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2016-12-30

写真が入った今年最後の五十鈴川だより。

 本当に久方ぶりに、急に写真をアップしたのにはわけがあります。

下の写真に写っている台湾ボーイのティムくんは、今年の夏に我が家にホームステイした青年なのですが 、年末年始を家族で岡山に過ごしに再びやってきて、すぐに我が家に遊びに来てくれたのです。

おせち料理の準備を手伝ってくれているのですが、私がブログの写真のアップで困っているといったらすぐに写真を載せてくれたのです。

とりあえず、急きょのブログなので、写真中心でご容赦を。いま出かけていますが、昨日から、怜君と娘も里帰りし 一気ににぎやかな我が家の年の瀬です。

ティム君は19歳、隣に映っているのがお母さんで、夏のホームステイでのスナップショット。お正月のしめ縄は竹韻庵のS氏が編んでくれたものです。




玄関のお飾りは妻の力作、なかなか見事です。



夜は娘たちもそろって、にぎやかに年の瀬の団欒タイムを昨夜に続いて過ごします。

たぶんこれがおそらく、今年最後のブログになるかと思います。今年一年、本当にお世話になりました。深く感謝いたします。

来年もどうぞよろしくお願いいたします。皆様にとって良き歳になりますように祈ります。

2016-12-27

雨の中、竹韻庵での忘年会を堪能しました。

オーナーS氏の心のこもった品々の用意の元で、竹韻庵での忘年会ができました。

そぼ降る雨の中、岡山駅に10時に到着、S氏が車で迎えてくださりS氏宅へ。そこから歩いて15分の山歩きで竹韻庵にたどり着く。

S氏宅の裏山に竹韻庵、小さき山荘はたたずんである。都市住宅からわずかな山歩きで森の中の山荘があるなどとは、現代社会においてはまさに奇蹟的といわねばならない。

東京に長いこと住んだことがある 私には、そのことがいかに恵まれた環境であるかが身にしみてわかる。多くの都会人は、何時間もかけて別荘や山荘に出かけてゆくのだが、歩いて15分で世界が変わる環境、森の中に移動できるなんてことは、まさに稀なことである。

ましてや、どんなに豪華な山荘ほかをお持ちでも、出かけてゆくには健康な体がないと、それはやがては宝の持ち腐れ的なことにも、老いてゆくにしたがってなりやすい。

その点、S氏の山荘は電気もガスもなにもなし、その日を過ごせる食材や水を持ち込み半日を過ごす分には、華美ではなくまさに、私の生来の心情にジャストフィット、わびさびの世界へといざなわれるのである。

山荘なんてものは、茶室くらいの空間があればまさに事足りるのである。そのことが竹韻庵にいるとよく実感できる。小さな庵からの広葉落葉樹ほかの、物言わぬ自然界の植物群を眺め、愛でるいっときが、晩年時間のまさに醍醐味なのである。

まだまだ若輩の身で、このようなことを書くとおこがましいが、ようようにして【足るを知る】とはの感覚が、いまだ俗人の域に右往左往しながらも、いくばくか染み入ってきつつある。

昨年夏、S氏の依頼で竹韻庵にかかわるようになって一年半 が過ぎたが、この森ですごす時間は今後ますます老いてゆくにしたがって、物思いにふけるには最高のポトス(オーバーに言えば哲学的思考をする場所)となるに違いない。

小さな山荘だが、薪ストーブがあるので濡れて冷えた体もすぐ暖まり、ゆっくりとS氏の山用品ですぐお湯を沸かし、牛しゃぶしゃぶでの昼食忘年会開始、野菜他デザートまで全部S氏が、万端用意してくださり、私はただただ馳走にあやかった。

S氏はお酒を飲まれないのだが、私用にちゃんとビール、日本酒、焼酎まで。私は缶ビールと、日本酒を一合いただいたのだが、すっかりいい気分に酔いしれることとなり、次から次に古の記憶が蘇る幸福な忘年会となった。

楽しいひと時は瞬く間にすぎ、3時にはお開き。かなりの雨の中来た道を降りた。氏は私を西大寺まで車で送ってくださった。いやあ、いい忘年会でした。

雨の中、私のために心のこもった、手作り忘年会を開いてくれた氏の心遣いにこの場を借りて、五十鈴川だよりに、深く感謝を記しておきたい。

2016-12-26

静かにシェイクスピアの作品を再読する、年の瀬におもう。。

クリスマスもすぎた朝、今年も余すところ一週間をきった。私の好きな静かな朝である。今日は雨なのであるが、午前中竹韻庵でS氏と二人だけの雨天決行忘年会をする。

いとおかし、小さな庵での二人きりでの忘年会もなかなかに風情のあるものである。竹韻庵での忘年会は2回目である。

おそらくは今年最後の忘年会になる。人はなぜに忘年会なる風習を考案したものかまるで知らないが、正直儀礼的な忘年会の参加は、歳と共に苦手になりつつあるが、気心の知れた仲間や友人との忘年会は嫌いではない。

さて、忘年会が終わると、一気にお正月がやってくる。妻はお掃除他やることが多くて大変そうだが、私は申し訳ないが、すべてほどほどにすませ、もっぱらシェイクスピアを再読することに時間を割いている。

年が明けたら 、シェイクスピア全作品再読時間を持続すべく、時間の許す限り今月から始めたのである。近年、共作も含めると、40本の戯曲を書いたといわれる膨大なシェイクスピア作品をじっくりと読んでいる。

半分以上の作品は34年ぶりに読むことになるのだが、この歳で、かろうじて声がまだ出るなかで、あらためてシェイクスピアを翻訳日本語で読めることの幸せを、年の瀬、しみじみ感じながら読み進めている。

アテネのタイモン、シンベリン、ぺりクリーズ、、、。リアリズムには程遠い、時間空間あっちこっち飛び回り、変幻自在なシェイクスピア作劇術の真骨頂と言葉、言葉、言葉世界を今更ながらに堪能している。

夢が原退職後、さび付いた体にむち打ち、シェイクスピア遊声塾を、勇気をもって立ち上げて来年でまる4年になる。まさにあの膨大な豊饒絢爛豪華言葉世界を、この年齢で(なくても)朗誦するのは、やってみればわかるが、半端なエネルギーではない。。

我ながら無謀なことをやっているとは思う、がしかし4年目に入ったあたりから体が何とはなしに、昔の若かりし頃の感覚を、いくばくか感じ始めたのである。記憶の体は不思議というほかない。

目も耳も反射神経も、若い頃のようにはゆかないものの、この年齢での朗誦の仕方の可能性もあるのだという発見があるのだ。だからこそ続けていられるのだと思う。

それがなかったら、とうにやめていただろう。誰にも知られず一人声を出して遊ぶわが姿を、他者が見たら何と思われるだろう。大勢の登場人物を入れ代わり立ち代わり時間を区切って集中して読んでいると時間はあっという間に過ぎている。

楽しい時間は、あっという間に 過ぎるとシェイクスピアも言っている。シェイクスピアのおかげで演劇的人生時間に放り込まれたかのように感じている私としては、とことんシェイクスピアと付き合おうと思うし、可能な限り、老体に酸素を送り込むような感じで、有酸素朗誦にまあ、挑戦しているわけだ。

シェイクスピアの晩年の作品などは、若い時に読んでもほとんど実感しえなかった登場人物のセリフも 、この年齢で読むと、ときおり染み入ってくることがあるし、つまりは発見が尽きないのである。

ささやかに何かに感動したり、発見できる体と心があるということが、生きていることの他者に迷惑をかけない生き方の醍醐味かもしれない。一文のお金もかからず声の出せるから体さえ あればいいのだから、貧者であれ豊かに生きる方策は無限にあるのだ。

2016-12-24

クリスマスイブの昼間、母妻私の3人で竹韻庵で畑時間を楽しむ。

妻は昨日から3連休、今日はクリスマスイブだが次女が昨日から上京し、今夜は私と妻と母との3人でのクリスマスイブである。

クリスマスイブだからといっても、特別なことはとくにしないし、ささやかにちょっと3人での食事を我が家で静かにするくらいである。

長女の旦那さんはドイツ人なのでクリスマスはやはり特別なので、東京の娘夫婦はきっと特別な夜を過ごすことだろう。

さて、年の瀬もせまり昨日から 妻はなにやら棚をしつらえたり、DYYを楽しみながら、彼女ならではの領域家庭仕事をいそいそとやっている。

じつは我が家はこの一週間次女がダウン、続いて妻がダウン、最後に私がダウン幸い重症にはならず、一日半臥せっていたのだが昨日から熱も引き、このようにブログを書くところまで回復してきた。

一昨日夜、今年最後のカルチャーのレッスンがあったのだが、悩んだ末雨の中出かけ、何とかレッスンを終えることができたが、年の瀬に体が思うに任せぬような事態が起こるとやはり困る。

当たり前だが、すぐに忘れてしまいがちになるというものの健康の有難さが沁みる師走の私の暮らしでる。

さて、今日はこれから妻と母と3人で今年最後の竹韻庵山仕事に出かける予定なので落ち着いてブログを書く余裕がないので尻切れトンボのブログになるがご容赦願いたい。

妻と母と3人で竹韻庵に出かけることは、そうは多くないし年の瀬のクリスマスイブに出かけるのは初めてのことだ、母と妻との3人年の瀬畑時間を楽しみたい、との思いである。

本日は短い朝ブログにて失礼。皆様良きクリスマスイブを。


2016-12-19

旅愁という言葉が沁みた、男3人山科(響きが素晴らしい)旅。

気ままな、京都山科一泊二日、旧友再開、在来線往復電車旅をして昨夜帰ってまいりました。

K氏が誘ってくれた山科の会社の保養所は築百年は立っているという純和風建築、昔は某会社の方の別荘であったところでした。

要所は今風に改築され、まさに現代のせわしなさから、師走のいっときの閑ありを過ごすにはまたとない空間でした。K氏には何年も前から山科で一杯やろうよと誘われていました。

氏が折あるごとに誘ってくれた意味がよくわかりました。その山荘は専属にお料理ほかのお世話をしてくださる女性がおり、早めに宿についた我々3人に茶室でお茶をふるまってくださいました。

距離感抜群のおもてなしで山科の夜は始まりました。内風呂と外風呂があり、男3人でゆたりと浸れる露天外風呂で、しばし昔人気分の入浴を楽しみ、楽しみの夕食宴会開始。

和風料理コース、メインは近江牛のすき焼きでした。男3人楽しく盛り上がりすべておいしくいただきました。

何と二階には囲炉裏がきった部屋が在り、女性が我々の要望に応じて炭火を起こしてくださり、2次会はそのお部屋に移動、眠るまでの 無礼講大放談を、私がしてしまいました。もっぱら聞き役に回ってくださった、ご両名のK氏には感謝の言葉しかありません。

よく休んで、翌朝 飲んだ割にはすっきりと目覚め、すぐそばに毘沙門天を祀る神社とお寺があり朝食前、山科散歩がかないました。

朝はあまり食べない私ですが、和風の京風の朝ご飯をすべて平らげたくらい、美味しい朝ご飯でした。

朝食後、両K氏によかったら山科から京都まで、山越えをしてからお別れしたいと提案しました。K氏は10キロ以上の荷物を抱えていたのですが、二人とも気持ちよく同意してくれました。

宿を出たのが9時半ころ、おおよそい時間半かかって南禅寺ではなかったものの、京都側に下り ることができました。

この思い付き歩き小さな山旅は、再会気まま宴会と共に、いずれもっと時間が経てば良き思い出として蘇るに違いありません。

まめなK氏が撮ってくれた写真がラインで送られてきたのですが、深い山科の森を往く中年男3人の背に、祝福の朝日が差しています。

朝の山越え散歩は、めったにこのような3人時間は過ごせないので 、愉しかった。楽しい時間は玉響のように過ぎ、京都市内でお茶を飲み横須賀からのK氏とはそこでお別れ、発起人のK氏とは京都駅で別れました。

旅愁という言葉があります。旅は気分この世は情け、をいまだいきる私のような日本人は、この言葉が染み入る年齢になったことを、いよいよもって実感したこのたびの山科旅でした。

思いがうまくまとまらないので詳細は省きますが、熱いうちに時間をピンでとめるように、記録としてきちんと五十鈴川だよりに書いておきたいのです。

それにしても今回山科に誘ってくれたK氏には本当にこまごまとした細かいお気遣いに、この場を借りて深く感謝し、遠方から駆け付けてくれた横須賀の悪友にも深い感謝を。

人は人生でいかほどに、こころからくつろげる 友を持つことができるのでしょうか。このような愉快な友を持てたわが人生の今回の山科路(時)幸福感は、言葉では言い表せぬにせよ、言葉にすがっての思いを書いておくによしなし、といったところです。


2016-12-17

夜明けとともに、友に会いに山科に向かいます。

前回は何を書いたか五十鈴川。以前は書いた文章を読み返したりすることはほとんどなかったが、最近はかなり読み返す頻度が増えてきつつある。

今日はこれから京都は山科で、男3人での忘年会に参加するために出かける前の朝ブログである。忙中閑の年の瀬、せわしない世間の流れとは、真逆の五十鈴川である。

一昨日夜は、倉敷で美々地小学校の同窓生3人に、Y子さんの御主人も参加し 4人によるささやかだが実に楽しい夜を過ごした。(そのことは時間を見つけてゆっくりと書きたい)

さて、山科に降り立つのは 初めてである。どんなところかまったく調べてもいない、行き当たりばったりが私の旅の醍醐味である。

男3人での初めての山科忘年会、私にとっては精神的にちょっとリッチな 忘年会である。二人の予定が一人増えた。一人は37年のお付き合いK氏、発起人のK氏とは30年近い親交が続いている。私にとってはかけがえのない、長いお付き合いのお二人である。

今宵はどのようなひと時が過ごせるのか、いい歳ではあれうきうき気分の私である。人は今現在自分がどのような時代の中に、放り込まれているのかを冷静に感じることは、なかなかに至難のことである。

このような時代のさなかに、美々地小学校の同窓会の同窓会もそうだが、共通の時間を生きることで静かに塾生醗酵期を重ね、お互い今現在をいい感じで過ごせる環境に居られるなかでの再会時間は晩年時間の最高の喜びである。

いいお酒のように、妻とであれ親子であれ、あらゆる人間関係の豊かな実りは時間がかかるものであると私は考える。

ところで時代は、 このような関係性の熟成をはなはだ難しくしているこの数十年の流れの中、切れず離れず関係性が持続し、今日のように参集できるというのは、在り難きことといわねばならない。

読みたい本を何冊かバックに忍ばせ在来線でゆっくり山科に向かうつもりである 。赤穂線の赤穂までの車窓の風景を眺めるのが私は好きである。

人工的なものだ少ない、昔をしのばせるひなびた乗降客の少ない駅の地名を眺めながら、他愛もないことにうつらうつら思いをはせながらの、気まま旅まさに至福の列車旅。

さあ、友に会いに山科にへ。荷物を確認し夜明けとともに出発します。




2016-12-15

竹韻庵の笹の根で素晴らしいクリスマスリースができました、そしておもう。

3日連続して、五十鈴川だよりを書くなんてずいぶん久しぶりのことだ。写真のないブログを書くようになって、写真がないのがつまらないと思われる向きもあるかもしれないが、また忽然と写真が入る日までご容赦を。

ところで昨夜は、遊声塾の今年最後のレッスンだった。師走のさなか、私も含め4人の参加で締めくくりのいいレッスンができ、個人的に様々な感慨が去来した。
 
まったく写真のない、シェイクスピアの膨大な文字数だけの作品の言葉を、声に出して読むのは相当に骨の折れることである。(が私はその面白さを見つけてしまった、文字を耕して息を吹き込む面白さ)

ましてやわたくしごときの、拙文ブログでは、写真がなかったら、誰も読んでくださらない可能性はにわかに増すだろうというきがする、がまあ仕方がないというのが正直な私の気持ちである。(写真がなくても読んでいただけるような五十鈴川だよりを書きたいものだ)

 ところで、まったく話は変わるのですが、先日私はクリスマスの玄関に飾るリースを生まれて初めて作った。材料は竹韻庵で開墾した笹の根である。

1メートル以上はある、土の付いた笹野根を10本選び家にもち帰り、近所の用水路にさらし可能な範囲で土を落とし、恐る恐る折れないようにまるめ、何とかいい感じにおさまった。

最初は不審な面持ちだった妻も仕上がりを見て、顔面に笑みがこぼれ、すぐにきれいに赤や金色の鈴や、松ぼっくりほかの飾りで思いもかけず見事な リースが玄関をかざった。冷えた夜、ライトに照らし出されると、さりげなくてハンドメイドの存在感がある。これで雪があれば、、、。

今も竹韻庵 では、つるはしを振るうたびに笹の根が採れる。これまでは乾燥しては、燃やしていたのだが、ほれぼれするような見事な根が取れるたびに、何か飾りにでもしたらとの思いが、年の瀬のクリスマスリースに結びついたというわけだ。

娘も姉にラインでさっそく写真を送って、長女からすぐにお褒めの言葉をもらったし、母からも、いいいい、と喜ばれた。

何せ64歳で初めて作ったのだが 、最近生きて元気なうちに、思いついたことは可能なことなら、無理のない範囲で実行してみようとの思いが深まっている。

このブログだって 思いつくから書けるのであって、私の場合思いつくことが生きているということの証左、料理だって掃除だって生きていることの喜びの中で、ヒトは何かを手を動かし作る。(現代人がぼけるのは手や足腰をあまりに動かさなくなったからではないか)それはどんなにささやかなものであれ、生きてればこその日々の喜びである。

竹韻庵に行くようになって、琵琶茶も作ったし、今5種類の冬野菜を植えていて、その成長を眺めていると、地面からわ。が体にエネルギーが乗り移ってくるような気がする 。何かが語り掛けてくるのだ。

五感が生き生きと働き、ときおり六感が舞い降りるのである。人工空間で消費生活にばかり身を置いていると、なにやら大事なことがさらさらと抜け落ちて、丁寧に生きることの妙味を、感じることなしに過ぎてゆくとしたら、感動しない体になってしまう気がして、もったいなくも寂しい。

 自分自身というかけがえのないささやかな器の不思議な体の可能性は、年齢と共に反射神経や運動能力は鈍くなるものの、思考神経は緩やかに下りながら、深まってゆくように思える。そうありたい。
 

2016-12-14

美々地小学校の同窓生、T氏からお誘いの電話、そして思う。

一見何事もないかのように、穏やかな日々が過ぎてゆくかのような私の日々も、当たり前のことだが同じ日々は、まったくないのであるということを、私も含めて大方の人間は、なかなかその厳粛足る事実を、意識的に認識することはなかなかに困難なことである。

夜明け前、よく寝て起きたばかり、私自身の脳はまったくのニュートラル、まだ暗き師走の朝のいっときを、いつもより早いのでブログを書くことにした。

美々地小学校の同窓会に参加したことを、11月16日の五十鈴川だよりに私が書いた。その時に再会して、今は水島で働くT氏から、昨夜電話をいただいた。

 あの日の同窓会メンバーの数人が倉敷にやってくるので、また会おうよ、という暖かいお誘いのTEL.。その前に、倉敷にゆくというY子さんから、(関東から来られる)可能なら会いたいというメールが入っていた。

日にちは明日、木曜日、場所は倉敷駅前 、本来なら明日はカルチャーのレッスンなので無理だったのだが、生徒さんの都合で日にちを変更していたのが幸いし、同窓会からひと月もたたないのに、超ミニの同窓会に再び参加することになった。

