5月に入って2回目の五十鈴川だよりだ。こんなに書いていないのは、ブログを書き始めて初めてではないか、という気がする。
これから、【ロバの夢】という33年ぶりのルネスでの舞台を終えるまであまりブログを書く気がおきないのではないか、開いてくださる方にはご容赦をというしかない。
それと、雨天ではない限りこのところ起きてすぐ身支度を整えたら竹韻庵に向かっているので、ほとんどのブログを朝書いてきた私は、ブログを書く気が失せてしまうのである。
これほどの世界の大変さの前では、何やらのんべんだらりとした五十鈴川だよりは書けないような心境に 、正直おちいるといったことも作用している。
書いても何やら個人的に落ち着かないといった方が、正鵠を得ているか。したがって今も書きながら書きあぐねている、という絶対矛盾。
明日は雨の予報なので、何やら久しぶりに 書こうかなあ、といったきわめて消極的な情熱で、珍しく夜中書いている。
まあ、単細胞の私なのであれやこれやのことが、できないだけのことなのだ。こんなことを書くと、どこか具合でも悪いのはないかという気がする方もおられるかもしれないが、まったく逆で、私自身は穏やかに身過ぎ世過ぎができている現在の暮らしを、これまでの人生で最も在りがたい日々をすごさせていただいている。
もっと書けば、ことさら五十鈴川だよりを書かなくても、何とはなしに 過ごせるようになってきたのかもしれない。以前は五十鈴川だよりを書かないと何やら落ち着かないような感じもあったのだが、何やら寄りかからなくても日々を過ごせている自分が増えてきたのだ。
それは、なにに起因しているのかは自分では上手くは書けないが、いつも書いているように、五十鈴川は、流れるようにしか流れないのである。
気が重い、気まぐれ、気の向くまま、在るがまま、ある日突然、何かは始まり、そして終わる。でもまだ私の人生は緩やかに流れている。ささやかにささやかにこれからもたぶん五十鈴川は流れてゆく。
ところでいま、【外山滋比古著思考力の方法】という本をゆっくり読んでいる。耳に関する本、これが実に面白い。
時折目からうろこのように面白いというか、へえーっという、身体が活性化する本に出合う。
この感覚が持てる間は、きっと五十鈴川だよりを書き続けられるのではないかという気がする。書く回数は減っても、時折忽然と流れる五十鈴川だよりでありたいと、愚考する。
外山滋比古先生は1923年生まれ、2015年の御本だから93歳にしての、この思考の柔軟さは驚嘆というしかない。
こういう長生きはまさに理想である。それにしても学ぶということの奥深さを知らされる。学校生活が苦手だった私だが、学ぶということに関しては、どこでだってできる。
遅きに失した感は否めないが、これからも怠惰な私だが、すごいと思える先生たちから素直に学びたい。
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