今や夜の時間帯に、五十鈴川だよりを打つなんてことは、ほとんど不可能だが、朝はいまだまだ生き返ったかのように、五十鈴川だよりを打つことが可能な自分が存在する。
これを在り難いことだと思わずして何とする。オーバーではなく、手術後 の日々、リハビリ労働だと、自分にむち打ち言い聞かせ、よたよたと歩きながらも、気持ちはしゃきっと、動き始めた時のことが(あれからもう7カ月が過ぎ、信じられないくらい元気になった)どこかしら遠くに感じられるほどに、私の体はなっている。
繰り返す。ありがたや、ありがたや、と歌の念仏のように唱えてしまいかねないほどの今の私である。その気持ちが今日もまた五十鈴川だよりをうたせる。
さて昨日は、音読自在塾の5回目のレッスンだった。もうほとんど音読自在塾のことしか打っていないかのような 五十鈴川だよりだが、それでかまわないのだとどこか達観している。(私は家族の健康ほかをどこか念じながら極めて普通極まりない生活を、まずは土台にして、最優先に生きている、初老凡夫である)
そのうえで自分が一番で情熱を傾けられることに、打ち込めることがあるということが、かけがえがないとの、これが一番贅沢な時間の過ごし方なのだという認識が、今いちだんと深まる。カッコつければまさに人生の黄昏、晩秋時間を、どこかしら自己満足的に輝いて過ごせる幸福感につつまれるのだ。繰り返してのありがたやである。
5回目のレッスンに話を戻す。緑化公園控室でKさんと、ハムレット4幕5幕をいつものように音読した。これでオセロー、ハムレットと一応音読はすんだ。この2冊を意味もなく手始めに、音読自在塾の出発にあたって読んだことは、やはりよかったとの思いである。
詳細な想いは省くがいろんな課題が、Kさんの今後の、今差し当たっての、当面腰を据え取り組まなければならない、シェイクスピアを音読をするために、必須不可欠な多面的な課題が、見えてきたことである。見えれば対処できる。
私がこれまで見つけてきた、シェイクスピアを音読するために最低必要な息継ぎ、呼吸力含め、シェイクスピア作品という高い山に登るための基礎力を培うための訓練を、後はKさんがやれるかどうかにすべてはかかっている、そのことをきちんと打っておきたい。
そのためにはどうしたらいいのかを、まずはKさん自身が考え、限りある人生時間を有効に、いかに過ごすのかに、かかっている。このようなことを打つとシェイクスピア作品の音読は、難しく大変なことに思われるかもしれない。が、しかし実際シェイクスピア作品の音読は難しい。そのことは私自身が一番自覚している。だがだからこそ、やっていて苦しくもまた楽しいのである。
縁あって、音読自在塾に参加されたKさんの今後が実はいま純粋に一番楽しい。私の指導にくらいついてくる根性が、今のところの彼女にはある。あとはレッスン時間外をいかに大切に、何より生活しながら(その生活が内面を鍛える訓練になる、あれもこれもに使える人生時間は本当に少ないのだ)悩みながらも、何よりも自分自身のために使い稽古時間を自分で見つけやれるかどうかにかかっている。
5回目のレッスンで初めて、時間があったので、立ち上がって私に背を向けてちょっと大変なハムレットの長台詞を音読してもらった。出来なかったことができるようになるということが、やはり苦しみの果報である。つらい苦しみの後の果実を自分の体で見つけるのが、音読自在塾なのである。
うてば響く身体が幸いKさんにはある。可能性が開かれている。指導はできるが、音読するのはKさんの全身である。私も全身で稽古に向かい合うただそれだけである。
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