朝と夜、一日に二回も五十鈴川だよりを打った記憶はないが、今日は何としても音読自在塾の4回目のレッスンを終えたことをわずかであれ打っておかないと(明日は朝早く故郷に車で向かうので)と年齢を忘れて想うのである。心地よい疲れが全身をおおっている。
さて、今日のレッスン。ハムレットの二幕と三幕 を午後1時から4時までのレッスン時間で読み終えることができた。場所は前回と同じ緑化公園図書館の建物の中の控室。Kさんは実質音読をはじめて一年もたっていない。
それで、いきなりオセローやハムレットの音読に挑んでいるのである。我が身に置き換えて冷静に想像すればわかるが、これはやはり大変なことである。大冒険というしかないほどに、大変なことであると、私は心底彼女の大胆な挑戦に、ある種の驚きをきんじえない。
だが、だがである。どう転ぼうが彼女はやろうとしている。わざわざ倉敷から車で駆けつけ、必死で挑んでいる。その波動は初老男にも伝わる。だから必然的に こちらも手抜きレッスンは不可能。必死で音読する。瞬く間に時間がまさに流れる。
無になって、コトバと格闘することに、ただただ余計なことは考えず、登場人物の台詞を瞬時に、あらん限りの感覚を研ぎ澄まし、人間がしゃべるようにもの語る。まさになり振りかまわず、コトバに取りつかれたかのように 音読する。難しいが、打ち返す波のように繰り返し音をからだしみこませる。言葉が自在にKさんの躰から勝手に流れ出すまで。歯がゆい自分と向かい合う。表現する力を養うには時をかけるのだ、焦らず台詞を踏みしだき歩くのだ。
彼女の今日のメールにあった。レッスン日は濃厚な時間が流れると。その感覚を見失わない限り、きっとお世辞ではなく、伸びると確信する。彼女は夏の夜の夢で男役のディミートリアスを音読した経験があるのだがそのわずかな経験が、わずかではあれハムレットの台詞の音読に生かされているのが今日の音読を聴いていて、私は感じた。
だから、男のハムレットの台詞を彼女が音読するのも、実に面白いのではないかと、彼女の音読を聴きながら、想わされた。ほかの男の役の台詞も。コロナでずいぶん遠回りしたが、マスクをしたり顔を横向きにしたりと、考えられないような制約レッスンなのだが、大きな声を出せばいいというものではなく、演劇ではないのだから、あくまで台本片手の音読化。小さな声でも不自由な中でも、想わぬ意外な表現が可能なんだということも、わずかに4回の稽古の中で、手ごたえのようなものを私は感じ始めている。音読するのを体得するのには時間がかかる。だから面白いのである。
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