昨日五十鈴川だよりを打ち終えた後、思い立って徳島県の鳴門の近くにある、賀川豊彦記念館に日帰りで行ってきた。賀川豊彦氏のことを私に教えれくれたのは、音楽家の土取利行さんである。
手術後の今年の春、新緑の美しい岐阜県郡上八幡の立光学舎に一人暮らす土取さんを訪ねた時のことである。土取さんとお目にかかることは、頻繁ではなく稀なのであるが、お会いするたびに、いやでも新たな世界の、あたかも扉が開くかのような、私にとっては未知なるお話の数々を淡々と、しかしその底流には、語りつくせぬ熱い情熱が灯り続けていることが、凡人の私にも、かすかにだが伝わってくる、いわば稀人である。
氏のおかげで、賀川豊彦の代表的な著作の一つ、書かれた当時400万部も売れたという【死線を超えて】を何とか図書館で探し、分厚い上下巻を読んでキリスト者として、まるでキリストが乗り移ったのではないかと思えるほどの、真摯極まる生き方に、凡人の私は圧倒され 、賀川豊彦記念館には必ずゆきたいとは思っていたのだ。
賀川豊彦は明治21年父の事業の関係で神戸で生まれているが、ルーツは徳島県、まさに数奇極まれる人生を歩み、一言ではとてもくくれるほどではないほどの、多岐にわたるまさに革命的というほかないほどの、先見性に満ちたその時代としては画期的な思想を多岐にわたって探究模索し続け、思春期にプロテスタントに入信、その後キリスト者として超人的に生きて実践活動した方である。
自ら当時の神戸の貧民街に住み込み、布教活度と共に貧しい人々と共に、命がけで生活し、なおかつどうしたら、この社会的目に余る不平等の、不条理の貧困窮に対して、嘆くのみではなく、根本的な救済活度に従事してゆき、あらゆることを学んでゆく様は、まさに常軌を逸したかのような、超人としかい言えないほどのものである。このような人間が日本にいたのである。
コロナ下の今の時代、いわば忘れられているかのような偉人の存在を、土取さんは何故か私に熱く語られたのである。そのことがずっと気になってはいたのだが、昨日年内に行くことがかなって、私は叶ったことだけを簡略に五十鈴川だよりに打っておきたいだけなのだが、もう少し打ちたい。
一番札所 霊山寺 |
西大寺を9時過ぎの電車で出発、徳島に12時過ぎに着き、ローカル線で板野 に向かう。スマホでそこから歩いて20分とあったのでゆこうと駅にいた方に道を訪ねると、とてもではないが歩いてはゆけない車でも10分以上かかるくらいの距離とのこと。
だが、姓を書かせていただくが、橋口さんという、私と同年代の方。お嬢さんが私と同じ電車に乗っていたお父さんを迎えに来ていたのだが、その方に道を訪ねたのである。この親子本当に親切というほかはない奇特な方で、なんとそのまま賀川豊彦記念館まで私を車に乗せて運んでくださったのである。この現代において、このような親切を受けたことの喜びを、何としても五十鈴川だよりに打っておかねばならない。何やらのお導きと思わないではいられない気がした。
まさに途方に暮れかけていた私の気持ちが、一瞬にして晴れやかになったことは言うまでもない。橋口さんには名刺を渡したので、きっと五十鈴川だよりを読んでくださると思う。この場をかりて厚くお礼を申し上げます。(このような方がまだ住んでおられるのだ、さすがお遍路の地である)
さて、賀川豊彦記念館はアクセスはともかく、とても良いところにあって一人記念館で一時間以上の時間を過ごし来てよかったと思った。帰りは賀川豊彦記念館から歩いて20分のところにある坂東駅から電車に乗ったのだが、なんと賀川豊彦記念館は、四国霊場一番札所、霊山寺のそばだったのである。
坂東駅の近くには、第一次大戦でのドイツ人の捕虜収容所があったところなのでもあった。周辺の風景の中、賀川豊彦は4歳で両親と死別、その後父の本家に引きとられ、17歳までを鳴門大麻町で過ごしている。いわばこの地の周辺大地を踏みしめて育ったのである。わずかではあるが、私も同じ大地を歩いたのだ。また再び今度は元気なうちに車出来たいと思った。
坂東駅から、徳島に出て遅い昼食を済ませ、4時46分の岡山行きにのり、西大寺駅に降りた。午後7時半、賀川豊彦記念館を詣でる日帰り旅を終えた。空には半月が浮かんでいた。
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