まったくいい意味での予期しないことが 、人生には多々起こる。来年65歳の誕生日を迎える私、現在64歳、今年の52年ぶりの同窓会参加は、33年ぶりの舞台参加と共に、出色の出来事。今後を生きる私にとって何やら愉快なひと時が過ごせそうな予感、倉敷まで出かけることにした。

それにしても、52年ぶりに参加した同窓会からまだひと月しかたたないこの師走に、美々地小学校の何名かが倉敷に集まるという絆の強さ、深さに脱帽する。まるで家族である。

根のない、やわな上っ面の言葉が飛び交い、不毛な人間関係に私も含め飽き飽きしている時代の中で、小中学校時代に育んだ濃密なつながりを、いまだ堅密に保つ美々地小学校の同窓会のメンバーと師走のひと時を、私もともに過ごしたいのだ。

ともあれ、わたくしごときにも、師走は何かとお誘いがあり、静かに過ごしたいという私の願いは消えてゆきそうな気配。それもこれも、篠田桃紅先生(達人、素晴らしい)の言葉だが、【人生は一本の線】と考えれば、自分という考える葦を生きるほかはない。

17日には京都の山科で、数十年の交友(交遊)の友と落ち合うことになっている。お互いいい年齢、落ち着いた一期一会の、二人時間を過ごすには山科は、私の琴線の旅情を刺激する。

今後ますます私は、縁、運命時間を大切に生きたいという思いにとらわれている。お誘いがあるなんて、何と在り難いことだろう。人陽炎のように、ままならない運命時間を、心からともにできる友が在るということの、幸福を師走の朝噛みしめている。

書き終える今、今日をどのように過ごすかの予定が決まった。洗濯は終わっている、朝日が昇ってくるまで、シェイクスピア、ジョン王を35年ぶりに読むことにする。

2016-12-13

年の瀬が近づきつつある師走の朝ブログ。

本当にブログを書く頻度が減ってきた。以前は、はやったり、(書かなくちゃtぴうような)焦りにも似たような感覚が付きまとっていたような気がするが、ほとんどそれが無くなるつつある。

わずかな人ではあれ、つたなき気まぐれな一文を、きちんと読んでくれる人がいてくださるということが、ささやかなわが励みともなっている。在り難いことである。

最近というか、私の中での晩年時間の今を生きる、ささやかな情熱の根拠は、ただ単にシンプルな生活人 でありたいという一点に集約されてきつつある。

一寸先のことがいよいよもって五里霧中、正邪、善悪の境界が、まったくもって見えにくい時代性の中、私が頼りにできるのは、手の届く範囲でただただ自分の体が心から喜ぶようなことを、やって過ごしたいという、はなはだもってシンプルなものである。

オーバーな表現をすれば、夢が原退職後、私が始めた、声を出して 遊ぶことや、土に親しんで過ごす時間というのは、手ごたえというか、自分の体が喜んでいるということが、単純に自覚できるのである。

もってうまれた性格と時代性に起因するものであるので、いまさらどうにもならない、いわば宿命との認識が私にはある。

話は変わるが、最近買い物や料理、掃除などの家事一般を以前にもまして楽しめる自分がいる。冬のストーブの薪づくりもその中に含むが、そんなこんなを一日の限られた時間の中で、意識的に楽しんでやっていると、あっという間に一日が過ぎてゆくのである。

それに再び、一度しか読んだことのなかった、膨大なシェイクスピアの作品を35年ぶりに、全部声に出して読むということも始めたので、ますますもって一日が貴重に過ぎてゆくのである。

ということで、平均週に一回から2回くらいのペースで五十鈴川だよりを書ければいうことなし、という最近の暮らしなのだ。

フェイスブックやライン、友達申請ほかで、多くの方に不義理を重ねている現実に対してこの場を借りて平にご容赦願いたい。

感動というものは、めったにないから私は感動する。友達とのたまさかの交遊も、たまにだから交友を温め合うことがうれしいのである。お手紙に・勝ものなし・心かな。

静かで穏やかな暮らしというものに、歳と共にひかれてゆく年の瀬の私である。

2016-12-05

老いの効用が深まる師走時間。

師走もはや5日、おかげさま。で穏やかな師走時間が送れている。一日を可能な限りリズム軽に過ごせるように、寝る前に大まかに明日やることを考えるようにして床に就くことを、最近きわめて意識的に行っている。

以前から大まかにはやっていたのだが、より意識的に 心かけているのである。そのせいか日々の暮らし方の行動範囲が、限りなく小さくなり決まりきった範囲を移動しているかのような、最近の日々なのだが、それで事足りている穏やかさというものに、限りなく充足している。

つまり、老いの功用ののようなものであると、かってに私はせまい範囲の日々を楽しんでいる。動けることを意識しない時間の果てに、若い時のようにはゆかない体の奥深い気づきを、いわば意識的に楽しもうというのが最近の変化である。

オーバーに表現すれば、一日一日を悔いなく送りたいという、ささやかな老いの欲といったようなものであるかもしれない。

といってもあまり深くは考えない。まずは緩やかに動きながら考える 。というより、動いていると思考が動いてくるのである。このブログの一文だってそうである。一行が次の次の一行を生むのであって、取り立てて書こうとは思わなくても、書いていると文章がかってに決まってくるのである。

まったくの自然体、自分で次何を書くのか判然としなくても、生まれてくるのである。それが私にとって今を生きている事実ということになる。

朝からこ難しいことを書いているが、話題を変える。このところ妻の母と過ごす時間が、本当に増えたと思う。老いてゆく母の人生に寄り添える ようにありたいというか、どのようにしたらあのように、老いを生きられるのかを、少しでもそばで体感したいからなのである。

妻は今もフルタイムで働いているので、その代わりといっては何だが、あれやこれや私ができることは、やっているしやろうと心かけているのだが、御年84歳になる母は、まったく自立していてまったく手がかからず、絶えず私たちや孫の行く末に思いをいたしている。

私も限りなく母のようにありたいと最近とみに感ずるのである。とはいうものの一朝一夕に母のような境地に立てるはずもなく、なるようにしかならないのだが、人生に近道はないのだという気が日増しにするのだ。

寄り道の多い人生を今も生きている気がしているが、寄り道は楽しい。論旨のまとまらない朝ブログになったが、恐縮至極、そろそろ竹韻庵に向かう時間である。今朝はこれにてお開き。

2016-12-01

今日から師走の朝ブログ。

今日から師走、経済中心社会のにぎやかな電飾イルミネーションが、そこかしこに、かなりの電源の大元である原子力発電事故のことも、私も含め大方は忘れ去ってしまう、やんごとなき人間社会の現実。(妻もささやかな小さなイルミネーションを玄関先に、師走下旬になるとかざる)

人間は嫌なことは忘れ去り、都合のいいように日々を何とか送ってゆかざるを得ないように、人間の脳は仕組まれているのかもしれないと、能なしの私などはかんがえてしまう。

だが、私は闇が深い昭和の幼少期を送ったので、大げさな明かりよりも、漆黒の闇の中に浮かぶささやかな明かりの方が理屈ではなく、しっくりくる。

こういう感性は、生れ落ちた環境の中で育まれたものであるから、当人である私にはどうしようもないものである。静けさや漆黒の闇の中でこそ、五感は研ぎ澄まされてくるのではないかという気が私はするのだがどうであろうか。

電飾にまかれたり、ライトアップされた樹木たちは黙して語らないが、私にはときおり痛々しく感じられるのだが、、、。人が動き、金が動き、経済が発展するという大きな渦のこの世の流れからは、小生は完全に乗り遅れているし、ついてゆく気もないし、遠巻きに低みの見物を、決め込んでいる。

ところで、話は変わる。気になった書評などを、この十数年切り抜いていたのだが、そのノートが数十冊になりそろそろもうやめようかという気になってきている。

というのは、このいわば趣味の切り抜きは、子育て真っ最中の、私のもっとも金のかからない楽しみの一つとして、始めたものであったので、子育てが終わり、再び得たかなりの自由時間を、ほかのことに使いたいという思いが湧いてきているのである。

十数年やってきたことを、急には変えられないものの、徐々に減らしてゆくつもりである。切り抜きを始めたころは、土いじりとか声出しとか、まったくやっていなかったので、まあいわばライフスタイルの変化と共に、あれやこれはできないという当然の帰結である。

何事も内なる自然な流れの声に従うだけなのである。再び話は変わるが、電話などというものも私の子供時代にはお金持ちの家にしかなかった、ツールである。半世紀で浦島太郎というしかないくらいに、私たちの生活環境は激変してしまった。

いわば、私の体はその流れについてゆけないのである。必死でついていっていたのだが、漸くにしてついてゆかなくてもいい、限りなく幼少期の自由に近い、時間を再び生きられるような感覚を、いまどことなく生きているような気がしているのだ。

子供のころ、もちろんお金などはなかったが、そのことで私は好運に悲惨な思いもしたことはないし、パンツ一枚で泳ぎまわり、魚を取り、気が付いたら見よう見まねで誰と競争することもなく、泳ぎを覚えていた。

五十鈴川は、私の原点のかけがえのない川である。年に数回、この十数年私は五十鈴川のほとりに立つが、いまだ私の中に生きている幼少期のかけがえのない記憶が、今をよりよく生きるよすがとして、呼ぶのだ。

今回の帰省で73歳の姉が、変な俳句を詠み、短冊に書いてくれた。【帰るたび・落ち鮎漁の・弟よ】まさかこのような歌を、やがては姉が書いてくれるとは思いもしなかったので、うれしかった。

11月は何かと忙しかったので、12月は一年の締めくくり、可能な限り穏やかにすごしたいと思う朝ブログである。

2016-11-27

お墓掃除帰省旅の帰り、寄り道、福岡アクロスで、I氏と二人だけの声出しレッスがかないました。

雨である。たまさかの雨は、まさに私にとっては慈雨である。52年ぶりの同窓会や、お墓掃除帰省旅、また11月は玉ねぎを植える月であり、声出しレッスンはいつものように続き、一家の主として、ささやかにやらねばならぬこと、特に薪づくりなど、あれよあれよと過ぎてゆき、この雨。有難い。

一日の過ごし方に、リズムがある、リズムが生まれるような暮らし方というものを、何とか工夫して過ごしたいという、気持ちが私にはある。だから、つたなきお恥ずかしブログを書き続けているようなところが、いまだに私にはある。

さて、何を書こうかと、つらつら おもんみるに、アサヒビールI氏と先日帰省旅の帰り、遊声塾の番外レッスンを行ったことに少し触れたい。その日23日、、門川を朝9時前に立ち、高千穂経由で、地震で今も通れない南阿蘇を迂回し、(天変地異の運命を生きるしかありません)博多アクロスにに夕方5時についた。

待ち合わせたI氏と(氏の会社はアクロスの7階にある)アクロスの地下にある、ミニレッスンスペース(氏があらかじめ借りていた)にゆき挨拶もそこそこに、二人で恋の骨折り損を交互に、すべての役を輪読した。

休み休み3時間近く、全幕読了することは叶わなかったが、5幕の一場まで 読み進めレッスンを終えることができた。

この9月、I氏は香川支店から福岡支店に転勤になったのだが、香川支店にいるときから、月に一回しか参加できない番外塾生であったのだが、福岡に転勤になっても可能な範囲で遊声塾は継続したいという意思を示されていたので、帰省旅のついでに博多まで足を延ばしたというわけである。

情熱には情熱でキャッチボール、報いる というのが、わたしのささやかスタンスである。何よりもレッスンするのが愉しい相手とのレッスンは何物にも代えがたく、面白い。まあいわば、思いもかけないI氏との熱きレッスンが博多の天神のど真ん中で、二人でやれることになろうとは思いもしなかった。

それもこれも、やはりこれは何かの機縁というしかないのだから、たまさかこういう初めての出張レッスンもありということで、意外性の極み的な二人だけのレッスンが天神アクロスの地下でひっそりと行われたことを、五十鈴川だよりに書いておきたい。記憶に残る贅沢時間。

レッスンを終えた私たちは、アクロスの向かいの路地の餃子屋さんに直行、I氏に夜食をご馳走になり、外に出ると雨。スマホのナビを頼りに、博多から岡山にむかった。。

思うになかなかハードに思える旅の中での、寄り道贅沢時間、なかなかこのような意外な時間は、持つことがかなわないし、このような出来事は、そうは私でも起こりえない。

やはりI氏の情熱と、私の中の情熱が結びついたということだろう 。そしてありがたいことに、いまだそういう遊び心が自分の中に在るという、自在な確認ができたこともうれしかった。

博多に着いた時、レッスンができるだろうかというくらい私の体は疲労困憊していたのだが 、レッスンはできた。そしてレッスンで生まれたエネルギーが深夜岡山まで運転するエネルギーを生んだ。途中宮島で行きの別府と同じように仮眠熟睡し、朝日に迎えられ、我が家に7時過ぎ無事着いた。

深い信頼関係が生まれるのに、秘策などというものはありえない。現代という索漠とした、混沌とした時代の最中にあって、人知れず地中深く根を張るような関係性を、育むにはいかに生くべきか?

I氏を含めた、ささやかな 声出し仲間と、目には見えない内面世界への旅を、しばし続けたいと想う。

これ以上野暮なことを書きたくはない、私は野暮なことが苦手である。



2016-11-25

40年ぶり、兄弟で力を合わせ、お墓の掃除ができました。

20日午後倉本聰先生の講演会を聴いて先生にご挨拶し、車で岡山を発ち高速をひた走り、何回か休み、別府に11時過ぎ着き、さすがにくたびれたので、車が休めるインターで5時間近く寝て(妻が考案した布団に完全に足を延ばし寝袋で熟睡できた)起きて2時間ほど運転し、兄の家に8時前には着いた。

(別府から峠を超え、北川の流れと北浦の海が目に入ると、故郷に帰ってきたという不思議な安ど感にいまだ私はつつまれる、高速を降り早朝の北浦の砂浜で 少し休んだ、来年は北浦の海で泳ぎたいと思っている)

さてその日、21日、少し休んで今にも雨が降りそうな中、兄と二人お墓にゆき、40年ぶり、屋根付きのお墓の主に屋根を含めた、たまりにたまった苔を、二人して3種類大中小の、金のブラシで4時間近くごしごしと辛抱強く、磨きに磨いた。

時間が経つにつれて、膨大な量の苔が(特に光の当たらない北側部分と裏側)とれ、大変ではあるのだが、はかどり始めると、二人して夢中になってバカなことを言い合いながらの作業を楽しんだ。

お昼近くから小雨が降ってきた中、切りのいいところで作業を中止、兄が水圧のかかる散水用のホースを家に取りに帰り、ブラシで磨き上げた部分に水をかけ、洗うと、見違えるほどきれいになったお墓が姿を現した。

途中、次兄もやってきて中高年兄弟トリオでの、力併せての、まさにつもりに積もったちりや苔を、お祓いする、 めったにはできない儀式をすることができたことを、なにはともあれ、きちんとできた喜びを五十鈴川だよりに書いておきたい。

よく22日、朝食後再びお墓へ。長兄と二人やり残した部分を仕上げるために、2時間近く昨日の続き、快晴に恵まれ、朝日を浴びた掃除の行き届いたお墓は、塗装がはがれていても喜んでいるかのように思えた。

これで来年春、暖かくなったら塗装も兄弟で力を合わせて、何とか仕上げたいと思っている。今回の帰省は、お墓掃除が目的だったので、その願いは満願成就となった。

21日の夜は、兄夫婦が私を鮎やな料理(延岡の五ヶ瀬川のやな場での炭火焼)、22日夜は姉夫婦がお寿司でもてなしてくれた。

また、22日昼はまたも兄夫婦に、おいしい中華料理をご馳走になったのち、わが山野の素朴な紅葉が美しい五十鈴川のほとりをドライブに連れて行ってくれた。

23日早朝出発前には、姉夫婦が私をへーべーず(柑橘類のスダチの大きいの)取りにつれて行ってくれ、たくさん車に積んで持ち帰ることができた。

今回門川には、2泊3日のちょっとあわただしいお墓掃除の帰省旅、毎回帰省の度に、兄も姉も私も歳を重ね、人生の晩秋がいよいよ近づいてきつつあることが、ようやくにして少し実感できる旅となった。

わが兄弟も戦後を何とか生き延び、おのおの歳を重ね、いい感じで再会できる今を、私はことのほか在り難く受け止めている。

これからも年に数回、そして毎回これが最後になるかもしれないという感覚を大切にして、一期一会の帰省旅を可能な限りつづけ、祖先に対して感謝の想いを馳せたいと思う。
 

2016-11-19

竹韻庵に、母と赤玉ねぎをうえました。

旅から帰ってまだ一週間、なにやら幸せな感覚がいまだ体をおおっている、その感覚をいつくしみながら日々を送っている。

さて、竹韻庵に昨日母とゆき、赤玉ねぎを200本ほど植えた。竹韻庵には水道がないので、雨が降りそうな前の日を選んで植えるようになるべくしている。

夢が原退職後、一念発起して、体が動くうちにほんの少しでも土仕事を母に倣って始めた私だが、やはり何事も丸3年はやってみないとだめだと思い知らされている。

この歳になって改めて思う、物事をなすには何よりも丁寧になさねば、何一つ手にすることはできないと。何事もすべてそうだとは思うが、あらためてその実感に襲われる。

母と畑に行くたびに、その丁寧な仕事、土をいとおしむかのような、その84歳の体の、指先の動きに私は打たれる。

だから、最近 母との畑時間を、私は何よりも最優先している。目と鼻の先にこれ以上はない土いじりの先輩がいるのだから、感謝するほかはない。

母は野菜作りに関して、書物を一切読んではいない。 ただただ自分で経験を積んできただけである。義父がなくなって16ねん、ひたすら小さな庭に野菜を植えることを生きがいのように今も続けている。我流だがその野菜の出来栄えは見事である。何故か?


