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2021-12-01

師走寒風一番、朝の風の音に耳を済ませ、初老の体に活を入れる、五十鈴川だより。

 起きてメルや花にえさを与え、コーヒーを淹れ新聞を取りにゆくと、雨は上がり星が瞬いていた。さて、今日から師走である、とはいってもたぶん私の師走の日々は特段な変化はない。(ような気がする)

五十鈴川が、暑さ寒さに関係なく流れているように流れてゆくだけである。万物流転の法則にのっとって流れ流されてゆく。まだ目を通していないが今朝の新聞の一面の見出しは、オミクロン株国内初感染である。

この2年近いコロナ禍報道で、いささかどころか、おおいに私の感性感覚は鈍ってきているのをどこかで感じながらも、基本的なウイルス対策を自分なりに考え、とにかく 静かなルーティン一日を可能な限り充実して過ごが都がせるように、五十鈴川だよりを打ちながら、自問自答する。

幸いというほかはないが、以前も書いたけれど、コロナ以前あれほど人との交流時間を過ごしてきたわが人生なのに、コロナ禍でいい意味で鍛えられたのか、すっかり今のところひとり時間の過ごし方のような暮らしが、苦にならなくなってきている。

とはいっても本来のもって生まれた性格のようなものはいかんともしがたく治らなまま残っているので、コロナが収束したら、また元の木阿弥になるかもしれないとも思いつつ。

ただいまは、自分との根気比べのように、自分の無知なる世界を少しでも広げたく、読書音読労働に、勤しんでいる。努めて日々好日時間を、一日を新鮮に感じる生き方ができないものかと、思案模索探究瞑想深呼吸し、青空を眺めるのである。

このような戯言遊びを打っていると、老いの体にいまだかすかに血が全身にゆきわたり、今日やりたいことが、やれることが定まってくるのである。

古い本を読み英気をいただく

耳を澄ますと夜明け前、木枯らし風の音が聞こえてくる。まさに冬を告げる、風の音色である。昔だったら、冬、古希が近い体での外での労働などは、ネガティブでしかなかったはずなのに、いまはどういうわけなのかは、わからないが、とくにコロナ禍中生活になって、いちだんと、肉体労働が苦にならなくなってきたのが自分でも不思議である。

おそらくは、フルタイムではないからなのだということは承知しているが、日々是だけの労働に、自分の体は十分に耐えられているということの確認をしながら動く。働きたいという意欲がまったく今のところ(先のことは分からないし考えない、今日一日を緩やかにしのぐ)衰えず、慶び以外の言葉がないのである。(動けるということの何たる在り難さを、私は手術入院で思い知った、そのことは決して忘れたくない)

多分、この2年間もし外での肉体労働がなかったら、私は頭でっかちな自分でも嫌な初老凡夫に成り下がっていたのではないかとさえ思えるのである。

養老孟司先生はとにかく自然の中に身を置けとおっしゃっている。防寒対策栄養補給をしっかりとしながら、身体を広大無辺の冬の空の下にさらして動ける自分を確認しながら動かしていると、身体が生き生きと動き始め温まってくる。

けっして無理せず、登山感覚で体と対話しながらの労働の喜びというものを、このコロナ渦中で、日々私は学ばせていただいている。とくに手術後8か月、今のところかすかなめまいはあるものの(今のところ労働には全く支障はない)生活できているのは、完全にアウトドア労働のおかげなのである。

午後はまったく別のことに時間を過ごし、夜はひたすら動いてくれた体を休める。すっきり目覚める。そのあまりのシンプルさが、遊行期を生きる今の私にはぴったりなのである。

さあ、寒風に身をさらして今を生きている、あまたの労働者たちのことを想像し、先人たちの労働に想いをはせ、私自身も働くのである。

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