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2021-10-24

私のホームグラウンド、秋の緑化公園での自主トレ(体も動かす)がいい感じ、残月の朝に想う。

ほとんどテレビには出ず、古典落語を中心に高座に上がり、直接お客様に噺を語ることを当たり前のように続けていた、私の好きな落語家、柳家小三治さんの(師匠)訃報記事を見たのは、10月12日の朝刊だった。

昨日半日かけて、不在の間読めなかった新聞を、ザーッとだが目を通して、これはきちんと読みたいと思う記事だけを切り抜いて、あらためて場所を変えきちんと読み、貼りつけたいと思うものだけを ノートに貼りつける決まり事。小三治師匠の記事もむろん張り付けた。

このようなことを続けられている、続けてしまう自分がいまだいる。結構時間がとられるし、何度かやめようとは思ったこともある、だがやめない自分がいる。何故なのかはわからない。きっと敬愛、尊敬する死者から学び続けたいという思い、忘れないという敬意の顕れなのである。

写真 BY KAYO

に芯のような、メリハリの核のようなものが、生まれてきているのを老いつつも自覚している。

一人の塾生の参加が、臆面もなく打つが、私のレッスンを望まれる方の存在に応えるべく、老骨に鞭打つというのではなく、老体をいたわるかのように、月に何度かのレッスン時間を中心に生活が回転し始めたのである。

教えることは、学ぶことだと、はよく聞く話である。生活の中の喜び、ささやかにもはっきりとした大事な目的が生まれると、老いつつもどこか体の奥深くにかすかに電気が灯り、やり残した青春の熾火のようなものが、いまだ覚醒するのである。

これが灯ると、生活全般に良き影響を及ぼし、何やら再び臆面もなく打つが、このところいい感じである。苦心惨憺のおもいから音読自在塾は生まれてきたし、いつまでできるかもわからないので、とにかく一回一回のレッスンを、試行錯誤しながら大切に、大事に行うことしか考えていない。

以前にもまして、足元の緑化公園での自主トレが、やにわに活性化しているかのようなあんばい生活なのである。声は体、これまでの人生の総体として、にじみ出てくるように最近とみに感じる。日々の生活の大事の上にこそ声は在り、その人なりの人柄、唯一無二の声が醸し出されてくるではと、小三治師匠の聲やたたずまいにおもいをいたすと、判然としてくるのである。

声は、つまるところその人の生き方の集大成とでも呼ぶしかないほどに、顕れてくると私には思われるのである。だから、自分が感応する方々からは、間接的ではあれ学びながら、細き体を磨きながら変化する(これが人間にとって最も素晴らしいことであると想う)自分と出合いたい。そのためのシェイクスピア音読自在塾なのである。

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