その母の育てた愛情野菜を、わが家族は今もいただきつつ、日々を送っているのだが、その愛情の源は、どこから出てくるのかを、私は母との土仕事の中から学びたいのである。

ところで、今年は玉ねぎの苗が入荷不足で 、どこに行っても赤玉ねぎの苗は売っておらず、あきらめかけていたのだが、長船の農家さんを紹介してもらって訪ねたところ、偶然分けてもらうことができた。

すぐ母に電話したら、直ぐ植えにゆこうとあいなったのである。母は今年の夏、宮崎に初めてゆき、我が家のお墓参りをしてからというもの、ことのほか元気で私を驚かせている。

針仕事と野菜作りという晩年時間を、悠々と過ごしている母を見ていると、私もかくありたいと願うのである。

その家族のために役に立ちたいという、母の思いの深さに私は脱帽するのである。小さきことに対しての、一途さ、健気さ、愛情の深さに。

竹韻庵について 、私も母も先日植えた玉ねぎの上に柿の葉っぱがたくさん落ちていたのだが、私と母は、まずその落ち葉を取り除くことから始めた。

こんなことを書くと面はゆいのだが、愛情というものはどうしたら自分の中に根を生やすことができるのかを、母との暮らしの中で私の中に根付かせたいという思いが、深まる晩秋である。

ところで明日、富良野塾の創設者、倉本聰先生の講演会がおかやまで開かれるので、本当に久方ぶりに先生にご挨拶し、そのあと急だが門川(五十鈴川)にお墓参りに帰ることにした。

2016-11-16

齢64歳にして、初めて美々地小学校同窓会に参加することができました。

予定通り3泊4日の旅を終え、月曜日人生で2度目の深夜バスで昨日の朝西大寺に帰ってきた。

名古屋で友人に会い、土曜日は52年ぶり小学校の6年生の時に1年間在籍した、宮崎県北方にあった、美々地小学校の同窓会に出席し、翌日娘のところに世話になり、月曜日はバスに乗る直前まで親友と歓談し、これ以上は望めないくらいの充実した旅となった。

美々地小学校の同窓会に 、よもやまさか出席できるとは思いもしなかった。まさに今回の旅の白眉のわが想いを、わずかではあれ五十鈴川だよりに書いておきたい。

人という生き物は、やはり思春期の思い出を生涯引きずって生きてゆく、そのことをまざまざと思い知らされた、感動的な同窓会となった。52年ぶり、たった1年間しか在籍しなかった美々地小学校での私の思いでは、思春期の入口の思い出として、今となっては淡い宝のような個人的な記憶なのである。

ブログではなく、 美々地小学校の思い出として、頭がはっきりしている間にきちんと書いておきたいほどに、私の人生にとっては大きい出来事がいまも心の片隅に息づいている。

美々地小学校は、槇峰銅山があった有名な高千穂の近くの、山間の銅鉱町にある、町中が一つの家族のような雰囲気を持った、ほかに例のない独特の、地名通りの美しい桜並木に囲まれた、小学校だった。

小学校5年間を、生まれた海沿いの町、門川小学校で過ごし、6年生の春、桜が満開の美々地小学校に転校した。一年間住んだ銅山の長屋の集落の地名は桜ヶ丘で、文字通り桜がそこかしこに植えられていて、坂道を下ると小学校、登ると中学高校があり、我が家のすぐ上に中学高校のグラウンドがあった。

書いていると、いまだありありと そこかしこの当時の銅山町、美々地の景観がわが心の中に鮮明な記憶の中で今も息づいている。

しかしその槇峰銅山は私が転校した3年後閉山し、わが同級生たちは全国に散ってゆくことを余儀なくされたのだ。

高校生の夏休み、閉山後美々地を訪ねた時のそのあまりの変わりようには言葉がなかった。面影が消えていたのである。あれは夢の中の町だったのかといえるくらいに。思えば思春期に小さなある種のトラウマを私は抱えた。

人間とは悲しいかな、共通の記憶を持つ間柄の関係性の中でしか、愛情や微妙な心理の肌合いは生み出しえない性を生きているのかもしれない。それは幻想にも近い形で。

さて、同窓会には全国から、南は宮崎北は、青森から27名が富士山のふもとの御殿場に集結した。宿からの霊峰富士が、同窓会を祝福するかのように迎えてくれた。

 なぜ私が52年ぶりにこの同窓会に出席することができたのかは、書くと長くなるが、歳と共に記憶の中のわが故郷への思が強くなってくる私は、帰省の折折に美々地を訪ねていたのだが、ある年、まだあった美々地小学校を訪ねた私は、縁あって小学校の近くに今も住んでいるT君と再会することができたからなのだ。

たった一年間しか在籍しなかったにもかかわらず、同じクラスでもなかったのにT氏は私のことを覚えていたのである。

なにせ52年ぶりだし、参加してもT君のように私のことを覚えていてくれるわけではないだろうし、いささかの不安を抱えての参加だったのは事実だが、私の杞憂はすぐに消えた。

私のことを記憶している人は少なかったにもかかわらず(半世紀以上が過ぎているのですから)たった一年しかいなかったのに、よく来たよく来たといって、大歓迎してくれたのである。

一番多感な人生の思春期、否応なく故郷から離散させられた、彼らのその後の人生の艱難辛苦は、各人各様、たような修羅の風雪の時間を生きてきたはずである。

それを生き抜いて52年後、今も(当時6年生は3クラス150人くらいだった)27人が集まっている、その家族的な絆の深さに、ただただ私は静かに脱帽し、感動した。

彼らは私が参加するはるか前から、五年ごとに 同窓会を行ってきていて、歳と共に参加者は減っているとのことだったが、それにしても熱い同志的絆で結ばれている同窓会に参加することができて私は心からよかったと今思いながら拙文をつづっている。

それに何と岡山は水島から参加しているT氏もいて、近く岡山で超ミニの同窓会をやろうとの約束もできた。

私の中で思春期を熱く語れる同郷人に一度にわっと会えたこのたびの同窓会は、何物
にも代えがたいご褒美、豊かな楽しいひと時を私に与えてくれた同窓会となった。

この同窓会への参加がきっかけとなって、老いてゆく中で、また改めて美々地小学校の同級生との新しい 関係性が育めそうで、私としては思い切って参加して心からよかった。

それにしてもこんなにも熱き友情で結ばれた楽しい同窓会に、いきなり 52年ぶりに参加することができた幸運は何といったらいいのかわからない、ただただ美々地という場所で出会った奇縁というしかない。美々地が私たちを結びつけているのだ。

外見は、私も含めそれ相応に年齢を重ねたが、各人、心の奥底に美々地での思い出を大切に記憶の宝として、生き抜いてきた同窓生の強さ、やさしさにいきなり参加した私は強く打たれた。

転校生であった私は、おそらく一生同窓会なるものに出席することはないと思っていたが、人生いつも書いているように一寸先はわからないのである。どこか心の底で私は同窓会に憧れていた。

初めて同窓会に参加して、いま思うことは、 美々地が私を同窓会に呼んでくれたことへの感謝である。私は今後可能な限り、この面々との会合には、同窓会にかかわらず、晩年時間駆けつけるつもりである。

同窓会の名簿作りから、今回の静岡での幹事から一切合切の雑事を引き受けてくださった方々、今も美々地に棲むT君、いきなり参加した私を暖かく迎えてくださった、今回の全同窓会メンバーに、こころからこの場を借りて感謝します、ありがとうございました。

くれぐれもお体大切にしてお過ごしください、またの再会を念じます。

2016-11-11

今日から本を片手にちょっと旅に出ます。

真っ暗、いつもより一時間ほど早く目覚ましで起きて、実は意識朦朧あまり時間もないのだが、これから今年2度目の遠出をする。

今夜は友人を訪ねて、初めての名古屋どまり、明日は静岡で小学6年生の時、一年間だけ在籍した美々地小学校の同窓会(同窓会に出席するのは人生で初めて)で静岡どまり、日曜日は東京の娘夫婦を訪ねることにしている。

いまのところ3泊四日の予定だが、東京にもう一泊するかもしれない。たまにしかこのようなことはないのだから、旅はやはりたまにするのがいい。

何事もめったにないから、感興が湧くというものだ。とはいうものの、私は旅がらす的な性格を多分に持ち合わせていて、旅が大好きである。

もっというなら、やはり人生は長い長い旅のようなものであると、この歳になるといやがうえにも、そのような気がしてくる、そのことはおいといて、久しぶりの非日常時間を楽しんでくるつもりである。

今年も残りひと月半、振り返るにはちと早いが、予期しないことが次々に実現した、私にとっては意義深い年となりそうである。

一年に一度か二度、ちょっとした旅をして、ひとり時間を過ごすというのは、私にとってはやはり大切だ。

なぜ旅に出るのかと問われたら、家族のもとに帰ってくるためなのではあるのだが、いわばある種の健康な病のような感情、絶対矛盾なのである。

旅に出て、ひとりで外でご飯を食べるときのわびしさといった、ない。だから今回も夜はどこかで誰かと夕飯をすることにしている。、このような他愛もないことを今後ますます、興に任せて書き綴る五十鈴川だよりになりそうである。

いわば、人生はいっときの 仮の宿、その仮の宿暮らしのつれづれを、煩悩のおもむくままに往還したい五十鈴川だよりである、といったところでいってきます。

2016-11-08

岡山映画祭にゆきました、そして思う。

先週から昨日まで、ことのほか多忙な、しかし充実した日々を私は送っていて、今日やっと五十鈴川だよりを書く時間が訪れ、ささやかな幸福感に体がつつまれている。

さて、二年に 一度開催されている岡山映画祭が一昨日の日曜日に終わった。私は木曜日から日曜日にかけて、6本の作品を見ることができたがいずれも素晴らしい作品ばかりで、このようなフィルムを岡山の地でまとめて集中して見ることができて本当に良かったと、今も書きながらおもっている。

一応私が見たフィルムだけでも書いておきたい。【幕が上がる・本広克行監督】【大地を受け継ぐ・井上淳一監督】【奈良ゆみ 歌に生き 愛に生き・宮岡秀行監督】【幸福は日々の中に・茂木綾子監督】【人魚に会える日・仲村颯吾(りゅうご)監督】【レイルウエイ運命の旅路・ジョナサン・テブリツキ―監督】以上。

全16作品のうちの6本を見ることができたのだが、【今、受け継ぐもの】というテーマのもとに、なかなか岡山では見るチャンスのない多様な作品群を、観ることができたことについて一言の感謝を、わが五十鈴川だよりに記しておきたい。

私も企画者の端くれを、20年以上 続けてきたからよくわかるのだが、何か事をなすには相当な継続的な忍耐を強いられるので、岡山映画祭のスタッフの努力に拍手を送りたい。

重いテーマの 作品も多く、簡単に印象感想を書くことは、みたばかりだし控えるが、いずれも観る側が真摯に受け止め、考えながら日々を送らねばと思わせるに十分な内容の、私が見た6本のフィルムであったことはしっかりと書いておきたい。

そこで、いきなりいつものように話は変わる。昨日、竹韻庵に朝一番にゆき一人で300本の玉ねぎの苗を植え、いったん家に戻り昼食をし、すぐまた今度は母も一緒に竹韻庵にゆき、母と二人で700本の玉ねぎを午後4時近くまでかかって何とか植えることができた。

本当は300本で終える予定だったのだが、今日雨が降りそうな予報だったので、お昼家に戻った時に、できたら午後も植えたいので一緒に行ってほしいと母に頼んだら、二つ返事で引き受けてくれたのである。

徐々に日没が早い季節の今、母と二人で1000本の玉ねぎを植えることができたのは、きっと岡山映画祭の今、受け継ぐものというテーマと、私が見た作品の数々が、私に力を与えてくれたからではないかと思っている。

感動はなかなかに継続しえないものであるが、だからこそ野菜に水を上げるように、わが心にも映画をはじめとする多様な芸術や文化的なビタミンをときおり心に注がねば、わたしみたいな単細胞な人間は、危ない危ない、流されると反省するのだ。

こんなことを書くとひきも切らず書きたくなってしまうのでやめるが、 私なりに今受け継ぐべき個人的足元の大事の一つが母との畑仕事、体動かし時間である。

母が元気なうちに、母から野菜の育て方を学び、母との思い出を体に刻み付けたいのである。

岡山映画祭で私が見たフィルム、原発被災後の今も続く大きな問題、また基地が集中する沖縄に生きる、若き才能の発信フィルムは、私自身の今を問いかける。

とりあえず、畑で母と作物を作り続けながら、私自身の足元を確認しながら、遠くであらゆる困難を抱え生きておられる方々に対して、ささやかな想像力を養い続けたいと思う。

岡山映画祭は、社会の一隅で真摯に生きておられる方々に 、寄り添う稀な映画祭である。岡山市民の一人として、私に可能なことはこのような形で何か反応し、何よりも映画祭に足を運び良き観客になることである。

見るためには、出かけてゆく健康な足腰が必要だ。パソコンはこれくらいにして昨日飢えた玉ねぎの様子を見にゆきたい。



2016-10-31

結婚記念日前日の秋日和、3世代で干し柿をつるす。

この数年毎年書いているかもしれないが、おそらく私が元気で五十鈴川だよりをかける間は、厚かましくも何度も書き続けるような気がする。

そして年を重ねるにつれ、その書き方は面の皮が厚くなってゆくような気がするので、ちょっと我ながら恐ろしい気もしないでもないが、とうに還暦を過ぎているのだから、無礼講でゆこうと思っている。

というのは、今日は29回目の結婚記念日であり、知り合って30年目になるので、やはり私としてはなにがしかの個人的な感慨が秋空のもと生まれてくるのである。

人生にもし、あの時ということがなければとか、 人はまるで異なる人生を歩んだりすることはままあることだと思うが、まさに一人の女性との出会いがあったからこそ、いまの私は生きながら得ることができて、このように五十鈴川だよりを書ける好運に思いをはせてしまうのである。

一人の女性と出合い、あれから29年、結婚し子供に恵まれ、その子供が巣立って行き、またもや晩年夫婦二人の暮らしを始めつつある人生の今。

下の娘がまだ同居しているが、時間の問題で夫婦二人の暮らしがやってくる。これからあと何年共に暮らせるのかは神のみぞ知るということになる、が、いつも書いていることだが、そのような不確かな先のことに私は重きを置いていない。

それよりも今、今日という一日をきちんと過ごせることに、なにがしかの感謝を寿ぎながらの積み重ねを楽しみたいと思わずにはいられないのである。

話は変わる。おとといの土曜日、午前中母と妻の3人で近所のとある方のおうちに、西条柿の収穫にゆき、その日の午後から皮を向けるように母と準備し、昨日一日朝から夕方までかかって吊るし柿を、おおよそ20列以上干すことができた。

おそらく今までで一番多くの吊るし柿を干すことができた。母の思わぬご縁で大量の柿をいただくことになったのだが、実は今年はもう干し柿を作ることはよそうかとも思っていたのだが、意外な展開の成り行きとなり、結果とてもよかった。

畑仕事もそうだが、陽だまりで柿をむいている母はことのほか嬉しそうなのである。そのような母を見ているともちろん私もうれしくなる。バカなことを言い合いながら皮をむいていると、下の娘が私も手伝うと思いもかけない展開、おかげで予想よりずっと早く吊るすことができた。

母、私たち夫婦、そして孫3世代による結婚記念日前日の、我が家の干し柿づくりは、秋日和にこれ以上はない、穏やかな記憶に残る一日となった。

剥いたばかりの柿が、秋の陽光に映える様に、娘が秋の風物詩だねといい、姉と怜君にラインで写真を送っていた。

可能な限り、母が元気な間は3世代での干し柿作りは我が家のささやかな、結婚記念日イベントにしようと心に決めた。

夕方母を送っていったのだが、84歳の母曰く、役に立つ間はできる限りのことはするから、またなんなりといってくださいといわれた。その一言にいうに言われぬ感情がこみ上げた。

これ以上野暮なことを私は書きたくはない。平和とはまさに千差万別、それぞれが日々の暮らしの中で紡いでゆくほかに 、今のところ私には方法がない。

【写真がありませんが、想像力で補っていただけると心からうれしく思います】

2016-10-25

秋の晴天の元、竹韻庵で母と共に野菜を植え、思う

夕飯を終えこの時間帯にブログを書いたことはこの数年まったく記憶がない。が今宵はどういう風の吹き回しか、パソコンに向かう自分がいる。

妻も私も午後九時以降は、テレビはほとんど見ないので、まったく世間様とはずれたような我が家の暮らしなのだ。

この季節は、朝焼けがとみに最高だし、夕焼けも日に日に早く涼むゆく夕日が 格別に美しい。夜明けの光に運動公園で射貫かれ、夕方沈む夕日に射貫かれ一日を終えるなんて、最高に幸せないち日といわずして、なにおかいわんやである。

自分でいうのもなんだが、なんだかまったく自己満足の日々を、このところ送っている気がますますしてきている。

来月は生まれて初めての同窓会で(小学校6年生のとき一年間だけ過ごした、宮崎の美々地小学校の)遠出をするが、以前の自分では考えられないくらい、じっとした暮らしをいとおしむ、楽しむ、生活の変化が訪れているのだ。

体の変化に伴って、まさに意識が変化する典型が、わが暮らしに訪れているのを私は、徐々に徐々に実感し始めている。

だからきっとわが五十鈴川だよりも、ますますもって変化してゆくのではないかという気がしていて、それはそれで実に楽しみなのである。

世は年金とか、金にまつわる話題に事欠かないが、18歳から金に苦労してきた私は、お金がない暮らしの辛さが、少しは身に染みているので、若いころから食うものさえあればお金がなくても、何とかそのホ一日を愉しく生き延びる知恵のようなものが、身についているような気がする。

身体さえシャキッとしている間は、何とかその日一日をやりくりできる自信は、今のところまだ健在である。

話はいつものように変わるが、今日83歳の母と竹韻庵で、母が育てたニンニクの苗や、市販されている野菜の苗(ブロッコリー、カリフラワー、そら豆、下仁田ネギ)を植えた。

朝、竹韻庵に行くけど一緒にゆきますかと電話を入れたところ、行くよーっとまるでこの日の晴天のようなお返事。現在の母はまるで童女だ。

妻は仕事なので 母と二人きりで竹韻庵に行くのは初めてのこと。お供はメルである。10時頃についてゆっくりと始動、母の指導通りに動きながらおおよそ2時間ですべての野菜を植え終わった。

わずか2時間 二人で体を動かしただけで、畑地の景色が変わるのであるからまことに持って愉しいというほかはない。植え終わった小さな畑を見ながら二人で弁当をいただく。うまい、格別だ。

ようやく腰の具合も元通りになり、身体が元気に動けることの有難さを感じながら、あらためて元気に大地と戯れる母の姿に、自分もかくありたいとの念を改めて強く持った。

私と違い、本も読まず、映画も観ず、あらゆる文化的といわれるようなことにはとんと無縁な母でるが。人間としての基本的なことは、きちんとできる。

母を見ていると、私は深く頭を垂れ、反省しきりの最近の私である。これからは母との土時間、声出し時間、散歩時間、読み書きはそのあとという感じで、優先順位を変えようと思う。


確実に母とのこのような穏やかな時間は減ってゆくのだから、一日一日ははから学べることをきちんと学んでおきたいと思うのである。いつかはこのようなひと時も確実にできなくなるが、そのような時は、そのようなとき、いま、今日が一番大事なのだ。

お金に端を発する事件 がひきも切らない世相であるが、可能な限りお金に心がむしばまれないように、母を見習い穏やかに過ごしたいものと、天の下で物思いにふける私である。

2016-10-22

11日ぶりの五十鈴川だよりである。以前はブログを書かないと、どこかが落ち着かない気配があったが、最近はとんとそのような気持ちが消えてしまいつつあるのは、やはり年齢のせいなのだろうという気がする。

ああそろそろもういいかなあ、という声が体のどやらから聞こえてくるのである。でもそれは、やはり毎日ではなくても、書き続けてきたがゆえに至る本人にしかわからない感覚なのであるから 、これでいいのである。

18歳から、わたくしごときの人生でもたびたびの選択、決断をし、何とかこの年齢まで生きてきたが、来年の誕生日で65歳になる。まだ誕生日も来ないのに、岡山市からはシルバーカードが送られてきて、いやでも応でもシルバーageを意識させられる。

還暦を境にということもないが、確実に肉体の変化が起こっていることを最近とみに実感するようになって気つつある。それはいい意味でである。

ところでそれは十数年ぶり、背中から腰に掛けて 痛みがあり、背骨が湾曲しており、しばらく整体師のところに通っている。

考えてみると、ブログを書き始めてからというもの、座りながらずいぶん背中を湾曲 してパソコンに向かっていたのが悪かったのだということがハタと分かったからなのである。

何しろ腰の痛みは十数年ぶり、背中の痛みは初めてなのであるから、自分では気づかないままに随分体に負担を抱えていたのだということが分かってきたのである。

だから 、何事もほどほどに自分の感覚や体調に配慮しながら、日々を送ってゆきながらあるがままの正直だよりを願い、ある日突然流れが止まるのが摂理と受け止めている。

こんなことを書くと、いかにも晩秋的なブログだが、背中や腰の痛みを抱えつつも、竹韻庵には通い、声出しレッスンも、やっているときはまったく痛みのことは忘れている。

ゆったりと歩く程度のスピードで普段通りに生活はできる程度の痛みなので、無理をしてはいけませんよ、という声なのだと受け止めている。

ところで、桑江良健絵画展のことを書きたいのだが、ちょっと時間が無くなってきた。本当にやってよかったということだけ記しておきたい。桑江さんの人徳のおかげで31名の方が、11時から17時までの間我が家に 来てくださった。

