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2016-12-26

静かにシェイクスピアの作品を再読する、年の瀬におもう。。

クリスマスもすぎた朝、今年も余すところ一週間をきった。私の好きな静かな朝である。今日は雨なのであるが、午前中竹韻庵でS氏と二人だけの雨天決行忘年会をする。

いとおかし、小さな庵での二人きりでの忘年会もなかなかに風情のあるものである。竹韻庵での忘年会は2回目である。

おそらくは今年最後の忘年会になる。人はなぜに忘年会なる風習を考案したものかまるで知らないが、正直儀礼的な忘年会の参加は、歳と共に苦手になりつつあるが、気心の知れた仲間や友人との忘年会は嫌いではない。

さて、忘年会が終わると、一気にお正月がやってくる。妻はお掃除他やることが多くて大変そうだが、私は申し訳ないが、すべてほどほどにすませ、もっぱらシェイクスピアを再読することに時間を割いている。

年が明けたら 、シェイクスピア全作品再読時間を持続すべく、時間の許す限り今月から始めたのである。近年、共作も含めると、40本の戯曲を書いたといわれる膨大なシェイクスピア作品をじっくりと読んでいる。

半分以上の作品は34年ぶりに読むことになるのだが、この歳で、かろうじて声がまだ出るなかで、あらためてシェイクスピアを翻訳日本語で読めることの幸せを、年の瀬、しみじみ感じながら読み進めている。

アテネのタイモン、シンベリン、ぺりクリーズ、、、。リアリズムには程遠い、時間空間あっちこっち飛び回り、変幻自在なシェイクスピア作劇術の真骨頂と言葉、言葉、言葉世界を今更ながらに堪能している。

夢が原退職後、さび付いた体にむち打ち、シェイクスピア遊声塾を、勇気をもって立ち上げて来年でまる4年になる。まさにあの膨大な豊饒絢爛豪華言葉世界を、この年齢で(なくても)朗誦するのは、やってみればわかるが、半端なエネルギーではない。。

我ながら無謀なことをやっているとは思う、がしかし4年目に入ったあたりから体が何とはなしに、昔の若かりし頃の感覚を、いくばくか感じ始めたのである。記憶の体は不思議というほかない。

目も耳も反射神経も、若い頃のようにはゆかないものの、この年齢での朗誦の仕方の可能性もあるのだという発見があるのだ。だからこそ続けていられるのだと思う。

それがなかったら、とうにやめていただろう。誰にも知られず一人声を出して遊ぶわが姿を、他者が見たら何と思われるだろう。大勢の登場人物を入れ代わり立ち代わり時間を区切って集中して読んでいると時間はあっという間に過ぎている。

楽しい時間は、あっという間に 過ぎるとシェイクスピアも言っている。シェイクスピアのおかげで演劇的人生時間に放り込まれたかのように感じている私としては、とことんシェイクスピアと付き合おうと思うし、可能な限り、老体に酸素を送り込むような感じで、有酸素朗誦にまあ、挑戦しているわけだ。

シェイクスピアの晩年の作品などは、若い時に読んでもほとんど実感しえなかった登場人物のセリフも 、この年齢で読むと、ときおり染み入ってくることがあるし、つまりは発見が尽きないのである。

ささやかに何かに感動したり、発見できる体と心があるということが、生きていることの他者に迷惑をかけない生き方の醍醐味かもしれない。一文のお金もかからず声の出せるから体さえ あればいいのだから、貧者であれ豊かに生きる方策は無限にあるのだ。

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