東京から戻って、今日を入れれば4日連続して肉体労働をし、3日連続して五十鈴川だよりを打って、今また打っているから打ち終われば4日連続になるが、打ちたくなる自分がいるだけで、遊ぶかのように打てる自分が、この歳になっている。そのことをどこかいいことなのだと、言い聞かせる唯我独尊的な自分がいる。
小さな子供が、一人で お砂場遊びをしているかのように、初老男児の今を生きているだけである。お金を消費して遊ぶのではなく自分の内面生命生活をそれこそ、日々是好日的に生きることが、生きられることが、遊ぶことが最近の私の贅沢である。
そして、先の上京の際のように、ここ一番の時に、必要な時にいくばくかの使えるお金があれば今の私は満足である。お金というものは、魔物である。ヒトを生かしも殺しもする。だから、お金とある種の女性を極端に私は警戒する。お金に、女性に弱い自分を知っているからである。
というわけで、何回も書いているが、老いてきたらお金に執着しない、ある種前近代的な、持たないことを楽しむ、その日その日の風が体を吹き抜けるかのような生き方が、これからの私の目指す、方向性のような気が最近特にしている。
感動しました。 |
ほとんど一気書きに近い、極力推敲しないその日五十鈴川だよりなので、変換ミスがやたら多いけれども、かまわないのである。読んでくださる方は想像力で補ってくださるものと確信している。
人数の多寡ではなく、読んでくださる方がいる、ということが私にはうれしい。間接的にどこか闇の中で、見えないところでつながっているかのような、幻想がわたしをして、五十鈴川だよりを打たせるのである。
労働するのも、読むのも、打つのも、何をするにしても、やはり体全部がどこか健やかでないと、無理である。先の手術で私は健康に体が動くことの、在り難さを思い知らされたのだ。(臆面もなく打つが、本質はともかく私の中の何かが変わったのである。理解されなくても構わない)
だが我が拙五十鈴川だよりでさえ、打つ気がおきないなんてことがやはり老いと共に、いつの日にかはやってくるのだろう。自然の摂理を私は受け入れたい。だが今はまだ打てるし働く意欲も湧いて、天との対話もできる、いわば実りの秋を生きられている。歌の文句ではないが、今はまだ人生を語らずである。生きたい、未来へ向かいたい、という老いの幻想に近い何か淡いおもいををはせ、老いゆく肉体にしがみつくのである。
さて、いきなりだが瀬戸内寂聴さんがお亡くなりになった。謹んでご冥福を祈る。命はやがて見えない世界へと旅立つが、そのことは素晴らしいことではないかという気が最近し始めている。生命の誕生だけが素晴らしいのではない、と。
死もまた、年齢とは関係なく十分に生き、与えられた命を全うした方の人生は、すこぶるどこかすがすがしく、まさに後光が刺す。美しく枯れ逝くには、いかに生きればいいのかが問題である。
0 件のコメント:
コメントを投稿