私の予想をはるかに超えた。二晩、桑江良健大兄とゆっくり人生を語りあえた、そのことが一番よかった。また思いがけない方がたが来られ、4点もの絵画が売れた。

私はまたしてもいろいろなことをまなぶことができた。そしてこれから、いよいよ自分が人生の幕をしまう準備のきっかけになるヒントを、桑江良健一日絵画展から示唆していただいた気がしている。

普段はめったに会えないが、いざという時の莫逆の友を人生で持てたことの喜びの余韻は、いまも私を包む。

月曜日の別れの朝、桑江氏が私の妻の母に、絵を差し上げたいので一枚選んでくれといわれた。思いもかけない申し出に驚き、感謝し一枚を選ばせていただいた。

桑江良健という思いもかけない沖縄の先輩と知己を得たことは、まさにわが人生の喜び、宝である。





2016-10-10

シネマクレールでルキノ・ビスコンティ監督作品【山猫】を見る。

一昨日に続き二日連続で映画を見た。こんなことはこの十数年で初めてではないかという気がする。

それも妻と二人でというのが珍しいことなのだが、そのことをブログで書きたいのではなく、昨日観た映画のことをほんの少し書きたいのである。

私が昨日観た映画というのは 、シネマクレールで朝一回しか上映されない【ルキノ・ヴィスコンティ監督の山猫】という1963年の作品。私が11歳の時に創られた映画である。

私はこの作品を1981年、東京の岩波ホールでたまたま29歳(その時のパンフレットを探したら在った)の時に見ている。可能なら大画面でもう一度見たいと思っていた念願の作品だったからである。

今回のフィルムはもちろんデジタル化されているが、私が観たのはデジタル化される前のフィルム作品である。

バートランカスター、(同監督の家族の肖像の老教授も素晴らしかった)クラウディアカルディナ―レ,アランドロン 、が歳を重ねないでスクリーンの中で息づいていた。歳を重ねたのは私だけである。

強烈な印象を残したシーンが数々出てきた。まさに歴史が塗り替わる激動の時代が荒涼としたシチリアを舞台に描かれる。

内容をくどくどと書くことは控える。関心のある方はDVDかシネマクレールで14日まで上映されているのでご覧になったらいいと思う。

私はルキノヴィスコンティ監督のことは深くは知らないのだが、名門貴族階級の出身でオペラの演出家として有名な方であり、私が影響を受けたフランコゼフィレッリ監督もオペラの演出家であり、ヴィスコンティ監督の弟子筋にあたると読んだことがある。

いずれにせよ、私は青春時代、フェリーニ、デシーカ、 ピエトロジェルミ、エルマンノオルミ、(先日観た森はよみがえる、素晴らしかった)などのそうそうたるリアリズム映画の名匠監督たちの名作を多数観ることができたことを幸せに思う。

話を山猫に戻す、遠い異国の時代も環境もまるで異なるフィルムであるにもかかわらず、なぜこうも心の奥底に響いてくるのか、私にもよくはわからない、が滅びゆくものへの哀切感が、バートランカスターの名演技と相まって、64歳の私にシーンと伝わる。

29歳のときとはまったく違って、あらためてこの作品の奥深さに打たれ、35年ぶりに観ることが叶い、名作とはこういう作品をいうのではないかと私はあらためて感じ入った。

あの時代、当時の人々の生活、貴族階級の暮らしぶり、絢爛豪華というしかにない大舞踏会、細部に眼の行き届いた、的確極まる長時間の細やかな演出(内的心理をあぶりだす)は、ルキノ・ヴィスコンティ監督をおいてほか誰に演出できようか。

いつの時代も苦悩を抱えたまま、なすすべなく運命を受け入れた数多くの、まさに人間らしく生きた人たちの内面を、このように作品化してくれる 大きな映画人ルキノ・ヴィスコンティ、真の芸術家だと思う。

時代を超えて胸を打つ作品を、設備の整ったシネマクレールできちんと観ることの悦楽を堪能した。

これほどの作品を、1800円で観ることができるのだ。まさに映画ほどピンからキリまでが一律料金というのは、私にとっては有難いというほかはない。



2016-10-09

話題のアニメ【君の名は】を妻と観にゆく、そして思う。

休日を妻と過ごす時間が夢が原退職後確実に増えつつある。特にこの一年は意識的にそうするように、何とはなしにそうなってきつつある。

出会ってから30年経ち、何やらまた改めて新鮮な関係性が育めてゆけるかのような気がしてきている。

共に土いじりをしたり、犬の散歩にいったり、美術館にいったり、旅をしたり、映画館に行ったりすることで、共通の体験をしながら会話をすることなしには、やはり夫婦の関係性は深まらない、のだ。

さて、昨日は夫婦して整体にゆき、午後君の名はという新海誠監督の新作アニメを、夫婦で観に行った。

私はさほどアニメーション映画が好きではないのだが、このアニメーションフィルムにはとても感動した。アニメを見て涙が出たのは初めてである。

どんなところがいいのかは多岐にわたっている(ぜひ見てほしい)が、一言でいえば発想がみずみずしく、どこか現実離れして入るが、万人の人間が抱きうる、妄想、幻想、つまりは人間の深層の奥深くに届く、夢物語だからだ。(だがリアリティがある)

まさにデジタル(アニメ)時代の監督だが、根っこに確たるリアルな感覚(健全な常識感覚)も持ち合わせていることが、あのアニメの自然の美しさ(ときに自然はあまりにも残酷である)の中に余すところなく表現されている。

30代の監督ということだが、主人公の祖母といい、高山ラーメンの親父といい、実に存在感がある。私には、 田舎の細部の絵がとてつもなく琴線を揺さぶる。

とてもこのフィルムの新しさを、私の一文では伝えられないが、私のアニメ観を覆し、アニメでしかできない、創造世界があるのだということを遅まきながら私は実感した。


世界の若者たちがなぜかくもアニメに惹かれるのかの結実を、私は学んだような気がしている。

下の娘が、テーマ曲を繰り返し今も聞いているが、若者たちの未来への揺らぎが(とくに東北津波、原発事故災害以後も続く、災害の多発)君の名はには、いやそれは若者たちだけではなく,広く災害列島にすむ、現代日本社会に暮らす我々にも届き、このように私にブログを書かせてしまうのである。

2016-10-06

読書の秋、外山滋比古先生の【思考力の方法・聴く力篇】お勧めします。

まさに台風一過の秋晴れです。気が付くとまたもや随分ブログを書いていない。以前は書かないとどこか落ち着かないような自分がいたのだが、そんな自分はもういない、やはり微妙に年齢とともに体と心は変化するみたいだ。

固執するのではなく、変化する自分を誤解を恐れずに言えば、愛し受け入れるそのような心境なのです。 優先してやりたいことの順序が変わりつつあるのです。

あくまで五十鈴川は流れるようにしか流れない、私もかくありたいと、あくまで、ますます自然体で流れてゆきますので、どうかよろしくお願いいたします。

さて、小生10日ほど前から軽い腰痛になり、何とか身体が動くのでほおっていたら回復の兆しがなので、この6日ほど整体師のところに通っているのですが何とか竹韻庵でつるはしが振るえるところまで回復してきました。

今朝もメルと共に、竹韻庵で2時間近く汗を流して戻ってきまして、帰って洗濯物や布団を久しぶりに干し、掃除をし、ついでに気に入っている赤い運動靴を洗い、さんさんと陽光当たる車の屋根に干しさっぱりした気分でパソコンを打ってます。

全く静かなリビングにパソコンを運び書いているのですが、窓越しにはもうそろそろ終わりの金木犀が見え、座布団の上で猫の花が気持ちよさそうに目を閉じています。

 まったくこの上もなく穏やかで、いよいよ本格的な秋日和の到来を、私は心うきうきと迎えています。

さて、灯火親しむ読書の秋、とは全く関係なく腰痛を抱えながらも、私は本が本を導くといいますか、時間を見つけては本を読む時間を楽しんでいます。

ブログを書かなかった間に読んだ本を思い出すままに書くと、【橋本治著、これで古典がよくわかる、いつまでも若いと思うな、関川夏央著、人間晩年図鑑、河合祥一郎著、あらすじで読むシェイクスピア全作品、シェイクスピア(いずれも新書)石牟礼道子著、食べごしらえおままごと(文庫)】など。

どの本も全部私には興味深く面白かった。これだから私の限られた時間の日々は まさに流れるように過ぎてゆくのである。

そして今、外山滋比古著【思考力の方法、聴く力篇】を読んでいる。これが私にとっては目から鱗のように面白い、あまり自分が読んだ本など人に薦めたくはないのだが、この本は関心のある御仁にはお勧めしたい。

夢が原退職後、一番うれしいのはやはり本を読む時間が格段に増えたことだと思う。読まないことには外山先生の御本にも巡り合わないのだ。世の中には何と該博でありながら、専門バカではなく思考が柔軟である方がおられることに、膝を叩いてうれしくなってしまう、たちまちうきうき気分におちいってしまう。

このような本に出合った時の喜びが私にとっての読書体験となる。無学、無知という、いい意味でのトラウマを18歳から抱えながら、生き恥さらして生きてきたが、小器晩成というかようやくにして、学ぶということの楽しさを、体全部で感じ始めたような気が最近している。

気づく年齢は各人異なる、母が言っていたが何事も 、遅きに失するとは思いたくはないが、聴力も、視力も 、反射神経も確実に弱くなってくる中、何はともあれ愉しく本を読める時間を暮らしの中で持てるということは、在り難いことデアル。

てなところで、久方ぶりのブログはこれにて。本日は夜カルチャーセンターでのレッスンがありますので午後はオセロを声に出して、私の初秋は雲の流れのように過ぎてゆきます。

2016-09-23

秋の夜中、栄転された遊声塾生I氏とは、何とかレッスンを継続したいと考える私。

本当に久しぶりの五十鈴川だよりです。こんなに長いこと書かないと開いて読んでくれる人がいなくなるかもしれませんが、我ながらぶきっちょな性格はいかんともしがたし、です。

実は今年の春に本にするためのインタビューを受けた、のですが、この10日間、テープのおしゃべりのあら原稿が上がってきたので、しゃべった即興的なわかりにくいわが言葉を、しゃべった本人が分かりやすく再び書き起こすという、まったくやったことがないことを10月中に何とか仕上げたく、奮闘しているのです。

これも修行だと考え、苦楽時間を過ごしているのです。過去を思い出しながらの作業なので時間がかかるのです。この調子だと原稿用紙120枚くらいになりそうですが、片をつけたいと思っています。

その合間に、いろいろとやらねばならぬことがあり、不器用な私はしばしブログを書く気がまったく起きなかったのですが、何とか少し目鼻が見えてきたので、気分転換に書いています。

台風が相次いでやってくる今年の日本列島、先日の台風ではわが故郷の五十鈴川もあわや氾濫というというところまで水かさが増しました。幸い事なきを得ましたが。

姉や兄にすぐ連絡を入れました、大事には至らなかったということで安心しましたが、こうも地震や災害が続くと、人心に多大な影響が及びます。

ただただ、命があり健康に日々が送れることの、平凡な日々がなんと在り難いことであるかと、小生のような能天気ぼくねんじんは、身の丈に合う穏やかな生活を、身近な方たちとの関係性を大切にしたいと思わずにはいられない。

さて、そのような暮らしの中で、 シェイクスピア遊声塾は毎週水曜日の9月から本格的に少数の塾生と共に、熱い声出し時間を続け、翌木曜日の夜も山陽カルチャーでも二人の生徒さんといい時間を過ごさせていただいています。

昼は晴れの日を選び、平均週から3日から4日くらい竹韻庵に通っています。竹韻庵にはイノシシがやってくるのでイノシシが食べないような作物を植えるしかないのですが、この夏はピーマンやナスオクラが食卓を潤してくれました。

特別なことをしなくても、素人の私でも収穫できるのですから、大地の恵みは在り難いというしかありません。

ところで話は変わり、遊声塾生で月に一度香川から通ってきていたアサヒビールの I氏が福岡に栄転になり、8月31日レッスンを早めに終え、ラインでつながっている塾生でお祝をすることができました。

共にシェイクスピアを読み、恥をかき発表会をやった仲間は、やはり強いきずなで結ばれているのだということをあらためて感じました。

昨夜も私を 含め4人で、恋の骨折り損の4幕を、繰り返し2時間半近く声を出し続けたのですが、4人で無心に集中して声を出し続けていると、いつの間にか浮世のうさが、体の中から消えて無我の境地でのトランス状態になってレッスンを終えました。

H君が仕事がら遅い時間帯にしか来られないので、結局4幕を読み終えたら、9時40分を回っていました。みんなすっきりした、いい顔いろをしています。

書きながら思います。61歳で遊声塾を立ち上げてつくづくよかったと。原稿書きの仕事にめどがついたら涼しくなってきましたので、またいつものペースで五十鈴川だよりを書けるかと思います。

なお、福岡に転勤になったI氏は遊声 塾は継続したいとのことなので、月に一度は無理でも何らかの形で、マンツーマンでのレッスンを継続する方法を考えたく思っています。

以前も書いたかと思いますが、いまや塾生は私の中では疑似家族化しつつあります。大切な仲間、いい意味での人との関係性は時間がかかり、自然と深まってゆくように思えます。無心に鍛え合うつらい時間を共有しないと、今の世の中、すかすかな空虚な関係性しか育めないように、思えます。

I氏との関係性は20年に及びます。 時間を大切に交代でいったり来たり、なんとか個人レッスンを続け、氏を来年の発表会にも参加できるように、策を練りたく思う私です。

2016-09-05

雨音を聞きながら、昨日のミルフォード・グレイヴズと土取利行さんのパーカッションデュオの余韻に浸る。


私は、昨日京都ロームシアター(平安神宮のそばに在る素敵な劇場で岡崎音楽祭でのパフォーマンス)までミルフォード・グレイヴズ(先生)と土取利行さんのパーカッションデュオを聴きに日帰りで出かけました。

素晴らしいというしかない、ほかに言葉が見つからない、どんな形容をもってしても私の拙文ではその感動を伝えることは叶わぬにせよ何かを五十鈴川だよりに書いておかねばという気持ちです 。

くどくど書くことは控えます。このお二人に関しては、興味にある方はインターネットで是非検索してみてください。

私は土取さんとミルフォード氏のデュオパフォーマンスをこれまでに二度ほど見たことがあり(いずれも岡山に移住する前東京で)今回が3度目の機会を持てたわが人生の、まさにその場に居合わせることができた幸福感、運命に何かに手を合わせた。

現在土取さん66歳、ミルフォード(呼び捨てするのが忍びない) が76歳での、40年以上の交流のお二人の、いわば人生の総決算ともいえるパーカッションデュオ。

まさに奇蹟のデュオに私は立ちあうことができた。その喜びは今この拙文を書きながら、64歳のわが体に、今も昨日の余韻が響いている、二人の何かを超越したかのようなあまりにも自然な友情の織り成す美しいというしかないパーカッションデュオは、昨日その場に居合わせた聴衆の心を激しく揺さぶった。(聴衆のほとんどがスタンディングで二人をたたえた)

おそらく京都の若い世代の聴衆は 、きっと初めて伝説のミルフォードのドラミングを目の当たりにしたのではないだろうか。(歴史の宝庫の京都でのこの公演はきっと語り継がれるだろう)

いずれにせよ、年齢的に若くはないはずのお二人のあまりの若々しきドラミングというか、その多種多様なパーカッションの豊饒世界には、何度もため息とともに度胆をを抜かれてしまった。

老いてなお華やぐ境地の二人のパーカッショ二スト、伝説のミルフォードグレイブスのめったにはみる、聴くことがかなわぬ存在を数十年ぶりにしかと眼底に焼き付けた。

まさに、世阿弥がいうところの枯淡の芸というしかない 老いた豊かさ華やぎが全身から音となって立ち上り舞うよう(実際二人は声を出し歌い踊る、つまり全身パーカッション二ストなのだ)にロームシアターに響いた。

純粋な紛れもない本物のその道を究めた演者のなせる業、至高のポリフォニックな強弱繊細極まる音の豊かさはたとえようもない、この澱んだ出口無きかの様に思える 闇の世界を、夢幻の閃光のように刺し貫いた。

このようなパフォーマンスに立ち会えた私は、もうしばらくは何も見たり聞いたりしなくても、十分なほどに、すごいエネルギーをお二人からいただいた。

現代のわれわれの暮らしの中には、電子音はじめあらゆる音の洪水で満ち満ちているが 、こころから全身を幸福感に導いてくれるような音は(言葉も同じだが)そうはめったに立ち会えない。

音に射し貫かれたわが体は、夏の疲れもどこへやら、またしばらくは静かに充実した生活が送れそうである。それにしてもミルフォード・グレイヴズカッコよかった(千両役者である)。

最後に、ロンドンで26歳の時土取利行さんに出会えたことの運命を、今更ながらに感謝した。

2016-09-01

訂正と、妻と出合って30年。

昨日のブログでお伝えした、我が家での桑江良健一日絵画展の日にちが間違っていましたので訂正します。

【日曜日、10月16日】【11時から~17時】です。大変申し訳ございませんでした。郵送する案内文はもっと短く簡略化したものにする予定で、9月10日くらいまでには100通くらい、桑江さんの葉書を添えてだします。

ブログを読んでくださっている方にも届くかとおもいますが、どうか一人でも多くの方に桑江さんの絵を見ていただきたく、微力を尽くしますのでお声掛けを、重ねてお願いいたします。

さて話は変わりますが、はなはだ個人的なことで恐縮至極ですが、昨日31日は私が妻と出合って30年目の、まあ記念日でした。

一口に30年、やはり私にとっては感慨深いものがあり、臆面もなくちょっと五十鈴川だよりに書いておきたくなったのです。

その間二人の娘に恵まれ、きわめて普通に二人とも成長し、ひとりは伴侶を見つけ結ばれ、次女は働き始め、いよいよもってこれから夫婦晩年時間が本格的に始まろうとしています。

がしかし、そうはいうものの妻は私より8歳若く、今もフルタイムで働いていますし、私も何やらいそがしくというか、次から次にやりたいことやしなければならないことがおきてきて、裕福には程遠い暮らしですが、穏やかに健康に暮らせる今の生活を、在り難く思っています。

一寸先のことはわからないし、これからもあまり先々のことよりも、一日一日を大切に歩めれば私としてはいうことはないのですが、あきらかに言えることは確実に下り坂を生きているわけですから、不意の出来事に遭遇した時に、うろたえない胆力のようなものを育みたく、一日一日の暮らしの中でそれを見つけてゆく、何かを探し続けてゆきたいものだと思います。

さて、今夜はカルチャーセンターで二人の生徒さんと3人でシェイクスピアを読む日です。午前中は竹韻庵で3時間近く雑草を手鎌で刈ったり、つるはしで笹の根を とったりして汗を流しました。

お昼はスパゲッティを作り食べました。竹韻庵で採れた玉ねぎとオクラとピーマンとナス、ほかには母にもらった赤ピーマン、黄ピーマン、ゴーヤの7種類の野菜をいため最後にソーセージをいれました。

味付けは、黒コショウ、シオ、オイスターソース、とオレガノほかの香辛料、最後に日本酒と酢で出来上がり。我ながら体を動かした後の昼食は最高にうまい。油はオリーブオイル。

