夜半から降り始めた雨の日の朝、久しぶりのブログである。先ほど部屋の中に洗濯物を干し家人は仕事に出かけひとり静かにパソコンに向かっている。
頻繁にブログを書かなくなってから、やはり何やら微妙な変化がわが体に訪れているのを感じる。それを言葉にするのは野暮な気がしていて、変化し続けてゆく中でおのずと終わりの時がやってくるのだという気がいまはしている。
そのことに在るがままでありたいというのが最近の五十鈴川だよりである。つまり無理をしてまで流れたくはないという在るがままなのである。
だが雨の効用でこうやって時折、体に雨水がしみこむかのように、忽然と五十鈴川が流れ始める。
何度も書いているが、年齢を重ねないと感じることができない、見えてこない景色のようなものがあって、そのことを受け止めながら一日一日を何やらオーバーではなくかみしめるかのように、過ごすことが増えてきたように思える。
このようなことを書くと何やら、いかにも初老男のつぶやきのようで我ながらちょっとまずいかなあ、という気もするが、私はわが体と意識に忠実でありたいと思うだけである。
とはいうものの、私のきわめて個人的あるがまま、わがままライフは、いよいよ世の流れのおおよその部分では、無縁 の様相を呈してきているのは自覚している。
人工知能ロボット、AI殺りく兵器や、日々伝えられる出口亡き出来事、あらゆる山積する世界の諸問題の行く末のあれやこれやには、かすかに遠くからではあるが、性急な答えはなくともささやかに関心は持っている。
いつものように話を変える。頻繁にブログを書かなくなった私は、その時間を自分の体と向き合う時間に割いている。
それは早朝の竹韻庵時間と竹韻庵にゆかない場合は、運動公園での時間、竹韻庵に行った時には、わずかでああれ夕方運動公園にゆくように努めて心がけている。
この夏はわが体が何度も悲鳴を上げたくらいに暑い夏で(ようやくこの数日涼しくなってはきたが )なんども挫折しそうになったのだが、無理をしない程度に体を動かして何とか継続できている。
そのような日々の暮らしの中で、最近特にはまっているとまではいわないが、楽しんでやっていることの一つが竹韻庵での手鎌での草刈りである。
中世夢が原で働いていた時山城の斜面だけは機械で刈ることがかなわず、かなりの部分を手で刈っていたので、その経験がいま生きているのである。
機械には及ぶべきもないスピードだが、その見事に刈られたわずかな面積の美しさは、刈ったものにしかわからないひそやかな喜びなのである。
あとどれくらいの時間わが体が動き、どれくらいの間手鎌 での草刈りが可能であるのかとかには、まったく関心がない、とりあえず今日できればいいのだ。明日できなくなっても。
運動公園の懸垂もそうである。昨日できたことが今日もできるという平凡この上なきささやかな喜びこそ、最も大切なひと時といえるわがささやかライフの今なのである。
また話を変える。相棒、わが妻は私がこれまで出会った女性で最もつつましき異性である。職場の近くで不要になっていた新品のまだ香りのする板切れを持ち帰り二階の洗濯物干場に敷く、すのこを時間を見つけて週末作っていて、見事な出来栄えである。
私はくぎを打つのを手伝っているのだが、手や足やつまりは体を使って何かをなすということはいわば基本中の基本である。
基本、土台のない暮らしというものは何かむなしい。私たちの置かれている私も含めた現代人の 暮らしは、消費生活といういわば幻想にがんじがらめになっている気がして、初老男は不安なのである。
時折ふっと川底から顔を出し、五十鈴川だよりを書きながら 、平生は土や雑草の香りを嗅ぎ、形を眺め、虫に触れ、胎呼吸をしながら声を出し、汗を書き自分という移ろいやすき実在との対話を繰り返しながら、枯れてゆきたいとの思いが増す夏の終わりである。
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