一昨日から母もやってきた。毎年お正月一週間は共に過ごす。2階の寝室で母と妻は寝て、私はその奥の衣裳部屋に布団をひいている。
この小部屋がことのほか私は気に入っている。冬の間はここで寝ることに決めた。一回の薪ストーブの暖気が寝室とこの小部屋をしっかりと温めてくれるからである。
それにペットボトルの湯たんぽがあればいうことなし。お湯は薪ストーブが常時沸かしてくれるし、焼き芋ほかいろんな温め料理が可能なので、まったく薪ストーブの効用ははかりしれない。
眠りに落ちるわずかな時間枕元のスタンドで文字をおっていると、全身が温まってきてあっという間に眠りの世界にいざなわれる。
4~5時間熟睡すると時折目覚める(目覚めない時もある)。そんなとき何をするか。これは初めて書くが、静かに深い呼吸しながら我流の腹筋を するのである。
これをすると、しっかりと目が覚めるのでまた眠くなるまで文字を追うのである。だいたい10時くらいには寝入り、起きだすのは5時過ぎである。
ほかにも瞑想したり、時折の意識ハッキリ真夜中時間を楽しむことを心かけている。闇の中というのは、自分自身と向かい合うには最高の時間帯なのだと私は考えている。
盲目の方は、常時このような感覚で過ごされているのだということを、何とはなしに感じる。闇という字は、音が閉ざされている状態だ。
プラハの街並み |
睡眠が満ち足りて、脳がニュウートラルな時に思い浮かぶことに私はほとんどすがって今も私は生きている。
だから睡眠という行為は、私にとってはとても大事なのだ。寝ないと私は全く体が変調をきたす。
食事、お風呂と睡眠とが、歳を重ねるととても大事だ。
とにかくよく休んで、体調の維持管理を楽しめるくらいの余裕がないと、私の場合ははかゆかない。
ところで、幼少のころの最初の記憶の世界はうす暗いのである。
だから、私はアフリカやインド、アジアのいまだうす暗い辺境の土地を旅すると、もうそのようなところには住めない体になってしまってはいるものの、しばし心身が落ち着くのである。
真夜中トイレに行くときなど、電気をつけずに手探りで感を研ぎ澄まし用を足して遊ぶ。100年もさかのぼれば、漆黒の闇がほとんど、大いなるものにひれ伏して、人としての法を超えずにあらかたの人は生活していたに違いない。
いまや、私をはじめとする現代人は闇を遊ぶ余裕もなく、闇は恐ろしいといった対象でしかない。体の中の闇なる部分を、ときおり真夜中私は見つめる。瞑想と迷走。
最後にシェイクスピアの【リア王】のセリフで今年最後のブログを締めくくり、【目が見えた時はよくつまずいたものだ】。
2016年、五十鈴川だよりを読んでくださった皆様の健康と、良き歳でありますよう祈ります。