すうねんぶり、いやもっと前から使っていない部屋である書斎で、五十鈴川だよりを打っている。北向きの一番寒い部屋である。冷たい冬の風の音がひゅーひゅーと聞こえる。だが打っている私の心は温かい。
長女の夫のレイさんと孫の望晃くんが一足早く我が家に帰省してきたからである。わずか一晩で、我が家の空気は一変した。そのこまごまを記し打つ時間はないのだが、爺バカは承知の上だが、3歳9か月の望晃くんの初々しい声が我が家に響き渡り、家がまるで生き返ったかのように、まさに感じられるのだ。
いま、望晃くんはおとうさんといっしょに私が普段使っている部屋で、朝食後のルーティンワークをやっているので、私も寸暇を見つけて五十鈴川だよりを打っているというわけである。先ほど次女家族と長女がすでに新幹線に乗ったとの知らせがあったので、今日はまた午後迎えに岡山に向かうことになる。
というわけで、午後からは一気ににぎやかなことこの上なし状態になるわけだが、これから新しい年までの年の瀬が団欒の、我が家のまさに小さなお祭りと化すのが、この上なく楽しみな私であり、妻はおそらく私以上の喜びで胸の内があ触れているのに違いない。
すっかり我が家になじんでいなければ、このような行動はなかなかにとれないであろうから、私も妻もこのような彼の自然な行動を、心から有難く思わなくてはいられないし、五十鈴川だよりに打たずにはいられないのである。
ともあれ、老夫婦二人だけの静かな家での暮らしに、いっきに灯が灯ったというほかない孫の存在感の不思議なオーラに、私も妻もいわばとろけてしまっているのである。
リヴィングで冬の陽ざしを浴びる望晃君 |
それにしてもなんともいえない成長した望晃のしぐさや、聲が我が家に響き渡る様は、オーバーではなくコロナ下、待ちに待ち望んでいたので、うれしさも格別なのである。老いゆく中で、娘たち夫婦の役に立つ、おじじ、おばばであることを、私も妻も願っているので、老いてゆく中での喜びとは、こういうまさに一瞬の中にこそ、在るのだということを、五十鈴川だよりに刻み付けたいのである。千差万別の各々の家族の在り様を、我が家の家族の今現在を。
加齢と共に、うきうきすることは現実的には減ってゆくことが摂理ではあるが、新しい生命の輝きの役に立つことこそが、これからの大きな時間の使い方になるのは自明である。孫の記憶に残るおじじでありたいと、願わずにはいられない私だが、そのためにはどうしたらいいのか、思案する。そのことがきっと私を活性化させるのは、まず間違いない。
私の老いらくの声が出る間は、要望に応えられる間は、日本語の読み聞かせをしたいと思う。ドイツ語の音読は父親であるレイさんがしっかりやる。望晃はいやでもダブルスタンダードを生きる宿命である。そのためにおじじとしてできることを私は思案し続ける覚悟を、望晃の声を聴きながら育むつもりである。
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