人はみな自分という病を抱えて生きているのではないのかという認識が私にはある。【家族という病】という下重暁子さんの本を妻が図書館で借りてきた。気になっていた書名、私も読みたかった本なので、手にして一気に読んだ。
感想を一言でいえば、読んでいて痛ましくもつらい内容がつづられていて、一口に家族というが千差万別の家族の姿があるのだという、当たり前のことをあらためて思い知らされる内容だった。
あの戦争の前と後ででまるで変ってしまう (ざるおえない)家族の負の姿が、一少女に与えてしまう心底恐ろしいトラウマ。そこまでの経験をしたことがない私には言葉がはばかられるのが、正直な読後感だ。
とはいうものの、彼女の凛とした、自立した覚悟の個人主義には、私も多々かなりの点で同意する。
だがそこまでは徹しきれない私自身の現在の揺らぎもあって、それはそれで仕方がないと私は考える、生れ落ちた時代が違うのである、環境が。人間は時代に翻弄されるはかなき存在である。
家族というものは厄介なものだという認識は私にもあって、とてもではないが短い朝ブログごときで書き伝えられるものではない。 愛と憎しみとはまさに表裏の関係にということだけは永遠の真理かもしれない。
だから私は家族というものを、いたずらに美化したりは全くできないという立場に立つ。人間というものは、絶対矛盾を抱えつつも、そこにしがみつきながらも、やはり究極は孤独を抱えつつ歩むしかないのでは、という認識である。与えられた隙間をいかに生きるのかを。
歳と共に故郷に回帰したくなり、お互いの老いを確認しつつ姉や兄と年に数回語り合える関係性くらいが、ちょうどいいという有難い認識、べたつかず程よい関係性を維持思いやれるくらいの距離感が いいのである。義理の母との関係性もそうである。
言うは易し、それには個人主義的健康自立ライフがないとかなわぬ夢である。やがては老いて故郷に帰れなくなる日もやってくるに違いない。だから還れるときに還っておきたいのである。
いよいよもって、心の欲するままに正直でありたいだけなのである。故郷など死んでも帰りたくない人もいるであろう、それぞれである。
散々親に心配をかけた放蕩息子の私には、きっとまだ何かしなければならないことがある、そのことを見つけるためにも(よしんば見つからなくても)還っているのかもしれない。
ともあれ、理屈では収まり切れない感情がいまだ私を突き動かすのだが、姉や兄たちの顔を見ると 、いい歳を忘れしばし安心して幼少の頃へと回帰できる自分がいるのは事実である。
きっと芭蕉のように、旅に病んで夢は枯野を駆け巡る、のかもしれないが、それは今しばらく先のこと、と思いたい。
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