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2021-10-07

五十鈴川だよりの写真はこれからKさんとのコラボでゆくことに、ささやかに活性化する音読自在塾の秋。

我が家の花 BY KAYO

術後半年たち、無事にシェイクスピア音読自在塾がスタートし、自分でいうのもなんだが、生まれ変わったというほど大げさではまったくないのだが、以前の自分とはゆるりと何やら異なる、新しい自分のような面が、老いてなお生まれてきたかのような日々を、私は送っている。

これは50年近くも飲んでいたお酒を、遮断したこともあるのかもしれないなあ、と考えたりもする。手術入院がもしもなくば、まったく以前のような生活を送っていたかもしれないと、三途の川の一歩手前で引き返してきた(ことができた)わが命のことを考えると、感慨ひとしきりである。

コロナ以前、かなりの情熱で打ち込んでいたシェイクスピア遊声塾を閉塾し、音読自在塾を新たに始めることができたのも、コロナと手術入院が決定的に作用していることは、上手く言えないがまず間違いない。これまでの自分の生活とは決別しないと、どこかしら何かしらまずいという本能的な感覚が、生じてきたからとしか今は言えない。

遊声塾を閉塾したことで、 シェイクスピア音読自在塾が生まれたことはまず間違いはないのだが、では何が遊声塾と音読自在塾では異なるのかといえば、自分でも明確にきちんと説明するのが厄介なのだ。だからこれから音読自在塾を継続してゆく中でおのずと、遊声塾との違いが明らかにしてゆきたい、のである。

 シェイクスピア音読自在塾は、遊声塾と異なるのは塾生がいなくても始める。自分一人で始める(た)覚悟の塾なのである。そこへたまたまKさんが最初から参加してくださっている、だけなのである。基本はシェイクスピア作品の音読だが、自在塾なので自在に変化し動き、アメーバのように他者とも連動し、企画もしたり、旅もしたりする、少数の小回りのきく塾なのである。(と今は打っておこう)

論より証拠、実践で表現してゆくほかはない。オーバーではなく退路を断ち(居心地のいいぬるま湯ではなく)有限なる時間を志を共有できるヒトと、仲間との時間を再優先で考え過ごすための塾なのである。天と地を揺蕩い、得俵での粘り腰で踏ん張る。

考えに考えて動き出した塾なので、秋の青空のようにどこか突き抜けたすがすがしい気持ちが 、わが体に満ちているのがわかる。そのことがやはりどこかうれしいのである。何かをあきらめ、手離さないと見えてこない世界があるのは、これまでにも何度か経験しているので、そのことが今回も、過去の自分が後押ししているのも感じる。つまりは自信、自分が信じる方向に動いてゆくしかないのである。

ところで話はいつものように忽然と変わるが、塾生のKさんは写真を撮るのが好きである。先日の我が家でのレッスン中の私と愛犬のメルをとってくれた写真を送ってくださったのだが、これが実にいい。家族にも好評。現在のおのれの姿がくっきりメルとの関係性の中で切り取られている。いい意味での、老いつつも生にしがみついているわが姿が・・・。

これから五十鈴川だよりの写真は、Kさんの写真とのコラボでゆくことにした。拙文五十鈴川だよりにKさんの写真。これこそが自在塾なのである。楽しみである。 (気長に待っていてください)


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