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2016-06-11

宮本輝、吉本ばなな、お二人の素晴らしい対談集を読み、草を抜き考える。

小説を読んだこともないのに、泥の河という映画の原作者が宮本輝という作家であることは知っていた。

また、小説を読んだこともないのに、吉本ばななの父親があの吉本隆明であることもしってはいた。

たまたま、図書館で昨年秋出版された、この世代の異なるお二人の対談集が目に入り手にし、借りて穏やかな時間を見つけて、読み終えた。

2013年の1月から対談が始まり、2014年9月までの間に、7回にわたって行われた対談が収録されている。実に読み応えのある対談集である。五十鈴川だよりで書き留めておきたいと思う。
見づらくてごめんなさい

私のブログを読み続けていらっしゃる方がもしいらしたらご存じだと思うが、もし私にいくばくかの今を生きる情熱の根拠が奈変に在るかと問われたら、一言無知であるからだと答えたい私である。

18歳で田舎から上京していやというほど自分の無知蒙昧さをたびたび満座の中で中で思い知らされたが、いまだに、いい意味でのトラウマのようなものが、くすぶっているのを感じている。

いつの世も生きてゆくのは困難苛酷の連鎖である。このお二人の優れた小説家も例外なく、その苛烈な渦中の人生を生きながら作品を紡ぎ続けておられる。

大変さを全身で引き受け、まさに天職としての小説家の道を犀のように歩んでおられる姿がほうふつとしてくる素晴らしい対談集である。

世代を超え、両者がお互いを尊敬していることが、言葉の端々から感じられる。読んでいて実に気持ちがいい。

是非お二人の本をきちんと読んでみたくなった。怠惰横着を絵に書いたような少年時代を送った南国生まれの、能天気人である私だが、ようやくにして少し真面目に自分と向かい始めている。

人生を消費的に送るのではなく、自分なりの胃袋で消化しつつ気づきを深めてゆく、自分を可能な限り対象化、相対化する感覚を磨くとでもいうような。

いきなり話は変わる、昨日は梅雨の晴れ間暑い一日だったが、3時間近く竹韻庵で休み休み、手で草を刈ったり、抜いたりした。むせかえるような草の匂いがわが体に染み入ってきた、草の持つエネルギーが乗り移り、身体から心地いい汗が流れた。

帰ってシャワーを浴び着かえたら、わが体は しばし生き返った。

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