あれほど何かに突き動かされて、せっかちに動き回る自分がいたのだが、何かそういう自分からの変化の兆しが、体のどこかに 芽生え始めているのだ。
動き回るよりもじっとしていることの方が心地いいとでもいったような感覚が、体の中に生じ始めている。
ブログを書く私のそばを離れないメル(愛おしい) |
ただ単純にこれが老いてきたことの、幸徳の単なる一現象であるとすれば、私は素直にこれを受け入れたいという気持ちである。
ゆったりと歩いてゆくことしかできなくなっている、己が姿をあるがままに受け入れながら、
走っているときには見えなかった、感じなかったことを、一つ一つ大切に愛おしく、狂おしく丁寧に一日一日を過ごしてゆきたいと、まあこんなことを想う日々なのだ。
手の届く範囲の日々の暮らしの、世界のすべてを有難く受け入れる。妻の母の何気ない影響が、この数年、特に土に親しみ始めてから 、水滴が一滴一滴とわが体にたまってきているかのように感じる。
歩くのは苦手だが自転車は得意、母はお茶目である |
土に触り、目線を低くして作物の生育に一喜一憂している童女のような83歳の母を見ていると、深く琴線に触れるかのように、わが心も不思議な幸福感に満たされるのである。
一人で住む母の家の小さなに菜園場の見事さには打たれる。これまでの彼女の生きてきたすべてが、彼女の菜園場には反映されている。
いまだ若干の煩悩を抱えつつも、やがては彼女のように土の世界から、お日様や雨を眺めながら 、生命の摩訶不思議さ、存在していることの有難さを感じながら、この世の曼陀羅、厳しくも美しき世界をいとおしめたら、と私は願望する。
とはいうものの、いまだ私はつるはしも振るえるし、声も十分に出る煩悩の塊肉体を生きているので、今しばらくは絶対矛盾的にやれるうちにに右往左往するつもりである。(だって悩むことの中からしか創造性は生まれてこないのだから)
母との土いじり作業は、私と妻との共生感覚も育む、循環再生、命を生む、土はまさに偉大である。
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