先週の日曜日、高松に日帰りで行き、讃岐が生んだ(とやがて言われるだろう)音楽家、土取利行さんの仕事に理解のあるOさんに会ってきた。岡山をお昼前のマリンライナーで発ち、午後7時前のマリンライナーで戻り、家に着いたのは午後8時半を回っていた。
現地にいたのは6時間、Oさんは奥様も伴って出迎えてくださり、すぐに昼食をご馳走してくださった。ご夫妻はその昔、土取利行さんを中世夢が原で企画した際に、見に来てくださったとのことである。
昼食を終え、土取さんのふるさと多度津を車で訪ねた。わが故郷と同様、故郷は激変していたが、かすかな風土の面影、古い家屋、街並みが残っていた。周辺の山はほとんどそのまま、海の姿は随分変わっていたが。
多度津から観音寺に移動。沈む夕日が美しい、貴重な長さ2㎞の天然の砂浜が 残っている。目の前には、いりこで有名な伊吹島が在り、実はその砂浜でOさんは、土取利行さんのサヌカイトの演奏会を企画、プロデュースしようとしている。コロナでとん挫したままなのである。コロナの終息を見据えながら、何とか来年は実現したいとの強い思いを抱いておられる方なのである。
この激変する時代に、郷土が生んだ稀な音楽家の足跡を、多面的にレクチャーなども開催しながら、継続的に全国レベルで発信するイベント実現に向けて(オンラインで世界に発信できる)やりたいとの熱い思いを秘めた方なのである。
昨年9月、すでにコロナ渦中突然Oさんは土取さんと共に我が家に来られ、その時に話を聴いてはいたが、コロナの猛威が収まらず、企画は宙に浮いたままなのであるが、終息を見据えながら動かないと、事は進まないので、私もほかならぬ土取さんとのわが生涯の出会いの縁を鑑み、Oさんの企画実現に向けて側面的に応援したいと考えているので、いつかお会いしたかったのである。
今年は私が手術入院したりして、ずっと気にはなっていたのだが、音読自在塾も無事スタートし、並行するように側面的にということだけではなく、香川での世界発信に向けて、レクチャーなどの小さい企画を開催し、一人でも多くの方に土取利行さんの足跡をしってもらい、理解してもらいたいと、私としても考え、動きたいのである。
物事は、全身で熟考したら、あとはアクションを起こさないと何事も始まらない。だから、まずはOさんに会いに行ったのである。くどくど打たないが、成果は私の中には十分に あったと思う。讃岐の近くの岡山ともう一か所、最低3か所、できれば レクチャーなどの小さい企画を積み上げながら、土取利行さんのふるさとでの、サヌカイトの演奏会を実現するために、及ばずながらOさんの応援をしたいのである。
シェイクスピア音読自在塾がスタートしたことから、私の中でも、企画者としての熾火、残り火のようなものが、再び動き出し、知り合って43年、年上の土取利行さんが満を持して故郷でやる志あるイベントに、何らかの形でかかわりたいのである。
今日の五十鈴川だよりでは、これ以上の 思いは打たないが、26歳の時にロンドンで土取さんと出会わなかったら、その後このような人生をたどることは、まずなかっただろう、とだけははっきり言える。だからそのことだけはしっかりと打っておきたい。
土取さんの存在は、26歳で出会ってから後、文学座、シェイクスピア シアター、富良野塾と青春の終わりを、乏しい才能でもがきながら、生活しながらも、こころの片隅で消えたことはなかった。
長くなるし、端折るが、土取さんと出会わなかったら、まず中世夢が原で企画者として働くことはまずなかったであろう。私が企画者の端くれとして、非西欧圏の音楽家をよくもまあ、(いま振り返れば)あんなに企画できたのは、氏との出会いがあればこそなのである。
人生の方向が見えず、いかに生きていけばいいのか、悩み悩んでいた、まさにその時に出会えた福音の人なのである。今もだが、氏は純粋苛烈な御仁である。今は饒舌だが、当時の氏は、まさに何か求道者のたたずまいで、そうは簡単に余人を受け付けない雰囲気を醸し出していた。
だが、私と氏のご縁は切れることなく今も続いている。機縁というほかはない。打ち出せば思い出数知れず。ともあれ、話を戻すが、同郷のO氏が土取さんのサヌカイト、前代未聞ライブ実現に向けてなにがしかのアクションを起こさなければ、との思いにとらわれたのはわずかに6時間の滞在ではあったが、O氏の情熱に私が打たれたからである。
3人寄れば文殊の知恵、O氏の中に企画書 が立ち上がれば、予算を組み、賛同者を集め、とにもかくにも、ヒトに会い想いを伝えるところから始めるしかないだろう。わたしも人肌ぬぐ覚悟である。
ところで限られた時間の中、O氏は弘法大師が生まれたといわれる場所を案内してくださった。土取さんが生まれたところとそんなに離れていない。
。
0 件のコメント:
コメントを投稿