私は焼きそばでもスパゲッティでも最後に必ず酢を少々入れるのが大好きです。要は本人が美味しければいいのですから、それとわずかではあれ自分で育てた野菜は格別、ムダにしたくないので大切に食べますね。

ということで、めったにないこの時間帯での ブログはお開き、今夜のレッスンの準備をします。

2016-08-31

10月15日、日曜日我が家で桑江良健氏の絵葉書サイズの絵画展をやります。

うんざりするほどの暑さも朝夕は、この数日めっきりと涼しくなり、虫の音など聞くと感性型にんげんの私としては、ススキの穂のようにわが移ろいやすき心情は揺れてさまよう。

ところで、いきなり本題、五十鈴川だよりを目にとめてくださる方にいち早くお知らせしたいことが、出来した。

【10月15日、日曜日】我が家で一日だけ沖縄の宝のような画家桑江良健さんの個展をすることになった。【11時から~17時まで】

ロバの夢の稽古の渦中、桑江さんからお葉書をいただいていて、気にはしていたのだがロバの夢が終わるまではなんとも動けず、終えてからも何かと個人的なこまごまとした夏の大切な雑事をこなしながら、桑江さんと連絡を取り合いながら、結局妻の了解を得我が家で一日だけという、きわめてユニーク贅沢な個展をする運びとなった。

桑江良健、純子さんご夫妻のことは、是非インターネットで検索してほしい。キジムナーでおなじみ純子さんは沖縄の指人形師(自分で素晴らしい人形を作り、お二人で作演出、全国津々浦々を巡業)である。

もう20年近くなるが中世夢が原で働いていた時に、キジムナーを企画したことが夫桑江良健さんとの出会い。

絵のことは全くの門外漢の私であるが、氏のなんとも言えない沖縄人としての風格そのたたずまいに魅せられ今に至るも私の中で、ヒト科の中でとても気になる芸術家(私が面識のある芸術家で交友がある方はそうはいない)なのである。

そのようないわば畏敬するに足る方から、我が家で一日だけでいいから個展をしたいという申し出に、駐車場もなき我が家で、果たして絵の個展ができるのかとの一抹の不安に襲われ、二転三転したのち腹をくくった。

桑江さんの絵画の素晴らしさは、絵のことに造詣が深くなくても、私の心に届く。何よりも企画者のはしくれとして数十年突っ走って得た教訓は、企画者は何よりも心が揺さぶられた何かを企画をするものである、といういわば当たり前ということでしかない。企画をするのに資格なんかいらない。

ママディ、ケイタであれ、なんであれ同じである。桑江さんご夫妻は私のたった二人の沖縄の友人であるが、このお二人の存在はは沖縄に対する私の認識を変えた。歳と共にいくばくかを学びつつある現在の私だが、桑江さんご夫妻に遭うまでは沖縄の歴史、芸術、芸能文化にまったくといっていいほど無知蒙昧、無関心であった。

今も大して変わりはないのだが、桑江さんご夫妻と知己を得たことで、私の沖縄に対するスタンスは全くといっていいほどに変化しつつ緩やかにだがふかまりつつある。

長くなるので端折るが、とにかく我が家で秋の一日だけ 個展をする、是非お越しいただきたいと私は心からお願いをする。

(なお、今回の絵の大きさは絵葉書サイズの大きさのみ、ですから我が家でも可能、数年前そのサイズの絵を一枚2万円で個人的に私は買いました。たぶん今回もその値段での販売になるかと思います)

ともあれ、桑江良健という沖縄の歴史に遺る画業をなしつつある希代の画家の個展を我が家でやれることは、望外の喜びというしかない。一人でも多くの方に、良健さんの絵の存在を知ってもらいたいのである。

企画者の喜びは、人と人が出逢う場をセットすること、動きアクションを起こさないことには、ささやかであれ空気はよどみ、ささやかな風は起きないのである。









2016-08-29

夏の終わりを告げる雨音を聞きながらの久しぶりの五十鈴川だより。

夜半から降り始めた雨の日の朝、久しぶりのブログである。先ほど部屋の中に洗濯物を干し家人は仕事に出かけひとり静かにパソコンに向かっている。

頻繁にブログを書かなくなってから、やはり何やら微妙な変化がわが体に訪れているのを感じる。それを言葉にするのは野暮な気がしていて、変化し続けてゆく中でおのずと終わりの時がやってくるのだという気がいまはしている。

そのことに在るがままでありたいというのが最近の五十鈴川だよりである。つまり無理をしてまで流れたくはないという在るがままなのである。

だが雨の効用でこうやって時折、体に雨水がしみこむかのように、忽然と五十鈴川が流れ始める。

何度も書いているが、年齢を重ねないと感じることができない、見えてこない景色のようなものがあって、そのことを受け止めながら一日一日を何やらオーバーではなくかみしめるかのように、過ごすことが増えてきたように思える。

このようなことを書くと何やら、いかにも初老男のつぶやきのようで我ながらちょっとまずいかなあ、という気もするが、私はわが体と意識に忠実でありたいと思うだけである。

とはいうものの、私のきわめて個人的あるがまま、わがままライフは、いよいよ世の流れのおおよその部分では、無縁 の様相を呈してきているのは自覚している。

人工知能ロボット、AI殺りく兵器や、日々伝えられる出口亡き出来事、あらゆる山積する世界の諸問題の行く末のあれやこれやには、かすかに遠くからではあるが、性急な答えはなくともささやかに関心は持っている。

いつものように話を変える。頻繁にブログを書かなくなった私は、その時間を自分の体と向き合う時間に割いている。

それは早朝の竹韻庵時間と竹韻庵にゆかない場合は、運動公園での時間、竹韻庵に行った時には、わずかでああれ夕方運動公園にゆくように努めて心がけている。

この夏はわが体が何度も悲鳴を上げたくらいに暑い夏で(ようやくこの数日涼しくなってはきたが )なんども挫折しそうになったのだが、無理をしない程度に体を動かして何とか継続できている。

そのような日々の暮らしの中で、最近特にはまっているとまではいわないが、楽しんでやっていることの一つが竹韻庵での手鎌での草刈りである。

中世夢が原で働いていた時山城の斜面だけは機械で刈ることがかなわず、かなりの部分を手で刈っていたので、その経験がいま生きているのである。

機械には及ぶべきもないスピードだが、その見事に刈られたわずかな面積の美しさは、刈ったものにしかわからないひそやかな喜びなのである。

あとどれくらいの時間わが体が動き、どれくらいの間手鎌 での草刈りが可能であるのかとかには、まったく関心がない、とりあえず今日できればいいのだ。明日できなくなっても。

運動公園の懸垂もそうである。昨日できたことが今日もできるという平凡この上なきささやかな喜びこそ、最も大切なひと時といえるわがささやかライフの今なのである。

また話を変える。相棒、わが妻は私がこれまで出会った女性で最もつつましき異性である。職場の近くで不要になっていた新品のまだ香りのする板切れを持ち帰り二階の洗濯物干場に敷く、すのこを時間を見つけて週末作っていて、見事な出来栄えである。

私はくぎを打つのを手伝っているのだが、手や足やつまりは体を使って何かをなすということはいわば基本中の基本である。

基本、土台のない暮らしというものは何かむなしい。私たちの置かれている私も含めた現代人の 暮らしは、消費生活といういわば幻想にがんじがらめになっている気がして、初老男は不安なのである。

時折ふっと川底から顔を出し、五十鈴川だよりを書きながら 、平生は土や雑草の香りを嗅ぎ、形を眺め、虫に触れ、胎呼吸をしながら声を出し、汗を書き自分という移ろいやすき実在との対話を繰り返しながら、枯れてゆきたいとの思いが増す夏の終わりである。



2016-08-22

親子3人旅無事に終えて岡山に帰郷しました。

おととい四国経由で帰省先の宮崎から帰ってきました。結果的に宮崎の姉の家で3泊し、海と五十鈴川で、少年時代とまったく同じ時間を過ごすというまたとない時間を過ごすことができた。

この数十年、私は故郷に帰っては精神と体をリフレッシュして区切りをつけながらの人生を歩んできた。今回もまたかろうじて最高の思い出というか、いい意味での一区切りの気分転換の里帰りができた。

人間の命の有限さの中での里帰り、もうこの先きっとこのような幸福感につつまれた里帰りはそうは叶わぬにしても、(でもまだまだ私は里帰りを続けます)なんだか今年はいろんなことが、ギリギリ間に在ったという、いろんな思い出が刻まれた私にとっては、もういうことがないくらいに良き思い出ができた里帰りの歳であったと思える。

そしてその現時点での幸福感は、これからを生きてゆく上で、限りなくどんなことがあっても希望をもって生き延びるのだという、エネルギーを垂らしてくれる予感が湧き上がってくる体のものなのである。

9歳上の姉の存在は私にとってとても大きい、姉との思いでは私の少年時代の良き思い出に彩られている。3歳で北朝鮮から引き揚げてきた姉はほとんど思い出せることがないというが、私には姉の受けた過酷な体験が彼女のなかに刻まれているのを感じる。

大陸生まれのあの天真爛漫さは、日本人にはないものだ。私は姉といると母なる大地といるようなおおらか気分になり安心して甘えられバカなことができるのである。

その姉と海で泳ぎ、川で泳ぎ魚釣りができたことは一生の思い出だ。その海と川に西大寺の母が同行してくれ、私がなぜこんなにも故郷回帰を繰り返すわけが分かったといってくれたことが、とてつもなく嬉しかった。

そんなこんなあまりに肉親との、おバカ文章をつづると、おつむが暑さでいかれたかと思われる向きもあるかもしれないのでここいらでやめる。

今年はまだあと4か月も残してはいるが、その残りも含めこの先もこのように健康であれば、きっとまたもや、後年節目の年として新たに刻まれるに違いない。

世はオリンピックでメディアは過熱している(私もたびたびそっと個人的には感動している)が、五十鈴川で私は静かなひと時をもて、お墓参りに3度通い、しみじみと故郷に帰れる肉体のいまに感謝したことである。

それにしても,故郷の私が泳ぎを覚え(人生で自力で何かをなした手ごたえを得た川)た五十鈴川の人気の少ない、そのあまりの素晴らしさ、変わらぬ美しさを私はただただ天に向かって感謝した。

このまま、ただただ流れてほしき五十鈴川、我は老いても、五十鈴川は流れる。ほんのわずかな時間であれ、この川で泳ぎたく、泳げる身体をキープしたいと思わずにはいられない。



2016-08-16

今日から母との3人旅、帰省します。

お盆休み娘夫婦が帰省していて、今日東京に帰ったので急に我が家はもとにかえりしずかになった。

明日から、私が宮崎の実家に帰省することのなっている。 同行するのは妻と妻の母との3人旅である。妻が思いもかけず長い休みが取れ、一緒にゆくといってくれたのである。

そんなら母も誘おうということで何度も誘ったら、ほとんど あきらめていたのだが一緒に行ってくれることになった。母が宮崎の実家にゆくのは初めてである。

こんなうれしいことはない、私にしかわからない喜び、私の両親の眠るお墓まいりに同行してくれるというのである。

ロバの夢といい、母の同行といい今年はまさに思いもかけないことが起こる年である。やはりきっと何かの節目ということがあるのではないかと思う。

もう一つうれしいことがある。この夏兄の娘に40歳で初めて子供がまれたのである。それも七夕の日に。そんなわけで兄夫婦はいまこの夏は兵庫県の娘のところにいて宮崎にはいないのだが、姉と次兄が私たちの帰りを待ってくれている。

母は83歳なのでおそらく今回が最初で最後の同行ということになるが、私が生まれた故郷をちょっとでも感じてもらえたら、もう私にはいうことは何もないのである。
お風呂場の風に抜けるところで自在なはな

母の年齢もあるので、車で帰るのだが明日は山口で一泊し、宮崎には2泊、戻りは四国にわたり高知で一泊の予定の、思わぬ母との4泊5日の旅となる。

このようなことはめったにないから、やはり素晴らしいのではないかという気が私はするのである。

あの母、どこにもあまりゆきたがらない母がゆくといってくれたことに関して正直私は驚いているが、私としてはうれしいの一言である。

妻も母も水着を用意してくれていて、何やら子供に還ったかのような、修学旅行前夜のような塩梅なのである。

さてどのような旅になることやら、貴重な旅なのだから、あまり写真を撮らない私だが、今回はきちんと写真を撮ってこようと 思っている。


というわけで、最近とんとブログを書かない私ですが、次回のブログは宮崎から帰ってからにならるかと思います。

まったくのアナログ男が、時折ブログを書くときだけデジタルに頼るそんな昭和男子の五十鈴川だよりなのです。

話は変わりロバの夢に来ていただいた方に、暑中お見舞いを書かせていただいたのですが、やはり私は文字を書いたり、声を出したり、土にまみれたりするのが自分らしいとあらためて感じております。要はバーチャルであれリアルであれ、その人らしく流れてゆくのが一番いいのではと私は思うのです。(人間の体は血が流れているのです)

母はもちろん典型的アナログ昭和人ですが、デジタル人が逆立ちしてもできないようなことがきちんとできる人です。そのような母に刺激を受けます。何が人間にとって素晴らしいことなのかを私は乏しい頭で考えたく思うのです。

私という存在は、命はどこから来ているのか、そしてどこへ向かって流れてゆくのか、年に数回お墓参りをし両親と話をし、五十鈴川のほとりで沈思黙考しないと、どこへ流されてゆくのか私は不安を覚えます。



2016-08-10

本当に久しぶりの真夜中ブログ。

梅雨が明けてから夕立を除いて竹韻庵も含めてほとんど雨らしきものが降っていない。その夕立も心なしか、私の幼少の頃の夏の思いでに比べ近年本当に減ってきているような気がしてならない。

さて、わたしの竹韻庵通いはロバの夢稽古期間中も、終えてからも、ささやかに続いている。ブログにはほとんど書いていないが、私の普段の日々の暮らしは、ほとんどルーティン化しているといったくらいに、同じようなことをほぼ繰り返しながら過ごしている。

この年齢だから、さすがに30度を超すと竹韻庵での肉体労働はきついので、早朝の正味2時間くらいを作業に充てている。目が覚め洗面を済ませすぐに出かける。

ほとんど私ひとりでの作業なので(犬のメルがお供に来てくれる)なかなかに、はかゆかないのだが、若い時の苦労は買ってでもせよ、富良野での徹底的な大地との労働体験が今の私を助けている。

いまだ繰り返し繰り返し、単調な動きに耐えられるのは(30度近くなったら作業はやめる)あの時体得した何かが生きているからだと思える。

無心に一生懸命に何かをなす喜びといったものが いくばくか私の体に沁みついているのである。若いころは、人が嫌がるようなことは私も嫌だった(特に肉体労働的なことが)のだが、富良野での体験は、根底から私のものの見方や考え方を変えたのだということが、いまはっきりと分かる。

人間は自分を変えられる。しかし、それは急には変えられない、うすい薄い皮を一枚一枚剥いでゆくような営為を、繰り返す中でゆっくりゆっくりと自信を育ててゆく中でしか見えてこないような気がする。
妻が心から大切にしている、はな

砂を握りしめても、指から落ちてゆくように、ちょっと油断すると自分という生きた肉体の血が流れる器は、安易に滞ってしまうように思える。

いやでも老いてゆく中で体は動かなくなってくるのだろうとは思うものの、動く間は、動ける間はあまり身体を甘やかさない方がいいというのが、現在の私の考えである。

ささやかに土に触れる暮らしを心かけるようになってから、自分と向かい合う時間が増えたように思う。手鎌でものの30分も草を刈ると体から汗がいまだ滴り落ちる。

呼吸を意識し息を整えつつ草を刈る。気が付くと随分はかどっている。この喜びはやったもののみが感じる喜びである。ポケモンGOならぬヒダカGOである。

帰って家で水を浴びた時の爽快感はたとえようもない。水を浴びた後のかき氷(たまに缶ビール)は、至福の夏時間である。昼食を済ませ,しばしの午睡ののちは午前中とはまったく別のことをする。

昼食はありあわせのものでで作る。これがまた毎回楽しく作れているし面白いのである。何事も工夫次第面白がることに尽きるのである。夏はスタミナスパイシーなものがいい。とにかく母や妻の育てた野菜をふんだんに使う。

夢が原で働いていたころは、スーパーなんかに買い物になんかほとんどゆかなかったのに、この数年ほんとによく出かけるようになって、いろんな食品を観察する楽しみのようなものが生まれてきている。

状況が変われば、変化対応していかに今日を生きるのか知恵を絞るのである。そのためにはいくつになっても、現役感覚がある間はハングリーさがないと小生はまずいと、自戒して生きている(つもりである)。

一寸先何が起こっても不思議ではない 、一大カオス時代。まず何はともあれ自分の体に頼るしかない。

2016-08-04

アサヒビールの塾生I氏と君子の交わり、お酒語らい、至福のひとときを過ごしました。

昨夜遊声塾のレッスンはなかった。高松から平均すれば月に一度通ってくれている塾生のI氏を逆に私が訪ねた。

ロバの夢が終わったら一度高松で飲もうと以前から約束していたのである。その約束がかない、ちょっと地軸を外した高松での男二人の飲み会は心から愉しく話も弾み、おいしいお酒となった。

I氏と出合ったのは1996年のこと、あれから20年の歳月が流れているが私と1氏の関係はまさに君子の交わりの、いい塩梅の幸運を今もキープすることができている。

その理由は私にもわからない。夫婦関係もそうだが長続きをする秘策などというものは、この世には存在しない気が私はする。

心からくつろげ、遠方まで何としても会(愛)いにゆきたいとおもう交友関係を築くのには、それ相応の時間の蓄積がやはり必要だと私には思える。

そのやうな朋が、現在両手くらい私には存在する。私は果報者である、と臆面もなく五十鈴川だよりに書いておきたい。

利害関係なく、ただあっていてくつろげる 友との一杯なんて、これぞまさに至福の時間というしかない。
暑さでぐったりしている相棒のメル

だがそれもこれもお互いが、いまをしっかりと生きているという暗黙の阿吽の息が感じ取れる相手でないと、私の場合どうも長くはお付き合いがかなわない。もちろん相性もある。

やはり似たもの同士の匂いのようなものを私は感じてしまうのだが、裡に何かを抱えながらひたむきに生きている、男女とも私はそのようなタイプと相性があう。つつましくけなげな人に私は惹かれる。

私がひたむきであるといっているのではない、誤解なきよう。自分にはまったく持ち合わせていないような繊細な感覚のひたむきさが、私を引き付けるのだ。

そしてたまに会い、近況を語り合う。まるで小津安二郎の晩年フィルムがようだ。まさに人生の奥は微妙な味わいと共に深いとしか言いようがない。

一年でも長くこれらの友との語らいを持続するためにも、どのように生きてゆけばいいのかを、自問自答しながら、一日一日を大切に過ごしたいと思うのだ。

今これを書いている我が家の室内温度は34度、汗が流れるがクーラーはつけていない。時折網戸から涼やかな風が流れてくるから、何とか昨夜のI氏との玉響の幸福お酒タイムを五十鈴川だよりに
書くことができた。

