うれしい 土曜日がきた、と毎週同じようなことを打っているが、いいのである。年が明けてもまもなく70歳の生誕がやってくる。別に開き直っているのではなく、(いやどこか開き直っているかな)還暦を迎えた時にも思ったことだが、老いてゆくこれからのあたえられた時間を、できるだけあるがまま、わがまま、正直に自分の体が喜ぶことをやろうと決めて、早10年が経つ。五十鈴川は流れる。感慨深い。
長女はまだ結婚もしていなかったし、次女は大学生であった。当たり前だが今は二人となった孫もこの世に存在していなかった。 来年の生誕日にはまた似たようなことを綴るのかもしれないが、あきらかに老いるにしたがって妻も、おばあちゃんも、家族の在り様も変化し、私自身もいまだ変化し続けていることを、実感しながら五十鈴川だよりを打っている。
いわく言い難い日々揺れ動く内なる思いを 、いわばとらえどころのない老年期、遊行期のつれづれを、さあ、これからいつまで打てるのかは、私自身にも覚そくないが、打ちたいという思いがわきあがる間はこれからもうちつづけたい。
とくに今も続くコロナ渦中の2年間の五十鈴川だよりは、極めて個人的な事にせよ、やがては宇宙の彼方のちりと化す我が身にせよ、いつの日にか娘たちや孫が、おじじのつれづれとしていくばくかでも目にしてくれたら本望だし、よしんば目に触れることがなくともいいのである、との軽い気持ちで、しかし当人はいたって真面目に打っていることを、しっかと打っておきたい。
このような作家がいると安堵する |
さて、そしてこれから10年後私が生きていて、もし五十鈴川だよりを打つづづけていたら、果たして家族は、世界は世の中はいかなる変貌を遂げているであろうか、とまあこのようなことをおもうと、妄想老人としてはどこか安らぐのである。
日々の足元の生活を限りなく大事に、大切しながらも、どこか遠く遠くを展望しながら、生きる老いてゆく時間を、ささやかに五十鈴川だよりに込めたいとの淡いおもいは、死が近づくにしたがって深まってゆくように思える。
自己愛ここに極まれりである。どこかはかなくとも、今は見えなくなってしまった死者たちと共に、老いゆく日々をしっかと見、刻み続けたいと想うのである。
還暦の時には、まだまだやりたいことのエネルギーが勝っていたのだが、いよいよの70代は、まさに下ってゆく最中での、だがまだやりたいことが湧いてくるからだに、天然にすがりたいとの思いが静かに湧いてくる、師走の土曜日の朝である。
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