範囲の人にリアカーをひいて、行商するかのように、小さな主催イベントを、小さき営みを成して生きておられる方々に届けられたらとの、おもいが深まる秋なのである。

いずれにせよ、今後のコロナの終息次第ではあるものの、ささやかに表現活動が自由にできるようになったなら、私自身まずはシェイクスピア作品の大人数の作品の音読ではなく、小さな作品で、こころが引かれる作品の音読を始めてみたいので、学び勉強するのにはコロナ渦中は、私にとっては、逆説的にありがたいのである。

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