アサヒビール管理職のI氏、慰労してくださいましてありがとうございました。ごちそうさまでした。この場を借りて感謝します。

2016-08-02

ロバの夢が終わりました、そして思う。

ロバの夢を終えて3日が過ぎた。いまだ整理しきれな
人生で初めていただいた家族からの花束
い思いが体にみちているが、ようやく何か書いておきたい感情がもたげてきた。

34歳で現在の妻と出合い、家庭を持ち子供に恵まれ、私は私の青春に別れを告げ平凡に生きる道を選択した。

40歳で岡山に移住し、中世夢が原で主に企画者として21年間を充実して働くことができた。子供たちが育ち、私は定年を迎えた。

さあ、これから何をして晩年生活をと考えた時に、ただ漫然ととシェイクスピアを声に出して読む暮らしをしたいという思いが、忽然とだが熱くこみ上げてきた。それと同時に土に触れる暮らしを。

わけのわからぬ内なる情熱を根拠に、無謀だとはおもったが、シェイクスピア遊声塾なるものを立ち上げた。

あれから瞬く間に3年が過ぎ、昨年暮れ一人の素敵な女性の舞踏家に出会い、一緒に舞台をやろうというまったくもって予想をしない申し出を受けた。
生徒さんからいただいた花束

しばし躊躇したが、私はそのオファーを受けることにした。青春の終わり演劇的世界から足を洗った私が、なぜ再び減劇的世界に回帰したのか、主な理由は3つある、気がする。

一つは妻と娘たちは、企画者としての私しか知らず、私が青春時代どのようなことをやっていたのかまるで知らないので、一度舞台姿を見てもらいたいという煩悩が突き動かしたということ。

二つ目は今の私の暮らしで、家族的なまでに大切な仲間、シェイクスピア遊声塾の面々や数少ない山陽カルチャーの生徒さんに 私の舞台姿をみてもらいたいと思ったこと。

最後は、すぐれた才能の持ち主で稀な感性の持ち主であるSさんとの協働で、何か未知なる自分が現れるかもしれないという可能性にかけてみようとの思いがにわかに立ち上がってきたのである。





 終えて今思うことはやってよかったという以外にない。充実した思いもかけない豊かな稽古時間と本番時間をすごすことができた、悔いなく金字塔的な私の夏となった。

正直、やはり33年のブランクは随所に顔を出したが、 この33年間の私の人生が決して無駄ではなかったことの証左も自分なりに確認できた。

ロバの夢に愚直なまでに真っ向勝負できたおかげで、また何やら遅まきながらも新しき可能性が自分の中に芽生えてきたような予感さえ今はしている。

ロバの夢が、ささやかに自分の中に新たな夢へのエネルギーを吹き込んでくれたような気がしている。人は何かと出会うことによって新たな自分と、出会うのは真実のように思える。

あの夜の自分には時折夢の化身が、33年ぶりにとりついていたかのような。ドリーム・オブ・パッション、夢への情熱はどこからやってくるのかは皆目謎だが、ヒトは集合的無意識に夢を見る。

ともあれ、この夏私はとてつもない夢を、一夜ルネスの空間と場で見ることができた、ような気がしている。そしてそのような夢は稀だからこそ素晴らしいのだと私には思える。

2016-07-24

ロバの夢本番が近づく日曜日の朝に思う。

いよいよロバの夢の本番29日が近づいてきた。このようななんとも言えない感情は、64歳の私にとっては形容しがたい。うれしくもあり不安でもあり待ち遠しくもあり、もろもろの思いが交差するの私の夏。
竹韻庵のオクラの花

ともあれ、今はただ体調を維持し本番でベストを尽くすだけである。明日の夜からは本番モードの最後の稽古の日々が始まる。

これは本人にしか感知しえない感覚なのだが、何しろ33年ぶりの入場料をいただいての舞台である。

緊張するなという方がおかしいのだ。だがこの数か月稽古を重ねてきて、いくばくかその緊張感は消えてはいないものの随分と和らいできている。

それはああゆる意味で、初めてのこの【ロバの夢】チームとの 出会いで、恥をかいての稽古を積み重ねてきたおかげであると、はっきりと自覚ができるからである。

今はただ本番を終えたのち、何がわが体に残るのかをゆっくりと検証するのが楽しみである。どんなにささやかであれ、大胆な行為であれ、人間はやはりやれるときにやりたいと思ったことを素直に
やれることが一番なのだという当たり前の気づきの幸福感である。

私にとっては、清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟がいった決断だったが、今はただ決断をしてよかったという思いが体に満ちている。

私のようなタイプの人間はやはり、いくつになってもささやかな夢の持続的冒険世界が待っていないとつまらないのだということの再確認ができた気がするし、チャップリンが言うように自分を鼓舞する勇気はいかにしたら育めるのか、謎ではあるが。

ともあれ、もう間もなくロバの夢の開演時間はやってくる。詰めの稽古をしっかりとやって悔いなく本番を迎えたい。


2016-07-12

昨夜のルネスでの稽古で初めて少し何かが見えてきました。

一晩寝たらかなり体がすっきりとしている。ブログを書かずに過ごしているうちに、7月も12日、今日も午後ロバの夢の稽古だが、実質今日も含めあと6回くらいの稽古日で本番を迎えることになる。

33年ぶりの舞台ということで、自分にしかわからない得体のしれない重圧のようなもろもろを抱えながら、試行錯誤の稽古を自分なりに続けて、昨夜照明や音も入れて途中までだったがㇽネスで稽古ができたことでようやくにして、自分が入口に立つことができた、ような気がしている。

今はただ本番まで体調を維持しながら稽古に励む、そのことしか考えていない。ㇽネスでのイメージを大切にして中央公民館での稽古を積み重ねたい。

ところで、出演者と裏方つまりロバの夢チームでほぼ200枚のチケットが完売しそうなので売り切れの可能性が出てきたことを、ブログでお伝えしておきたい。プレイガイドのぎんざや にはチケットが置いてあります。

上演時間は1時間ちょっとくらいなので、お元気な方は立ち見でもいらしてくださいというほかありません。

さて、よもやまさか、このような64歳の夏を過ごすことになろうとは思いもしませんでした。生みの苦しみと、喜びを交互にわが体に感じながら思い通りにならないわが体と向かい合っています。

始めたら必ず終わる。一音でも体に言葉をしみこませ、身体が自然に動くように繰り返し稽古をする私の7月です。

2016-07-11

自分にとっては最も短い真夜中に近いブログ。

何か書きたいのだが疲れてやはり書く気がおきない、明日起きて元気だったら書くことにする。今日午後照明、音を入れてㇽネスで初めての稽古がわずかだができた。

やはりルネスでの稽古は全然違うことが確認できた夜となった。この続きはまた書きます。今夜はとにかく体を休めます。

2016-07-09

7月になって初めての脈らきなき久しぶりの朝ブログ。

もう五十鈴川は流れなくなったのかと思われても仕方がないくらいブログを書いていない。もし万が一そのような方が一人でもいらしたらただ単に私はうれしく、ご寛恕を願うしかない。

あれもこれもは叶わぬわが体なのである。一言でいえば何かとせわしなく時を過ごさないといけないくらいに、ロバの夢のチケット売りや、チラシの郵送他に急に暑くなったさなか、もちろん稽古もあるし、草刈りもあるし、塾もあるしつまり多忙なのである。

私はおしゃべりではあるが、くどくどと説明したりするのがはなはだ苦手である。ちらしとチケットができてほぼ10日 在り難いことに、私が自分に対して課した50枚のチケットが予約や直接販売でほぼ昨夜で完売になったので、ちょっとほっとし雨なのでこれ幸い書いている。

とにかく動いた体を夜はひたすら休ませることを第一に生活しているがために、ブログを書く余裕が単に持てないだけなのだ。

今朝もこのブログを書く前に、当日のパンフに載せるわずか200文字の一文を早起きして書いて送ったり、集中と弛緩を上手くやりながら体調維持に神経を使い、ロバの夢に向かっている、64歳の夏なのである。

わずかなセリフなのだが、33年ぶりの舞台出演をあえて引き受けたわが体は時折悲鳴を上げながら、ささやかに前進しているといった実感がある。当日たどり着けるところまでゆくつもりである。

わずか10日間で50枚のチケット がさばけるなどとは思いもしなかった。この3年間で出会った方々が(つまりこれまでの私をほとんど知らない方たち)かなりのチケットを買ってくださった。本当に在り難いことである。

とここで話はいつものように変わる。今18歳の台湾ボーイが21日まで3週間久しぶりホームステイしている。笑顔がすがすがしい、ナイスボーイ>

今日は妻と私で彼を犬島に案内することになっている。夜はロバの夢の稽古、ということで今日もまたなにかと予定が詰まっている。

ロバの夢が終われば、いくばくかの休暇をとるつもりであるが、時折ふっと書いておりますのでお時間が許すおり開いてみてください。

ところで明日は大変大事な選挙、ひとり一人がしっかりと人柄政策を見極め投票しなくては。安穏とブログを書いていても落ち着かない、日々の耳を目をそむけたくなるおぞましきニュースのやまない連鎖、世界の情勢の推移には暗然とする。

ともあれ、ヒトはあらゆる困難の中で精いっぱい自分の居場所を見つけて今日を生きてゆくしかない。

2016-06-24

ロバの夢のチラシとティケットができた朝に思う。

夏至も過ぎ梅雨の合間の夜、朧月が垣間見えた。昨日は雨が上がってからは、青空がまぶしく、一気に夏の到来を思わせたが、今夜からは再び雨の予報が出ているので、梅雨明けにはまだ時間がかかりそうな様子である。

あまりブログを書かなくなっても、私の日々はほとんど変わりないかのように、淡々と日々を過ごしている。平均週一回のロバの夢の稽古(稽古のない日も必ず、声は出している)、カルチャーと遊声塾のレッスン、それから竹韻庵での時間。

それから、シネマクレールの会員になり、(6月1日から) 週に何度か映画館でフィルムを見るようになった。なぜ会員になったのかは、またゆっくり書きたいと思っている。FAKEも観ました。(お勧めします、多義的にいろんなことを考えさせられた)

それから、これはずっとルーティンのように続けている早朝か、夕方の運動公園通い。それに日々折々の暮らしの雑事。(これが最近私のとても大切な時間になってきている)

ブログを書いていた時間は、ほとんどをこの雑事に費やしている。いわゆる掃除や犬の散歩や洗濯物星や買い物他、あらゆる生きてゆくことの中での暮らしの中で雑事。
大先輩お二人の対談には小生考えさせられました

身体がだんだんとゆったリズムになってきたので、それに合わせるかのようにゆっくりとこなしてゆく。

気分次第で、時間を見つけ図書館にいったり、映画の帰りに本屋さんに立ち寄ったりと、まあそんなこんなで、今年も半年が過ぎようとしている。

世は参議院選挙戦に突入、世相も何かとあわただしさが増しているが、五十鈴川はただただ静かに時の流れを見守るといった塩梅。自分という川は流れる方にしか流れない。
母と妻と3人で竹韻庵に作ったトマト畑

がしかし、どのような国であれば平静に暮らしてゆけるのかをようく考えて、私個人はただ一票を投ずるつもりである。ひたひたと厳しき時代の到来がすぐそこまで来ているなか、いかように知恵を絞れるか、私自身も問われる選挙である。

世の中のかなりの情報が、FAKE(偽装、隠蔽、無責任、おれおれ詐欺、不条理な犯罪の多発他)なのではないかという認識が日々深まるご時世、五十鈴川に棲む山椒魚のようにじっと世の行く末を眺めている。

とまあ、ここまで書いていきなりいつものように話は変わる。今日、ロバの夢のチラシとティケットが出来上がる。何とか50枚のティケットを行商にゆくつもりである。

33年ぶり、お恥ずかしくもなりふり構わぬ 64歳の姿をさらします。ティケットを買ってくださる奇特なお方にお会いしたく、絶対矛盾を抱えながら、五十鈴川の小さな山椒魚はしばし穴から出て動き回りますのでどうかよろしく、といったところで本日はお開き。


2016-06-19

福島隆彦・佐藤優対談集、崩れゆく世界生き延びる知恵をゆっくり読み進む。

晴耕雨読とはよく言ったものだ。予定変更、雨のおかげで体を休ませ静かな時間が訪れる有難さかな。

ちょっと何か書きたくなった。福島隆彦、佐藤優お二人の対談集をほぼ今半分ほど読み終えたところ。

博学識者のお二人の対談は舌鋒鋭く、無知なるわが頭にはご教示が余すところなく知らないことばかりで、ページを繰るごとに、うーむと 唸ってしまう。

まさに、知らないということは恐ろしいことだと、いくら能天気の一庶民である私も時折ゾッとする。可能ならそういう感覚をキープするためにも、なるべくニュートラルな読書を心かけたいと、あらためて思う。

お二人の対談を読み進めてゆくと、世界の中で現在の我々が置かれている状況が、じんわりと伝わってくる。

私のような一庶民にも、この世界の非常な容赦なきからくりの真実が浮かび上がってくる、白熱の対談集である。

一言でいえば、現在の世界の危機的な状況分析が知的に展開される。無知なる私にはこういう本で間接的に知らされることがあまりに多い。

パナマ文書もそうだが、命がけで何かを知らせてくれるジャーナリストや気骨反骨のある人間がいないことには、一方向の流れの中に大方の人間は染まってゆく。
親戚から届いた見事な琵琶を4個届けてくれた母竹韻庵から帰っていただく。

私もその例がいたり得ない。そういうことに対してのニュートラルな感覚を普段から養っておかないとまずいなあと、あらためて思わせられる対談集である。

と、話は突然変わる。昨日竹韻庵に妻と母とメルと出かけ、竹韻庵でお昼をして午後3時まで草刈りや小さな畑の草を抜いて過ごした。

平和というしかない穏やかな竹韻庵での浄土的な 時間を噛みしめた。雨の後のぬかるむ地面を母は杖を突いて歩く。その姿はなぜか神々しく私に迫ってきた。



2016-06-16

メルと共に過ごす梅雨の雨の日の午後に想う。

あまりブログを書かなくなってから、よく言えば自分が無意識にしがみついていたものから、何か解きはなされたかのような感じが深まってきているのを最近感じ始めている。

あれほど何かに突き動かされて、せっかちに動き回る自分がいたのだが、何かそういう自分からの変化の兆しが、体のどこかに 芽生え始めているのだ。

動き回るよりもじっとしていることの方が心地いいとでもいったような感覚が、体の中に生じ始めている。
ブログを書く私のそばを離れないメル(愛おしい)

ただ単純にこれが老いてきたことの、幸徳の単なる一現象であるとすれば、私は素直にこれを受け入れたいという気持ちである。

ゆったりと歩いてゆくことしかできなくなっている、己が姿をあるがままに受け入れながら、

走っているときには見えなかった、感じなかったことを、一つ一つ大切に愛おしく、狂おしく丁寧に一日一日を過ごしてゆきたいと、まあこんなことを想う日々なのだ。

手の届く範囲の日々の暮らしの、世界のすべてを有難く受け入れる。妻の母の何気ない影響が、この数年、特に土に親しみ始めてから 、水滴が一滴一滴とわが体にたまってきているかのように感じる。
歩くのは苦手だが自転車は得意、母はお茶目である

土に触り、目線を低くして作物の生育に一喜一憂している童女のような83歳の母を見ていると、深く琴線に触れるかのように、わが心も不思議な幸福感に満たされるのである。

一人で住む母の家の小さなに菜園場の見事さには打たれる。これまでの彼女の生きてきたすべてが、彼女の菜園場には反映されている。

いまだ若干の煩悩を抱えつつも、やがては彼女のように土の世界から、お日様や雨を眺めながら 、生命の摩訶不思議さ、存在していることの有難さを感じながら、この世の曼陀羅、厳しくも美しき世界をいとおしめたら、と私は願望する。

とはいうものの、いまだ私はつるはしも振るえるし、声も十分に出る煩悩の塊肉体を生きているので、今しばらくは絶対矛盾的にやれるうちにに右往左往するつもりである。(だって悩むことの中からしか創造性は生まれてこないのだから)

母との土いじり作業は、私と妻との共生感覚も育む、循環再生、命を生む、土はまさに偉大である。

2016-06-11

宮本輝、吉本ばなな、お二人の素晴らしい対談集を読み、草を抜き考える。

小説を読んだこともないのに、泥の河という映画の原作者が宮本輝という作家であることは知っていた。

また、小説を読んだこともないのに、吉本ばななの父親があの吉本隆明であることもしってはいた。

たまたま、図書館で昨年秋出版された、この世代の異なるお二人の対談集が目に入り手にし、借りて穏やかな時間を見つけて、読み終えた。

2013年の1月から対談が始まり、2014年9月までの間に、7回にわたって行われた対談が収録されている。実に読み応えのある対談集である。五十鈴川だよりで書き留めておきたいと思う。
見づらくてごめんなさい

私のブログを読み続けていらっしゃる方がもしいらしたらご存じだと思うが、もし私にいくばくかの今を生きる情熱の根拠が奈変に在るかと問われたら、一言無知であるからだと答えたい私である。

18歳で田舎から上京していやというほど自分の無知蒙昧さをたびたび満座の中で中で思い知らされたが、いまだに、いい意味でのトラウマのようなものが、くすぶっているのを感じている。

いつの世も生きてゆくのは困難苛酷の連鎖である。このお二人の優れた小説家も例外なく、その苛烈な渦中の人生を生きながら作品を紡ぎ続けておられる。

大変さを全身で引き受け、まさに天職としての小説家の道を犀のように歩んでおられる姿がほうふつとしてくる素晴らしい対談集である。

世代を超え、両者がお互いを尊敬していることが、言葉の端々から感じられる。読んでいて実に気持ちがいい。

是非お二人の本をきちんと読んでみたくなった。怠惰横着を絵に書いたような少年時代を送った南国生まれの、能天気人である私だが、ようやくにして少し真面目に自分と向かい始めている。

人生を消費的に送るのではなく、自分なりの胃袋で消化しつつ気づきを深めてゆく、自分を可能な限り対象化、相対化する感覚を磨くとでもいうような。

いきなり話は変わる、昨日は梅雨の晴れ間暑い一日だったが、3時間近く竹韻庵で休み休み、手で草を刈ったり、抜いたりした。むせかえるような草の匂いがわが体に染み入ってきた、草の持つエネルギーが乗り移り、身体から心地いい汗が流れた。

帰ってシャワーを浴び着かえたら、わが体は しばし生き返った。

2016-06-07

梅雨に入った雨の朝におもう。

雨の朝。にわかに梅雨に入ったのだと思わせられる雨音が車の屋根を打っている。このような日にはさすがに運動公園にもゆけないので、しばしブログ時間とあいなった。

昨日はロバの夢の稽古があった。これを終えるまでは、しばしロバの夢を芯にして私の生活は組み立てられてゆくことになる。2時間から3時間の稽古、くたくたになるが充実した疲労感である。

何しろ33年ぶりの舞踏と劇言語による舞台作品である。私がこれまでの人生では経験したことがない世界に挑んでいるので、はなはだもって不安は大きい、だがこの不安は希望の持てる、絶対矛盾的やりがいのある不安なのである。
母が育てた見事な百合の花

不安を打ち消すためには、稽古するしかないのである。64歳の今やれることをわが体でジャンプする。(きっと33年後はないのだから)

我ながら何をやっているのだろうと、四苦八苦の体をさらしての稽古場だ。

一時間程度の舞台作品の私の言葉の部分は15分程度あるか無いかなのだが、セリフを記憶し役の台詞に血を通わせるのは至難である。

とまあ、ここまで書いてきてこれ以上ロバの夢に関して書くのは控えることにする。ただただ現在の自分のあるがままをさらし、稽古を積み重ねたい。

ところで、にわかに集ったロバの夢チームはみんなほとんどがボランティアによるスタッフである。チラシもチケットもまだできていない、きっとこの分では今月の中旬くらいになるはずである。

