静かな夜から静かな朝へ、私の住んでいるところは住宅街なので、静かなる環境で朝一番に五十鈴川だよりが打てるのは、もう何にもましてうれしい。かすかに赤穂線の電車の音が聞こえる。
さて今朝は土曜日、 年内肉体労働アルバイトは昨日で終えた。このアルバイトをはじめて3年5カ月が経つ。そのうちの2年間はコロナ下である。この年齢でつくづく天の下での労働アルバイトに 巡り合えた幸運に私は感謝しないではいられない。得意なことで役に立つ体で居られる今が。
おもえば文章を打つことも、本を読むことも、肉労働をすることも、世の中に出るまではまったく苦手であった、ということがにわかには信じられないくらいの変化を、私はし続けながら今を生きている。変化し続ける意識と体、不思議な器、面白がれるか面白がれないのか、そこが思案のしどころだ。思案を止めないただ流れる、そこが大事と定めている。
生きているという生活実感を(ささやかな幸福感を)、どこかしらに 感じていなければ<このように能天気な五十鈴川だよりが打てるはずもない。地球の自転の上の乗っかっていられ、今日もまた新しい夜明けを、生きられていられる今を、超ささやかに五十鈴川だよりに籠める、自己慰安時間はたとえようもない安らぎを私にもたらす。
もう何度も五十鈴川だよりに打っているし、これからも永遠の繰り返し、さざ波のように似たようなくりごとを綴り打つ五十鈴川だよりになることを、どこかで自覚しながらも、昨日と今日の躰意識は、コトバで表すことが不可能なほどに、あきらかに異なるのである。
だから昨日打った一文とは、異なる一文が顕れてくるのである。そのことがいやまさに生きているということなのであろうから、私は昨日を忘れて新しい今日を生きることができるのである。昨日までは木にしがみついていた枯れ葉が今日は地に落ちているように、目にはさやかに見えねども、確実に万物は変化し続け、ある日突然宇宙に帰還するのである。
妻が近所の山で見つけてきた裏白 |
だから、宇宙の摂理に従って生きる。五十鈴川だよりで在りたいと、いうことをこれから折々しっかりと打っておきたいのである。先年高齢でお亡くなりになった畏敬すべき学者であられた外山滋比古先生が、特に晩年忘れることの効用を説いておられたが、まったく同感する。
古希を過ぎたら、以前にもましてできるだけ他者の手を煩わせずに、勝手気ままに風のように生きてゆきたいという思いが、自由自在という言葉が沁みてくるのである。
話は忽然といつものように変わるが、昨日の写真にアップした吉本隆明氏がなぜ言葉で思考し、詩や評論他多面的な哲学的思考を膨大な著作で(言語で)なされているのかを問われた際に応えられていたのが、非常に印象的で私にもすごく響いてきたのは、【自己慰安】のためですというご返事のお言葉だった。
この言葉に出会った時から、私は【自己慰安】という言葉を五十鈴川だよりでも使うようになってしまったが、比較するのもおこがましいが、五十鈴川だよりもどこかしら 自己慰安的に打っているからなのである。
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