塾生の芳原佳予子さんの写真 |
もうほとんど現世には生きておらず、まるで隠者のように、生活している実感を我が身に感じながら・・・も充実した燃える老境をいきている。このような感覚を臆面もなく五十鈴川だよりに打てることが、在り難くもどこかうれしい。
コロナ、先の手術入院でまさに一寸先は闇(未知)であることを実感したことで、悔いなく一日を送ることをどこかで自分に課している、ようなあんばいを生きている。だからといってことさらに聖人君子のような具合にはまったくいかないのが、私の場合の道理で、トボトボと日が暮れても遠き途を、私なりに歩んでいるだけである。
だから、明日突然何かの天変地異ほか、日常が断ち切られても悔いなく在りたいとの思いは深まる。さて、今日はシェイクスピア音読自在塾3回目のレッスン日である。スタートし2週間、多分今日でオセローの音読は終わり、次の作品に向かう。たぶん、ハムレットに。
ハムレットは謎に満ち満ちた作品なので、おそらく声が出せる間は繰り返し音読したい作品である。Kさんに読みたい作品を、と問うたら間違いの喜劇他、ジュリアスシーザー、テンペスト、そしてハムレットも入っていたのである。年内でオセローも含め、この5作品を音読できるのではないかと、うれしく思案している。
20代の終わり、舞台に立った作品8本を含め、一回しか読んでいなくても、全作品を小田島先生の翻訳したての37本を(当時は、いまはもっとある)読めたことの幸運を、あらためて今この年齢で、お導きに感謝している。
だからKさんとはできる限り、ひとり黙読ではなく、私との共有音読体験をしてほしいのである。そのうえでレッスン日以外の日々の時間をいかに過ごすか、過ごせるかは本人の自覚にゆだねたいのである。真摯に自分と向かい合えるもののみがつかめるものがあると信じる。
何故に、Kさんが私とのレッスンを望むのかは、私にもわからない。私がなぜに土取さんの活動に惹かれるのかが、よくわからないのと同義である。だが事実として、一通のメールによって、糸がほどかれるかのように、関係性が再び築かれ、音読自在塾が成される事実こそが果実である。
話は変わるが、チェーホフの作品に最近はまっている。笑劇的なボードビル作品のブラックユーモアに。人間の存在の闇に迫る混沌、カオスにまるで自分を見るかのように、さえ感じ、ちぐはぐを絵に描いたようにふるまい、生きていた当時の登場人物の台詞に、シェイクスピア作品の登場人物と(時代は300年近くたっているにもかかわらず)共通する不確かに揺れる実在を感じるのである。
シェイクスピア作品の登場人物の蠱惑的な長いセリフの唯一無二のタッチ、チェーホフ作品の、これまた登場人物の長いシェイクスピア作品とはまた異なる、唯一無二のタッチ。19世紀末、帝政が崩壊する時代を生きた当時の登場人物の内面のうつろさ、はかなさ、あわれさ、けなげさ、いたわしさ、愛おしさを、どこか暖かく包み込むかのような独特の言葉は 、今の私を激しく引き付ける。音読したいと強烈に想うのである。
遊声塾を閉じたことで、チェーホフへの扉が開いたのだと考えると、まさに啓示的でさえある。シェイクスピア作品の登場人物の台詞とは全くといっていいほど異なるが、その飛躍的で意外性に満ちた登場人物の謎の台詞を、演劇化するのではなく、音読化してみたいという誘惑が私の中で起こってきているのである。
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