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2021-10-03

一人の塾生の可能性が私を燃える秋へといざなう、世阿弥の言葉を噛みしめる。

 音読自在塾をスタートしてまだ10日もたっていない。次回のレッスン日は10日である。このところの五十鈴川だよりは、ほとんどが音読自在塾に関することばかりなので、読んでくださる方は、またかと思われるかもしれないとは、どこかで感じないではないのだが、致し方ないのである。

いよいよの老境期を、努めてどこかわがままにあるがままに生活したいと念っているので、ご寛容いただくしかないのである。読んでくださる、開いてくださる方の多寡ではなく、打ち始めて間もなく丸10年を迎えようとしているが、個人史的にいかに生活し、生きたのかのささやかな記録になれば、いつの日にかノア君や葉くんの眼にとまったり、もするかもしれないし、しなくてもいいくらいの方に力の抜けた、五十鈴川だよりで在りたいのである。

だが、自在塾を立ち上げてからは、いぜんよりもアクセスが増えているのが、どこかしら面はゆくもうれしくもある私である。自在塾を思い切ったおかげで、一人の貴重極まる塾生の参加のおかげで、やはり新たな目標ができたことで、老いの内面が微妙に活性化してきていることは間違いない。

西大寺緑化公園 写真 BY KAYO





そのことは、秋の訪れと共に綴られている五十鈴川だよりにはっきりと表れているように思う。旧遊声塾での7年間の音読で、やはりどこかが鍛えられていたのだろう。まだわずか2回しかレッスンしていないが、あらためて自分がシェイクスピア作品の登場人物を音読することが好きなのがはっきりと分かったのである。

コロナで突然他者との音読を断ち切られ、自在塾を立ち上げ1年半ぶりにKさんと音読したことで、好きこそものの上手なれという言葉が、この年齢でも改めて得心できた、そのことが、どこかでわが喜びの今となり、五十鈴川だよりを打たせるのである。

情熱の発露というものは未知の秘め事のように、揺らぎながら螺旋状に流れる。若い時のような無茶丸出しの声は出ないが、老いのひめゴトのような、かすれた声ではあるが、生きている声は出せるのだということが、自在塾のレッスンで確認できたことがうれしい。

また、Kさんのオセロー音読に対する初々しいひたむきさが、今後のKさんの可能性を私に感じさせる、そのことが自分のことのようにうれしいのである。自分の未知なる領域に挑戦する勇気が自在塾には絶対的に必要である。Kさんにはそれがある。

初心忘るべからず、という世阿弥のこの言葉の深みと重さ、そのことを反芻しおのれの戒めとする感覚を失わない限り、どのような時代が訪れようと、きっとKさんは自分の中の自在な声を探究し続けるだろう。Kさんの無二の 個性と並走しながら、私はKさんの中の未知なる宝を耕し掘り続ける覚悟である。

覚悟を持った塾生に覚悟で答える自在塾でありたい。そのために有限なる魔法時間を大切にする、そのことしか今は考えていない。

 


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