このチームの一員として、出演するものとして何とか満員にするべく私はささやかに微力を全力でするつもりだ。

何とか50枚のチケットをさばきたく思っている。前売り2千円ですので、この場を借りて是非チケットを買ってくださいと、五十鈴川だよりで書かずにはいられない私である。

今のところ、妻と娘が買うといってくれている。チケットができたら一日一枚の気持ちで久しぶり行商に 出かけるつもりでいる。

ネギを売りにゆくのも、チケットを売りにゆくのも私の中では、何かが基本的には同じような通底するものがあるのだ。

2016-06-05

時代遅れを軽々と生きる山藤章二さんにはまいりました、脱帽しました。

【老いては自分に従う】という山藤章二さんの御本をちびりちびりと時間を見つけて読み終えた。最近これほどまでにふむふむそうだそうだと、共感を持って愉しく読み終えた本の筆頭となった。

ホーバーではなく、含蓄もうんちくもまったくもって遠く及ばないユーモアと笑いのセンスの巨人の八〇歳目前の御本。老いてなお粋健康な頭脳明晰さには脱帽という言葉しか思い浮かばない。

仰ぎ見るたぐいの処世の術というしかない見事極まるその生き方には、今後の私の生きてゆくお手本の数々が、無数にちりばめられていて憧れる。人生の大先輩は大いなる我が味方、このような御仁がいてくださることははなはだ心強い。

山藤さんは、現在もハイテクとは無縁の方である。ロウ(老)テクの神髄的な素晴らしさを余すところなく、御本の中で披歴しておられる。外見とは異なるその頭脳の若々しさには、畏敬の念すら覚える。

何やらいまだじたばたしている私だが、じたばたのエネルギーはやがて山藤大先輩のように爪の垢でも煎じて歩みたいと、今更ながらのようにページを繰りながら何度も唸った。時折読むのをやめて、書き写したりもした。

 山藤氏は、まったくのアナログ生活を自由自在に楽しんでいて、パソコンやスマホには無縁(そんなものはなくても十分に愉しいことは日々の暮らしの中に見つけられるのである)な生き方を実践されている稀な稀な凛とした方である。

世の中の流れとは一線をひいて、ご隠居をしながら現役でご自分の好きな世界を、私の知らないあれやこれやの愉しい、いわば江戸庶民の知恵の宝庫、哲学的雑学落語文化の粋を余すところなく、無知な私に楽しく語ってくださる。
畳に座って、しゃがんで深呼吸して立ち上がるのです。  

絵描きとしての一流は知ってはいたが、氏独特の話芸文体も素晴らしく一流であることを遅まきながら知った。決して主流にはならない傍流の時代に迎合しない美学。

時間がないのでこれ以上書くことは控えるが、老テクノ楽しみを今後私も一層見つけたく、

時代の流行や、あらゆる表層からはずれてゆきながら、裏路地あたりでちょっとした寄り道時間を生きながら、

表街道ではなく、裏道のゆったりアナログ時間の生きやすさこそ私がこれから求める世界であるとあらためて確信した。(少し頑固な自信が付いた)

夢が原退職後、畑で土とまみれながら、私はたぶんこれまでの人生時間のかなりを自省しているのだが、その自省はこれからを生きることにつながる、何かの豊かさを与えてくれるような気がしている。

反省できる時間があるうちに反省し続けないと、何か悔いが残るような気がするのである。考え続けながら反省、自省し思い浮かぶことを実践する。

これ以上書く と野暮がすけて見えるので、本日はおしまい。

2016-05-31

5月28日、禁酒会館で行われた公開インタヴューに来られた方から身に余る激励メールをいただきました。

何やら久しぶりの五十鈴川だより、明日からは6月である。なにか書きたい、だが何を?

前回も書いたが、ブログを書き始めてこんなに間があいたことは、いまだかってなかった。だが最近ほとんど書いていないのにはきっと何かわけがあるに違いないのだが、いちいちそのことを書いて説明するのがはなはだ億劫なのである。

老害ではないと思いたいのだが、ブログを書かずともほかのことで充足する老春的感覚が、にわかに出来し、この数十年絶望的な情熱を根拠にいろんなじたばた動きをしていたのだが、わが体にいい意味での異変が起こってきているというあんばいは確かだ。

ようやくロバの夢決定台本が完成、参加者も二人増え、踊りのレッスンとセリフのレッスンはしばらく別々での稽古が行われる。今日は午後私のレッスンが(ほぼ週一で)行われた。

取り立ててことさらに書くこともないのだが、なんか久方ぶりに歳を忘れ、昔に還ったかのような感のある稽古ができて(まだまだ入口)苦しきなかに何か、面白いことが64歳のわが体に起こりそうなかすかな手ごたえのようなものを感じている。

できるできないはともかく、挑戦する。自分の中の何かと格闘しないと出てこない大きなイメージをS女史の台本から鍛えられている。いわば苦楽、実に畑開墾作業と通ずるものがある。

稽古というものは、無になってぶつからないと何も生まれないのである。ひーひー言いながら汗を書きながら、夏の昼汗をかき、あとおおよそ2か月、私は7月29日の【ろばの夢】の夏の夜に向かう、何が起こるかわからない、ただただ逃げず立ち向かうつもりである。

話は変わる。28日岡山の禁酒会館で、私はこれまでの自分の人生のお恥ずかしき半生をインタヴューされる、またとない経験をしたのだが、その会場に来られていた一人の女性から、本当に在り難きうれしいメールを昨日いただいた。

ブログのコメントでもこのようなうれしいコメントはいただいた記憶がない。何かを共有できる感性の出会いというものは、そうはめったに人生には訪れないものである。

禁酒会館での一匹オオカミ(私の性格はオオカミにはほどとおいが)公開インタヴュー企画は、実にユニークでいつもとは違う感覚につつまれ、熱い来場者との一期一会のライブインタヴューとなった。その直観的決断は吉と出たように私には思える。(企画をされたO氏に心から感謝している)

当たり前のことだが、安全紋切型人生ではあかんのである。無理するというのではなく 、自然に冒険できる一隅のチャンスが訪れたら、そのチャンスを逃さない勇気がないと、とやはりだめなのだと痛切に思わされた。

ある種のライブ幸福感に体が満たされるのは、いい言葉が浮かばないが、たまたま居合わせ、出遭えた芸術的な瞬間時間としか呼べない類の何かである、というしかない。

愛情あふるる激励メールをいただき、五十鈴川だよりで深く感謝の気持ちをお伝えします。K・Iさん、お会いできて言葉を交わせて心よりうれしかった、ありがとうございました。

2016-05-21

蜷川さんがお亡くなりになり9日目の朝に思う。

蜷川幸雄さんが、12日にお亡くなりになってから9日目の朝である。80歳で冥界へと逝かれた。見事な死というしかない。蜷川さんの死は今を生きる私にあらゆる示唆を喚起させる。
私は1970年、18歳で上京してから25歳で英国に旅立つまでに、蜷川さんの演出作品を思い出すだけで7本見ている。

とくに商業演劇以前、いわゆるアングラといわれた時代の、清水邦夫作の2本、【鴉よおれたちは弾を込める】【泣かないのか、泣かないのか1973年のために】と唐十郎作【盲導犬】の3作品。私が二十歳までに見た無名時代の蜷川演出作品は、強烈に今も脳裏に焼き付いている。

田舎から上京して、あっぷあっぷ暮らしていた私は、とにかくお金の許す限り、劇場めぐりをしていたのだが、振り返ると、蜷川さんのこの3作品 を若き日に観たことは、今となっては返す返すも幸運なことであったと思う。

蜷川さんは私より16歳年長だから、あのころすでに30代半ば、すごいというしかない演出力(お金がなかった中で)で、観客の度胆をぬいていた。若かった私はただただ圧倒された記憶がある。

無名時代の蜷川演出作品に出会えたことは、やはりいまだ大きい。特にこの3作品は映画館で、映画が終わった後、9時過ぎから今は亡き新宿のアートシアターギルド(いわゆるATG)で上演された、今となっては伝説の舞台作品。

これを私はみているのだ。あの当時の新宿の雑踏感、猥雑感、1970年代の数年間はまさに田舎者の私には、何かが怒涛のように押し寄せた時代だった。

いまだ、あの青春時代の残滓が私の中にかすかに、だが色濃く残っているのを感じる。蜷川さんはお亡くなりになったが、あの当時映画館の通路にへたり込んでいた蜷川さんの若き日の無名の姿は強烈に今も私の脳裏に焼き付いている。カッコよかった。

あのまま、その後世界の蜷川と呼ばれても、倒れるまで時代の中を疾走し続けた(戦い続けた、見えないものに向かって)希代の演出家として記憶に刻まれるお仕事をされたのだ。

自分は回遊魚で、立ち止まったら死んでしまうと語られている。

きっとこれから蜷川さんに関する本が次々に出版されるだろうが、間接的に同時代を生きて生で氏の演出作品に出会えたことは幸運であったことを、ほんのわずかでも五十鈴川だよりに記しておきたい。

シェイクスピアであれ何であれ、自分が自分にびっくりするような演出を絶えず追求し続け、その世界に殉じた見事というしかない生き方をされた、あの時代が 生んだ稀な演出家だと思う。

きっと私が東京に住んでいたら、蜷川さんの老人劇団のオーディションを受けていただろうと思う。そして私は思う。今岡山の地でささやかにまだじたばたと生きているが、私が蜷川さんの年齢まで生きるとしたら、どのようなことをしながら死を迎えたいのかと。能力の問題ではない。

こ難しいことはさておき、夢が原退職後の3年間はあっという間に過ぎた。きっとおそらく私の死も今私が感じているより人生時間はすぐに終わりを迎えるのだろうと思う。だからこういうことがきちんと考えられるうちに、蜷川さんの逝き方を前に爪の垢でも何かを感じ取りたいのだ。

まさに死に向かって、青年のまま蜷川さんは、ライブ感覚で、時代をどこか遠くから眺めながら正直に満身創痍、疾走 し続け、真の意味で舞台人として生きられたのだ。尊敬する。





2016-05-09

にわかプレミアリーグレスターファンになった私は、ささやかに思考する。

昨日深夜ブログを書いてから、特別の理由がない限り、サッカーを見ない私なのだが、岡崎慎司選手の所属するレスターの最終戦を見届けてから床に就いた。

たまたまレスターというイングランドの地方都市のチームを知り、130数年ぶりの初の歴史的な快挙 に湧くスタジアムの、チームとファンの一体感の感動のいっときに、わたしもバーチャルに参加したかったのである。

予期もしなかった奇蹟がこのチームに訪れたのには、きっと様々な要因があるに違いないが、そのような意外なことが、起こることこそがまさに人生の醍醐味というしかない。ましてやその現場に居合わせた、3世代にもわたるサポーターの末裔たちの積年の思いはいかばかりか、その心中は察するに余りある。

やはり当たり前のことなのだが、お金では買えない感動というものを、このチームとファンは私にあらためて知らしめてくれた。そのチームに日本人である岡崎慎司選手が参加してくれていたことが、ことのほか私にはうれしかった。
 

オリンピックや、プロ野球や、企業や、今のスポーツ界(にとどまらないが)に、繰り返される無感動的紋切型イベントに、私はすっかり嫌気がさしてしまっていたのだが 、このレスターというチームには、久しぶりに感動を覚えた。
わずか7株だが生まれて初めて育てている白菜

芯から感動したりすることが、老いるにしたがって少なくなってきつつあるのをわが体を、いささかさみしがっていたのだが、久しぶりに わが体は感動した。作られた小手先イベントにはわが体は反応しないのだ。

私のようなタイプは、小さき喜びや感動というものが、時折の生活の中に在るとなしではまったく異なる。ましてや還暦を過ぎてからは、再び恥も外聞もなく、遊びをせんとや生まれけん、の世界に回帰したくなっている。

日々穏やかに身過ぎ世過ぎできれば、大げさなことではなくとも感動生活を送ることこそが、いわばこれからの本格的な晩年生活に最も不可決な 要素であると認識している。

その感動が生まれてくるような暮らしはいかようにしたらなるのかは、私にもきちんと言葉では説明できないし、そのようなことを書いてもしょせん詮無いのだ。

ただ自分の体は自分で運び、自分の体で痛みを伴いつつも思考し続けない限り、見つけられない類の何かでは ないかというのが、現時点の私の思いだ。

ことさらに芸術や文化の追っかけをしなくとも日々の暮らしの中での充実こそが私には肝要なのである。

五月晴れのようにはゆかない世の中をつましく五十鈴川は流れる。

5月に入って2回目の五十鈴川だよりだ。こんなに書いていないのは、ブログを書き始めて初めてではないか、という気がする。

これから、【ロバの夢】という33年ぶりのルネスでの舞台を終えるまであまりブログを書く気がおきないのではないか、開いてくださる方にはご容赦をというしかない。

それと、雨天ではない限りこのところ起きてすぐ身支度を整えたら竹韻庵に向かっているので、ほとんどのブログを朝書いてきた私は、ブログを書く気が失せてしまうのである。

これほどの世界の大変さの前では、何やらのんべんだらりとした五十鈴川だよりは書けないような心境に 、正直おちいるといったことも作用している。

書いても何やら個人的に落ち着かないといった方が、正鵠を得ているか。したがって今も書きながら書きあぐねている、という絶対矛盾。

明日は雨の予報なので、何やら久しぶりに 書こうかなあ、といったきわめて消極的な情熱で、珍しく夜中書いている。

まあ、単細胞の私なのであれやこれやのことが、できないだけのことなのだ。こんなことを書くと、どこか具合でも悪いのはないかという気がする方もおられるかもしれないが、まったく逆で、私自身は穏やかに身過ぎ世過ぎができている現在の暮らしを、これまでの人生で最も在りがたい日々をすごさせていただいている。

もっと書けば、ことさら五十鈴川だよりを書かなくても、何とはなしに 過ごせるようになってきたのかもしれない。以前は五十鈴川だよりを書かないと何やら落ち着かないような感じもあったのだが、何やら寄りかからなくても日々を過ごせている自分が増えてきたのだ。

それは、なにに起因しているのかは自分では上手くは書けないが、いつも書いているように、五十鈴川は、流れるようにしか流れないのである。

気が重い、気まぐれ、気の向くまま、在るがまま、ある日突然、何かは始まり、そして終わる。でもまだ私の人生は緩やかに流れている。ささやかにささやかにこれからもたぶん五十鈴川は流れてゆく。

ところでいま、【外山滋比古著思考力の方法】という本をゆっくり読んでいる。耳に関する本、これが実に面白い。

時折目からうろこのように面白いというか、へえーっという、身体が活性化する本に出合う。

この感覚が持てる間は、きっと五十鈴川だよりを書き続けられるのではないかという気がする。書く回数は減っても、時折忽然と流れる五十鈴川だよりでありたいと、愚考する。

外山滋比古先生は1923年生まれ、2015年の御本だから93歳にしての、この思考の柔軟さは驚嘆というしかない。

こういう長生きはまさに理想である。それにしても学ぶということの奥深さを知らされる。学校生活が苦手だった私だが、学ぶということに関しては、どこでだってできる。

遅きに失した感は否めないが、これからも怠惰な私だが、すごいと思える先生たちから素直に学びたい。

2016-05-01

【クニ子おばばと山の暮ら】、を読み実践する。

早くも5月、GWはいよいよ佳境だが私はこの数十年のなかで、おそらくもっとも静かなGWを過ごしている。

今夜妻と娘が東京の娘夫婦のところから帰ってくるが、先週木曜日からひとりでの生活をしていた。わずか三泊4日だが。

たまにはこういう時間もいいものだと考えたりしている、今夜からは普段の暮らしに帰る。いつもは当たり前のようにいる妻や娘がいないと、家の中は急にがらんとしてしまうことが実によくわかった。

幸い犬のメルと猫の花がいるがために、えさをやったり散歩に連れ出したり、その世話も含め自分の食事を3回作るのだって、掃除だって買いものだって、なにやかや生きているということは、丸ごと全部時間がかかるということが実によくわかる。

そういうことを私はなるべく楽しんで過ごそうと相務めているのである。ところでいきなり話は変わるが、わが故郷に椎葉村というところがある。

わがご先祖の山一つ越えたところに在る、半世紀までは宮崎の秘境であったところである。その地で今はたった一軒だけになってしまった、5500年前から続く焼き畑農業を今もやられている、椎葉クニ子さんの本を、偶然イオンの本屋さんで見つけ、すぐ買って読んだ。

ほんの表紙の当時89歳写真の笑顔が素晴らしい。この本はきっとこれからの私の手元にずっと留め置く。たまたまNHKで数年前、このクニ子おばばの素敵な番組を見ていた記憶があったので、引き寄せられるように棚に在った背表紙に手が伸びたのは、やはり縁である。

おばばの本関心のある方には推薦したい。内容はシンプルで高貴で究極の天然エコライフを実践している稀な世界ヒト遺産にしたいような、高地に咲いた御女性である。

またもや話は変わる。間もなく竹韻庵に通い始めて10カ月になる。五十鈴川だよりを読み続けている方は、夢が原退職後の私の動向、生き方の右往左往じたばたぶりはよくご存じだと思うが、竹韻庵にゆくようになってから、生まれて初めて経験することがこのところやんわりと増えている。

まず何といっても竹や笹野根の開墾作業や植えたことのない野菜を植えること。そのことはまた機会があったら別の機会に書きたいと思っているが、 今日書きたいのは食に関してのことなのである。

先日私は竹韻庵に群生しているフキで生まれて初めてキャラフキを自分で作ったのだ。剥いてあくを抜き、しょうゆ・砂糖・お酒・鷹の爪で我流で味付けをしたのだがこれが自分でいうのもなんだがうまいのだ。
生まれて初めて作ったキャラフキ

これに、あったかいご飯がればもう何もいらないくらいである。数時間前に採ってきたものだから鮮度がまるで違う、歯ごたえが柔らかくキャラフキってこんなにうまかったのかと初めて知った。

この後にクニ子おばばの本に巡り合うのも 必然のように思える。さっそく遊声塾のY氏にいただいた山ウドがあったので、これもさっとゆでておばばの言うとおりに三杯酢にしたところ、これまたなんとも言えない歯ごたえ。

まったく老いて知る、味わいの奥深さというほかはない。これから私は山野草の魅力を追求したいという思いが格段と深まってきた。保存がきくので私のような横着な人間にはもってこいなのである。

とくにこの3日間はひとりだったので、勝手気ままのありあわせ我流創作メニュウで乗り切った。麺類が好きなので、そば、うどん、パスタ、なんでもござれ竹韻庵の野菜、セロリ、ブロッコリー(保存していた)玉ねぎ、ネギ、春菊、それに少々のお肉があれば、何とかなる。セロリのうどんなんて、葉っぱの部分からのエキスがなんとも言えなかった。微妙な味が絡まる手ごたえ。

なんでも楽しんで挑戦工夫すればあとは未知の味との遭遇である 。今日もお昼冷蔵庫にトマトとキャベツが余っていたので、母に頂いたさやえんどう、新玉ねぎ、とベーコンを黒コショウとオリーブオイルで炒めイランの塩で炒め、カレー粉少々で不思議なおいしさのパスタができた。

