3日連続して、五十鈴川だよりを書くなんてずいぶん久しぶりのことだ。写真のないブログを書くようになって、写真がないのがつまらないと思われる向きもあるかもしれないが、また忽然と写真が入る日までご容赦を。
ところで昨夜は、遊声塾の今年最後のレッスンだった。師走のさなか、私も含め4人の参加で締めくくりのいいレッスンができ、個人的に様々な感慨が去来した。
まったく写真のない、シェイクスピアの膨大な文字数だけの作品の言葉を、声に出して読むのは相当に骨の折れることである。(が私はその面白さを見つけてしまった、文字を耕して息を吹き込む面白さ)
ましてやわたくしごときの、拙文ブログでは、写真がなかったら、誰も読んでくださらない可能性はにわかに増すだろうというきがする、がまあ仕方がないというのが正直な私の気持ちである。(写真がなくても読んでいただけるような五十鈴川だよりを書きたいものだ)
ところで、まったく話は変わるのですが、先日私はクリスマスの玄関に飾るリースを生まれて初めて作った。材料は竹韻庵で開墾した笹の根である。
1メートル以上はある、土の付いた笹野根を10本選び家にもち帰り、近所の用水路にさらし可能な範囲で土を落とし、恐る恐る折れないようにまるめ、何とかいい感じにおさまった。
最初は不審な面持ちだった妻も仕上がりを見て、顔面に笑みがこぼれ、すぐにきれいに赤や金色の鈴や、松ぼっくりほかの飾りで思いもかけず見事な リースが玄関をかざった。冷えた夜、ライトに照らし出されると、さりげなくてハンドメイドの存在感がある。これで雪があれば、、、。
今も竹韻庵 では、つるはしを振るうたびに笹の根が採れる。これまでは乾燥しては、燃やしていたのだが、ほれぼれするような見事な根が取れるたびに、何か飾りにでもしたらとの思いが、年の瀬のクリスマスリースに結びついたというわけだ。
娘も姉にラインでさっそく写真を送って、長女からすぐにお褒めの言葉をもらったし、母からも、いいいい、と喜ばれた。
何せ64歳で初めて作ったのだが 、最近生きて元気なうちに、思いついたことは可能なことなら、無理のない範囲で実行してみようとの思いが深まっている。
このブログだって 思いつくから書けるのであって、私の場合思いつくことが生きているということの証左、料理だって掃除だって生きていることの喜びの中で、ヒトは何かを手を動かし作る。(現代人がぼけるのは手や足腰をあまりに動かさなくなったからではないか)それはどんなにささやかなものであれ、生きてればこその日々の喜びである。
竹韻庵に行くようになって、琵琶茶も作ったし、今5種類の冬野菜を植えていて、その成長を眺めていると、地面からわ。が体にエネルギーが乗り移ってくるような気がする 。何かが語り掛けてくるのだ。
五感が生き生きと働き、ときおり六感が舞い降りるのである。人工空間で消費生活にばかり身を置いていると、なにやら大事なことがさらさらと抜け落ちて、丁寧に生きることの妙味を、感じることなしに過ぎてゆくとしたら、感動しない体になってしまう気がして、もったいなくも寂しい。
自分自身というかけがえのないささやかな器の不思議な体の可能性は、年齢と共に反射神経や運動能力は鈍くなるものの、思考神経は緩やかに下りながら、深まってゆくように思える。そうありたい。
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