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2021-10-01

シェイクスピア音読自在塾、2回目のレッスンを終え、10月1日の朝に想う。

 昨日30日、音読自在塾の2回目のレッスンが、前回に引き続き我が家で行われた。公的機関がコロナで使えないためにこのような形でのちょっと変則的なスタートになったのだが、倉敷から我が家までやってくるKさんは大変だが、私としては大助かりである。

隣近所に家があるために、大きな声を控えての素読音読は、我が家でも十分に可能であることを、はっきり認識した。10月からは、おそらく公的機関の施設を借りてのレッスンが始まると思うが、これはこれで実に楽しみである。大きな声も出せるし、立ってお互いを見ず背中合わせで音読できる。

まだたった2回、オセローを音読しただけではあるが、以前のようなレッスンではなく、今のところ一対一のレッスンなので、私自身が音読する時間がずいぶんある、あらためて今の年齢で、オセローやイアーゴーの魅力的な長いセリフを音読できるのかは(一人ではなく他者との関係性の中で)不確かで、ちょっと不安を抱えていたのである。

緑化公園でレッスン終える 写真BY KAYO

それと、術後私は体重が減り3キロまではすぐに戻ったのだが、その後はお酒を断ち、野菜中心のスタイルになったせいなのかはわからないのだが以前よりやせた体から、以前の様に声が出るのかと。

だが、結果は自分でも驚くほど、声を出し始めると、Kさんという存在のおかげで夢中で音読する自分がいたのである。自分が好きなことで存在しているという、つまり自在な感覚が蘇ってきたのである。先のことよりも今目の前の時間をしっかりと生きることを、このコロナ渦中私は自分に課して生活してきた。生活力を見失わないことをである。

そのことは五十鈴川だよりにしっかりと打っているので、自分自身が一番自覚している。極端なことを打てば、私は刻々と変わる日々の生活を、大地の上にきちんと立って天空を仰ぎ、コロナが収まるのを待ちながら、充実した日々を送れていたからこそ、何かを手放し、新しく音読自在塾がスムースにできたのでかもしれないと、いま思っている。

肉体と精神は不即不離である、肉体が老いたら、まずあの長いシェークスピアの登場人物の魅力的な台詞を音読することは無理である。だが私は基本はシェークスピアの音読だと決めている。その太い幹であるシェークスピア作品の登場人物の音読で、基本を鍛えながらシェークスピア以外の作品にも挑戦する、音読自在塾でありたいのである。

二回目のレッスンを終え、夕方、私が日々の根拠地といっていいくらい過ごしている、西大寺緑化公園のグラウンドに出かけ、レッスンでほてった身体を覚まし、いつものように靴下を脱ぎ、裸足散歩をした。ただただ裸足で大地を踏みしめ、秋の夕焼雲に見入りながら歩く。すぐ暗くなる。

朝とはまた異なる、夕暮れ時のこの時間帯が一日のうちで、二番目に好きな時間帯である。ただ黙想する、歩きながら。レッスンを振り返る。大地を踏みしめながら歩くと、次回のレッスン、今後のレッスンの アイデアが浮かんでくる。天の下で大地を踏みしめ深い呼吸をしていると、今我ここにありという自在感が湧いてくる。

涼しくて秋の空気感を近場で堪能できる。西の空には宵の明星が瞬き、一日の終わりを告げる。この永遠の繰り返し、今日一日の無事を、生きて在ることの感謝を宇宙の神に告げて、明かりのともる家路を急ぐ。 

PS,Kさんはいい感じで音読している。先が楽しみである。二人で何か発表できる日まで、紆余曲折時間を共に歩みたいと、思考生活している。

 


 

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