さて、わたしの竹韻庵通いはロバの夢稽古期間中も、終えてからも、ささやかに続いている。ブログにはほとんど書いていないが、私の普段の日々の暮らしは、ほとんどルーティン化しているといったくらいに、同じようなことをほぼ繰り返しながら過ごしている。
この年齢だから、さすがに30度を超すと竹韻庵での肉体労働はきついので、早朝の正味2時間くらいを作業に充てている。目が覚め洗面を済ませすぐに出かける。
ほとんど私ひとりでの作業なので(犬のメルがお供に来てくれる)なかなかに、はかゆかないのだが、若い時の苦労は買ってでもせよ、富良野での徹底的な大地との労働体験が今の私を助けている。
いまだ繰り返し繰り返し、単調な動きに耐えられるのは(30度近くなったら作業はやめる)あの時体得した何かが生きているからだと思える。
無心に一生懸命に何かをなす喜びといったものが いくばくか私の体に沁みついているのである。若いころは、人が嫌がるようなことは私も嫌だった(特に肉体労働的なことが)のだが、富良野での体験は、根底から私のものの見方や考え方を変えたのだということが、いまはっきりと分かる。
人間は自分を変えられる。しかし、それは急には変えられない、うすい薄い皮を一枚一枚剥いでゆくような営為を、繰り返す中でゆっくりゆっくりと自信を育ててゆく中でしか見えてこないような気がする。
妻が心から大切にしている、はな |
砂を握りしめても、指から落ちてゆくように、ちょっと油断すると自分という生きた肉体の血が流れる器は、安易に滞ってしまうように思える。
いやでも老いてゆく中で体は動かなくなってくるのだろうとは思うものの、動く間は、動ける間はあまり身体を甘やかさない方がいいというのが、現在の私の考えである。
ささやかに土に触れる暮らしを心かけるようになってから、自分と向かい合う時間が増えたように思う。手鎌でものの30分も草を刈ると体から汗がいまだ滴り落ちる。
呼吸を意識し息を整えつつ草を刈る。気が付くと随分はかどっている。この喜びはやったもののみが感じる喜びである。ポケモンGOならぬヒダカGOである。
帰って家で水を浴びた時の爽快感はたとえようもない。水を浴びた後のかき氷(たまに缶ビール)は、至福の夏時間である。昼食を済ませ,しばしの午睡ののちは午前中とはまったく別のことをする。
昼食はありあわせのものでで作る。これがまた毎回楽しく作れているし面白いのである。何事も工夫次第面白がることに尽きるのである。夏はスタミナスパイシーなものがいい。とにかく母や妻の育てた野菜をふんだんに使う。
夢が原で働いていたころは、スーパーなんかに買い物になんかほとんどゆかなかったのに、この数年ほんとによく出かけるようになって、いろんな食品を観察する楽しみのようなものが生まれてきている。
状況が変われば、変化対応していかに今日を生きるのか知恵を絞るのである。そのためにはいくつになっても、現役感覚がある間はハングリーさがないと小生はまずいと、自戒して生きている(つもりである)。
一寸先何が起こっても不思議ではない 、一大カオス時代。まず何はともあれ自分の体に頼るしかない。
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