その思いすべてをここに書くことは控えるが、きっと一週間が限度だろうと思う。つい立ても何もない、おおよそプライベートな感覚が持てない状況では、ヒトはきっと精神がやんでしまうのではないかと思う。
窮屈な車の中に寝たことがある私なんかは想像がつくのだが、手足を伸ばして寝られることの何と在り難きことかを思い知らされるのだ。とくにお年寄りの大変さを。
ともあれ、被災地のことを思うと安穏とブログを書くこともはばかられるほどに、このたびの地震災害は、九州人の私にとっては他人事とは思えないのだ。
今朝の我が家に咲いていた花 |
余震が収まったら、ほんの少しであれなになにがしかのことを、とささやかに考えている。いまははやっても邪魔になるだけである。
岡山に移住してから、とくに阿蘇の麓はこれまで何度も何度も 車で走っていて見覚えのある山肌が削り取られ、道路が寸断されているのを映像で見ると、痛ましい感情にどうしてもかられる。
それにしても思うのだが、便利で快適な我々の暮らしは、いったんこういうことが起こるとトイレの水は流れなくなるし、ガソリンの補給がストップすると車は動かせず、停電になるとあらゆることが立ち行かなくなる。
そういう消費文明生活を、時折根底から見直すような生活も時に考えないと、やはりまずいということを、私は個人的に感じてしまう。
いきなりだが、これから竹韻庵で草刈りなどの仕事をする予定なのだが体が動いて何事かをなせるということがいかに大事であり難いことなことであるのかということを、思い知らされる。
身体あっての物種、健康に動けることの、お金では生むことの出来ぬ幸福感。ささやかにものを想う、思考力こそが全財産というほかない。人は裸で生まれ、裸で死ぬ。いわば原点を、こういう天地を揺るがすようなことがおきるといやでも私は考える。
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