それから竹韻庵にはヨモギがたくさん自生しているのでおばばの影響でたくさん積んできて今干しているのだが、薬草風呂とヨモギ茶にするつもりでいる。

自然が与えてくれる恵みの何という在り難さ、何やらどこかに出かけずとも我流GWを楽しめそうな気配である。

2016-04-28

次兄から突然送られてきた西原村のお芋を食べながら在り難さを噛みしめ考える。

いよいよ紫外線が強くなり気温も上がり始めたので、朝一番竹韻庵にこのところ通い始め、10時には作業を終えるようにしている。

そのようなわけで、これから夏場はとくに朝のブログは書く機会が減るかと思う。どうか斟酌してくださいますようにと、御断りを入れておく。

九州地方一帯はいまだ余震が続き、正直私自身もどこか気分がどことはなしに、五月晴れのような塩梅にはゆかない中日々を過ごしている。

がしかし、私自身の日々は流れてゆく中、私のすぐ上の次兄から先日どっさりとサツマイモが届いた、聞けば地震で家が倒壊した、あの熊本は西原村の友人がつくったお芋農家のサツマイモだという。

次兄は車一杯毛布や煮炊き用のコンロはじめ、一式を積んで駆けつけたという。その農家の方が昨年秋に収穫したお芋だというのだがあまりの立派さとおいしさにびっくりしている。

こまった時にとにかく頼れる友人や知人が身近にいるということはかけがえがないのだということをあらためて知る。

備えあればと昔の人はいうが、備えというのはあまねくひろい意味でとらえた方が正鵠を得ている気がする。

普段からの生き方をはじめ、積み上げてきた何かがきっと問われるのではないかとあらためて次兄の行為の立派さに感じ入った。

小学6年から父と共に転校した私は、次兄と共に密に過ごしたのは11歳までなのだが兄弟の中では一番苦労しているせいか、他者に対して実におもいやりが深い。

この兄と最近帰郷の旅に交流を深めている。植物や土いじりが好きでいろんなことを良く知っているのでとんちんかんな私には貴重な兄である。

いつかブログで写真をアップしたいが、見事な庭を数十年かけて作っているし、もちろん家庭菜園も見事な野菜を作って長兄や姉、近所に分けている。

突然送られてきたお芋の意味を私はしかと受け止めながら、人としてどのように生きてゆけばいいのかを、お芋をいただきながらいい歳をしてあらためて考えている。


2016-04-24

朝一番、書評を読んで思うこと。

雨の日以外平均すればしゅうに3~4回竹韻庵に通っている。ゆけば必ずなにがしかのことをして過ごす。そのことは私の日々の暮らしに良きリズムを生み出し、おおよその一週間の過ごし方がほぼ決まってきている。

朝起きて週に何回かブログを書くこともそうだし、声を出し続けることもすべてに おいて言えることだが、馬鹿の一つ覚えのように継続持続してゆく中でゆっくりゆっくり見えてくるというか、気づきの感覚が深まってくるような気が(あるいは錯覚かもしれないが)している。

新鮮な感覚の持続というか、それを生み出してゆくためにはどのように日々を過ごしていったらいいのかを考えつつ、といった塩梅。
新鮮な文字、言葉は紋切型思考を洗う

もうすでに何度も書いているが、日曜日の私の楽しみは書評を読むことである。これも十数年継続持続していて、切り抜いた書評はノート十数冊にも及ぶ。

今朝もほぼ読んだ。軽薄無知蒙昧人生のほとんどを生きてきた私である。還暦を過ぎ、この期に及んでようやくにして 独学教養時間が過ごせる在り難さをこの三年間過ごさせてもらっている。

世の中にはなんと該博な(それはあらゆる多岐にわたる分野で)知識を持ち、しかもそれにおぼれず、懐疑的に思考をやめず素敵に生きている、魅力的な人間がおられることを、新聞を読むことで知る。

今朝の書評氏、池内紀、手島龍一、橋爪大三郎三氏のお薦め本書評は読みごたえがあった。私などは単細胞なるがゆえに、思考停止安易な護憲論者にくみしがちなのだが、そうはことは単純ではないのだと、眼力のある方々から教わること多々である。

とにもかくにも自分の人生には限りがあり、その一回限りの人生を可能な範囲で実りあるものにするためには、何をしたらいいのかと、今朝も自分に問うしかない私である。


2016-04-23

真夏の夜の夢、ライブイベント【ロバの夢】いよいよ動き始める。

何かとあわただしく過ごしているうちに桜の季節が終わり今は一雨ごとに新緑がまぶしくなってきている。森羅万象は目には見えないが、いっときのゆるみもなく移ろっている。

地震の余震が続いているなか、私は私の日常をとにもかくにも生きている。この夏、7月29日にルネスホールで行われる【ロバの夢】(というタイトルになった)舞踏とシェイクスピアの言葉による台本が完成し、昨日ルネスで私も含め5人での本番に向けての初ミーティングが行われた。
ロバの夢6ページの台本にイメージがぎっしり

製作費は入場料に頼るしかないし、スタッフもほとんどをボランティアに頼るしかないというきわめて大変なプロジェクトがスタートするが、随時五十鈴川だよりで経過をなるべく書きながら、この公演イベントに出演する一人として、現時点での私のこれまでの何かすべてを出し切るつもりでいる。

照明、音響、チラシ、衣裳もろもろ、一つの舞台作品を創ることは製作費がとてもかかるのである。

私はこのプロジェクトを成功させるために 、個人でわずかでも支援カンパを募るつもりでいる。

スタッフ、出演者は一夜の公演のために、あらゆる諸般の事情の中での雑事の手続きのひとつ一つをクリアしてゆかねばならない。一つの大きな山【夢】に向かって淡々と、しかし熱いメンバーが、ロバの夢実現のために参集している。みんな手弁当である。S女史の情熱の賜物である。

運命の神は時に予期しもしないことを私の人生に与えてくれる。舞踏家S女史から よもやまさかこのようなオファーをいただけるとは思いもしなかった。(試練だが飛び込み泳ぐつもりだ)

今はただこのチームに参加できることの在り難さを、昨日のミーティングで再確認した。とにかく船は漕ぎだしたので、目的地にたどり着くまで何とかこぎ続けるだけだ。

私はS女史の情熱と才能を信じているので、安心して乗船しスタッフ全員で乗り切りたい。とにかくまず200枚のチケットを完売しなければならない。私自身で50枚は売りさばきたいと思っている。

社会人になった娘にも買ってもらうつもりでいる。五十鈴川だよりで今日から先行予約を開始します、電話、メール何でも構わないのでどうかチケット買ってくださいと、書きつづけるつもりでいる。

また厚かましくも、チケット付きのカンパも封書でお願いしたく考えている。心ある見巧者の存在を、パトロンを見つけたいのである。いわば無心である。

それから、友人知人他人どなたにであれ、この夏ルネスで何か面白い【ロバの夢】という ライブイベントがあるという噂をまことしやかに流してもらいたいのだ。大入り満員札度目くらいの活気のある夏の夜の正夢にしたいものである。性根入れてやりますので。

2016-04-20

家族という病、下重暁子を読んで思う。

人はみな自分という病を抱えて生きているのではないのかという認識が私にはある。【家族という病】という下重暁子さんの本を妻が図書館で借りてきた。気になっていた書名、私も読みたかった本なので、手にして一気に読んだ。

感想を一言でいえば、読んでいて痛ましくもつらい内容がつづられていて、一口に家族というが千差万別の家族の姿があるのだという、当たり前のことをあらためて思い知らされる内容だった。

あの戦争の前と後ででまるで変ってしまう (ざるおえない)家族の負の姿が、一少女に与えてしまう心底恐ろしいトラウマ。そこまでの経験をしたことがない私には言葉がはばかられるのが、正直な読後感だ。

とはいうものの、彼女の凛とした、自立した覚悟の個人主義には、私も多々かなりの点で同意する。

だがそこまでは徹しきれない私自身の現在の揺らぎもあって、それはそれで仕方がないと私は考える、生れ落ちた時代が違うのである、環境が。人間は時代に翻弄されるはかなき存在である。

家族というものは厄介なものだという認識は私にもあって、とてもではないが短い朝ブログごときで書き伝えられるものではない。 愛と憎しみとはまさに表裏の関係にということだけは永遠の真理かもしれない。

だから私は家族というものを、いたずらに美化したりは全くできないという立場に立つ。人間というものは、絶対矛盾を抱えつつも、そこにしがみつきながらも、やはり究極は孤独を抱えつつ歩むしかないのでは、という認識である。与えられた隙間をいかに生きるのかを。

歳と共に故郷に回帰したくなり、お互いの老いを確認しつつ姉や兄と年に数回語り合える関係性くらいが、ちょうどいいという有難い認識、べたつかず程よい関係性を維持思いやれるくらいの距離感が いいのである。義理の母との関係性もそうである。

言うは易し、それには個人主義的健康自立ライフがないとかなわぬ夢である。やがては老いて故郷に帰れなくなる日もやってくるに違いない。だから還れるときに還っておきたいのである。

いよいよもって、心の欲するままに正直でありたいだけなのである。故郷など死んでも帰りたくない人もいるであろう、それぞれである。

散々親に心配をかけた放蕩息子の私には、きっとまだ何かしなければならないことがある、そのことを見つけるためにも(よしんば見つからなくても)還っているのかもしれない。

ともあれ、理屈では収まり切れない感情がいまだ私を突き動かすのだが、姉や兄たちの顔を見ると 、いい歳を忘れしばし安心して幼少の頃へと回帰できる自分がいるのは事実である。

きっと芭蕉のように、旅に病んで夢は枯野を駆け巡る、のかもしれないが、それは今しばらく先のこと、と思いたい。


2016-04-19

いまだ余震が続いているなか、ささやかに想う。

いまだ余震が続いている中、報道で知る範囲で思うことだが、自分がもし体育館とかに避難を余儀なくされる立場になったらといくばくか考えてしまう。

その思いすべてをここに書くことは控えるが、きっと一週間が限度だろうと思う。つい立ても何もない、おおよそプライベートな感覚が持てない状況では、ヒトはきっと精神がやんでしまうのではないかと思う。

窮屈な車の中に寝たことがある私なんかは想像がつくのだが、手足を伸ばして寝られることの何と在り難きことかを思い知らされるのだ。とくにお年寄りの大変さを。

ともあれ、被災地のことを思うと安穏とブログを書くこともはばかられるほどに、このたびの地震災害は、九州人の私にとっては他人事とは思えないのだ。
今朝の我が家に咲いていた花

余震が収まったら、ほんの少しであれなになにがしかのことを、とささやかに考えている。いまははやっても邪魔になるだけである。

岡山に移住してから、とくに阿蘇の麓はこれまで何度も何度も 車で走っていて見覚えのある山肌が削り取られ、道路が寸断されているのを映像で見ると、痛ましい感情にどうしてもかられる。

それにしても思うのだが、便利で快適な我々の暮らしは、いったんこういうことが起こるとトイレの水は流れなくなるし、ガソリンの補給がストップすると車は動かせず、停電になるとあらゆることが立ち行かなくなる。

そういう消費文明生活を、時折根底から見直すような生活も時に考えないと、やはりまずいということを、私は個人的に感じてしまう。

いきなりだが、これから竹韻庵で草刈りなどの仕事をする予定なのだが体が動いて何事かをなせるということがいかに大事であり難いことなことであるのかということを、思い知らされる。

身体あっての物種、健康に動けることの、お金では生むことの出来ぬ幸福感。ささやかにものを想う、思考力こそが全財産というほかない。人は裸で生まれ、裸で死ぬ。いわば原点を、こういう天地を揺るがすようなことがおきるといやでも私は考える。



2016-04-17

わが故郷の近辺で続いている地震に思う。

地震が続いている。つい6日前私は故郷の門川(五十鈴川)から高千穂を抜け南阿蘇に入り、そこの垂水という温泉に入り、ゆっくりしてから、友人のいる柳川に向かったのだが、近くに火の鳥というログハウスの温泉があるところも通ったので今回の被害が多い地震現場はただ事とは思えない。

もし昨日私が現場を走っていたら、このようにブログを書いているなんてこともありえなかったかもしれない。たまたま天運があったというしかない。

いずれにせよ、車で帰る場合大分ルートか、熊本ルートになるので、阿蘇や湯布院や日田、高森、竹田、三船他、知った地名が出ると現地の風景が蘇るのである。

九州男児という言葉がある、古い言葉であるかもしれないが、九州の言葉、各県でかなり異なるとはいえ下関から門司に入るとなぜかしら私は九州に帰ってきた安ど感につつまれる。(これは理屈を超えた遺伝子的な奥深い何かである)九州人である私には今回の震災は、どこかやはり他人ごととは思えないのだ。

ハムレットは親友のホレーショに、この天と地との間には哲学などの及びもつかぬことがあるというが、まさに然りなことがこうも次から次に多発すると、宇宙というかこの地球のマントルの奥深く、神秘の妖怪が煮えたぎっていて時折現れてはこのような(人間の側からみると)大惨事を引き起こす。

災害、天災は忘れたころにやってくるというが、私も含めた人間の大多数はやはり忘れてしまう。もっと言うならあまたの多くのいわゆる一般大衆はどこか忘れたふりでもしなければ生きてゆけないくらいに、日々の生活に追いかけまくられて生きているのが現実ではないかというのが、正直な私の認識。

もし自分が家が倒壊するとか、大切な分身を失うとかしたらどのような感覚に陥るか皆目想像だにできない。言葉で簡単に冥福を祈るなんて気持ちにだけはとてもならない。

姉や兄がが被災したら、安穏とブログなんか書いてはいないだろう。だからこその穏やかな日常のありがたみを感じながら、このいっとき書いている(つもりである)。

ささやかになにか自分にできることはないか考えている。

2016-04-16

ハムレットのように【このままでいいのかいけないのか】考え続ける勇気を持ちたい。

帰省旅では阿蘇から熊本をを抜け友人のいる柳川に入ったのだが、ついこないだ車で走ったあたりが、大きな地震災害に見舞われた。

門川の兄にすぐ電話を入れた。これまでに経験したことのない揺れだったとのことだが、幸い被害はなかったとのことである。いまだ余震が続いているから安穏とはしておられず、現地の被害が集中したエリアの方々のことを想像する。

お隣の川内原発は、この渦中も稼働している。もしという仮定を、わたくしごときでも想像する。川内原発の近辺で起きたらと。きっとこのような想像をした方は私だけではないと思う。

この火山列島には、53基にも及ぶ原子力発電所がある(稼働していないのも含めて) 。安倍さんは経済経済とうわ言のようにのたまうが、今更のように我々はひとつ間違えば奈落の底という、安全という名のおまじない的平和をたまたま享受していることをあらためて知らされる。

テロという言葉が、テレビや紙面で耳タコが出るくらい聞かされる。一庶民にの頭では何をどうしていいものやら、とんとちんぷんかんぷんの有体なのだが、それでも何かは思い考えるのである。

生きていることの醍醐味の一つは、自分の体で(しかないのだから)考え動き、動き考えすることではないか。(何故テロはやまないのか、原発が狂信的テロに襲われたら。現実は映画ではないのだ)

スイッチをひねれば、電気も水もお金さえ払えば、無尽蔵に出る、あるかのように錯覚しているが、インフラが地震に会えばすべては水の泡になる経済優先、命後回し社会に我々は放り込まれている、といった認識が私にはある。(いつ何時棄民化、難民生活に陥るか対岸の火事では済まない時代に生きているという認識である)

そういう社会のほとんどを、戦後70年 の64年間を私は生きてきた。しかしいま、本当にどのような国であったら、日本国民は幸せな感覚を取り戻すことができるのかの大きな歴史的な転換点の土壇場にいるのではないかという気がしてならない。
竹韻庵に記念樹として植えた柿木が根付きました

先日新聞で、国民は知る権利があるという言葉と共に、知る義務があるという言葉も知った。

夏には選挙があるが、18歳以上の国民はこの国の行く末の舵を託す政治家の大局観をとくと見極めねば取り返しがつかないことになる、気がする。

いきなりだが、シェイクスピアは【夏の世の夢の妖精パックに人間てなんて馬鹿なんでしょう】と、いわせている。バカの一人の人間として思うことは、自分は利口だと考えている人間ほど度し難いものはなない、という認識が私にはある。

誰かが言っていた言葉、明日世界が滅びる(あくまで人間世界が)としても、花を植えるというしかないし、赤ちゃんは生まれているし、そこに幻想の希望を持つしかない、しがみつくしかないというのが現時点での私の思い。

ささやかに五十鈴川だよりを書き、発言している我が身としては、土を耕し作物を植え命の根本に体で触れながら、思考も開墾しなければ、天と地から浮いたような考えに煮つまってしまうのではないかという不安に駆られるのである。

4年前東北の大震災をこの目で見て、私の生き方は大きく変わった。友人たちとの付き合いも私が変わったことで、多少の変化が見えているが、大切な友人たちとは全く変化なしにお付き合いが続いている。

幸福感、命の根源、自分が本当に大切に思えることは奈変に在るのか、そのことを日々自分を疑いながら、ハムレットのように、このままでいいのかいけないのかを、考える勇気を持ちたい。

2016-04-13

再び五十鈴川だよりは流れ始めました。

6日ぶりの五十鈴川だより、昨夜9時過ぎに無事に帰ってきました。うーむ何から書いていいのやらというくらいに、心に残るいい旅となりました。

ゆく前も書きましたが、兄や姉が愚弟の私を暖かく迎えてくれました。桜をあと何回愛でることができるかというくらい、兄や姉との語らいもいずれは叶わぬ時がやってくるからこそ、逢える時に会っておかねばとの思いです。

【月曜日に帰る予定でしたが、30年来の友人が博多にいまして電話をしたら柳川の現場にいるとのことでしたので、いったことのない柳川に立ち寄り旧交を温め合いました。

K氏は遠方から立ち寄った私を心から歓待してくれ、観光客のまったくいない琴奨菊のふるさとで、水路の角のお魚居酒屋でおいしいお魚料理とお酒をご馳走してくれました。北原白秋 の生家の近く、空には三日月。風情の極み、しばし風に狂う男時間を二人で過ごしました】k氏にこの場を借りて感謝。

若い時はともかく、晩年よもやまさか自分がこのような穏やかな気持ちになるなどとは思いもしませんでした。老いた、齢の功名だろうと素直に有難く思っています。

ところで、次兄の家の庭に咲いていた花をいただき球根草なので車に積んで持ち帰り、今朝起きてすぐに竹韻庵にゆき植えました。

車の中に丸2日間いたので根付くのを祈るのみ     
竹韻庵に植えるのは簡単ではない。まず竹の根をうがしてから植えたのだが、2時間近くかかって漸く完了した。

私は定年退職後、土に親しむ生活を心かけているまったくのど素人なのだが、次兄の言う通りにとりあえず移植した 。

手間をかけただけ、やはり喜びは大きい。車で帰らなければ持ち帰ろうとは思わなかったかもしれない。今は亡き実家の庭に在った植物も何種類か西大寺に持ち帰り移植したのだが根付いている。

少しずつ兄や姉にいただいたわが故郷の縁あった樹木や花を竹韻庵に移植してゆきたいと思う私だ。

せっかちな私だが、気長に丁寧に物事に取り組む面白さがいくばくか身につき始めたように思う。

のんびり電車旅とか今回のようにできるだけ高速を走らない旅なんかも随分と楽しめるようになってきた。高速では見えない豊かな人々の暮らしが、車窓からは見えるのだ。

反射神経が鈍くなってくるし、用心しながらゆっくり運転をする。自然な衰えとたたかうのではなく、牛歩のように進む楽しみを見つけるというか、確実にやってゆくことの大切さ。老春は今のところ実に面白い。

話はあちこち変わるが、先日一人で間違いの喜劇全幕読んでみて体感したのだが、かろうじてある程度の速度で読み終えることができた。訓練によって早く読むことだけは、今のところなんとかキープしている。

こればかりは訓練しないと体がすぐに錆びついてしまう。というわけで今日もこれからいくばくか口を動かし、非日常から日常へと向かう五十鈴川である。