Kさんと妻のおかげで自力で写真を入れることがかないました |
唸らせられる。
対照的な作品だが、このような作品が創られる、アメリカ映画の、アメリカ社会の豊かさ、おおらかさのような、多人種移民社会の広さ、画面を通してあまりにも狭い小さい島国日本に生を受けた初老凡夫には、新鮮だった。打ちだしたら長くなるので端折る。
もうあまりDVDを見ることも、映画館に足を運ぶことも、音楽会に行くことも若いころに比すべくもないが、時折は今旬の素晴らしい俳優たちの演技力を見ることは、音読自在塾を続ける間は、見続けねばいかんとあらためて自分に言い聞かせている。
昼は地に足の着いた労働ほかのことで体を動かし、 夜はひたすら体を休め、主に読書、想像力を養ってくれるような静かな時間を過ごす。これが今現在一番の私の初老凡夫生活の在り方である。
音読自在塾を中心に新たに回り始めた最近のわが暮らしではあるが、基本的な生活はまったくコロナ以前とは変わらないのだが、あきらかに自分の意識がコロナの到来と共に緩やかに変容し続けていることは、振り返って読むことはほとんどないが、五十鈴川だよりにしっかりと表れている、と思う。不確かに揺れながら、その日その日五十鈴川だよりを打ちながら、自在を確かめながら、不確かだがあるがままの自分を求めている、といったあんばいである。
話を変える。来週末3泊4日上京する。理由はまた打つことにするが、わずかな時間でも孫との触れ合いが楽しみである。送られてくる日々変化し続ける孫の動画を見ることは、私の日々の楽しみであり、私自身の老い楽ライフに活が入る。
単細胞、シェイクスピア作品他、自分の好きな作品しか読まない、偏った読書傾向、または偏った生き方しかできないかのような自分の愚図愚鈍な性格を、ひょっとしたら孫たちの無垢な無心なまなざしが、私に老いの変容を迫るかのような気配なのである。
それは、孫たちに読み聞かせをしたいという欲求からにわかに最近私の中に湧いてきている、新たな感情なのである。それは私の孫たちのみではなく 、未来の子供たちに機会があれば、音読自在塾と並行してやってゆきたいとの思いが湧いてきたのである。
というわけで、カレルチャペックの【長い長い郵便屋さんのお話】9編の大人が読んでも十分に面白い破天荒な展開、空想力、想像力あふるる物語が収まっている作品集を今読んでいる。孫の存在が私を新しい読書世界にいざなうのだ。
それと手島圭三郎圭三郎さんの木版画原始の森の絵本集、これは音読自在塾としてのライフワーク、声が出る間は読み続けたい。塾生にもよませる。畏敬するお仕事を生涯かけて続けてこられた偉業といってもいい絵本の素晴らしさを、少しでも音読することで伝えることができるのであれば、望外の喜びである。
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