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2021-12-24

師走、掃除他生活雑事全般を超スロウなダンスをするかのように楽しんで事に当たる。

 クリスマスイブの朝である。といっても特段なことはほとんどしない老夫婦二人の生活暮らしである。だが、もしここに孫がいたら、多分、まったく異なるイブの日になるのだろう。ともあれ、夫婦二人の静かこの上ない師走の日々が流れ、続き、今年もあとわずかである。(なんてことを五十鈴川だよりを打ち始めてずっと書いているような気もするが)

サイレントな日々が、夜が、今の私には似つかわしいのである。年寄りは静かにしかしどこかで熾火のように熱く生きるのである。

オミクロン株報道(他にも)にはそれなりに目を向けながらも、内心はどこか遠くの国の出来事を眺めているかのような、 現在生活の師走時間を私は生きている。世間とのあまりのずれを、(まるで老いの無感覚状態を)楽しんで生きているかのような自覚があるのである。そのようなズレを、私はどこかで 意識的に、老いの道楽として楽しもうとしているのである。

てきぱきとは動けなくなりつつある体を引きずりながらも、やれることをあだやおろそかにはせず、ゆっくりとを愉しみながら、ゆるやかに動く身体を、まるで超スロウなダンスでもするかのようなあんばいで動かしながら、あらゆる動きを努めて楽しむように、心かけるようにしているのである。(ネガティブな紋切型一面的な報道ほかはシャットダウン、空を眺めていた方がはるかに気持ちがいい)

話は突然変わるが、吉本隆明という知的巨人、思想家でさえ、体が思うように動かせなくなって老いを痛感するようになったと書かれているのを読んで、ハタと安堵したのだが、こればかりは老いてみないとやはりわからないのだから、分かったというか老いを自覚した時点で、いかに思考しつつ老いを受け入れるのか、いかに計らうのかにおいて、いつの時も人は試練にさらされるのだと、おもうのである。

というわけで 、超スロウなダンスをするかのようにあらゆる動きの、生きて活動するのに当たり前の立ったり座ったりの基本動作からのすべての動きを、可能な範囲で、スロウではあるが確実丁寧に行うように、相務めるというのが最近の私の日々の変化、愉しみなのである。

年寄りの繰り言の繰り返し、おそらく多分、もうほかに打つことはないのかといわれても、きっと私は初めて経験する未体験ゾーン、老いゆくゾーンを、五十鈴川だよりに打つ続けてゆくのに違いなと、どうもそんな予感がするのである。

師走良き本に巡り合えている

老いない人はいないのだから、これからの初体験ゾーンを いかに生きてゆけるのかいけないのかに、焦点を絞っていけたら、と思案するのである。愉しみはお金要らずに見つける、のだ。

ということで先日も打ったが、娘たち家族が明後日には帰ってくるので、部屋の片づけや掃除に取り組んでいるのだが、雑巾がけ他ありとあらゆる生活してゆく上での事細かな生活する上での必要な諸事万端を、老いの道楽と位置づけダンスするかのような心持で取り組むのである。

運転他、とにかく反射神経他(音読他生きてことを為すすべての諸器官の体の動き)緩やかに下ってゆく機能に逆らわず。それを可能な限り楽しむように心かける。とまあ、そのような感じで事に当たるのである。ゆっくりを生きるのである。

そのようなおもいに至ったのは、やはり私にとっては初春の手術という個人的な体験が、命の重さを、生と死の分かれ目は実にすぐそばに在るということへの気づきが、そうさせているのだと想う。

手術以前と以後で、あきらかに私の中で何かが変異したのは、まず間違いない。50年近く飲んできたお酒を断っただけでも、大変身といわねばならない。意識が変わると体も変わる。身体が変わると、同じ本でもまったく初めて読んだのではないかと、おもえるほどに新鮮に読めるのはなぜなのだろう。不思議というほかはない。 

人生の持ち時間が少なくなるにつれて、老いの思索の深まりがつづれるように在りたいと思う私であるが、凡夫なりに日々を丁寧に生きてゆくほかには妙案はないと老いの身に言い聞かせる私である。


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