ブログに書いた記憶があるのだが、全部パソコンでいただく年賀状は実に味気ないと、私自身は今も考えている。
すべては、人柄と私と相手との関係性で私は変えることにしたのである。宛名はパソコンに9割くらいはして、ほんのわずかな時間をこの数年書に親しんでいるので、併用でゆこうと、いくばくかの思いつく字を書きこみたいと今は思っている。
これは年が明けてから書くことになるので、私の賀状は松の内には着くとは思うが、そうは早く着かないのでこの場を借りてご容赦のほどを。
住所もこの際パソコンに入れ、手書きの住所力も併せて利用することにした。 退職したら年賀状が減るかと思ったら、私の場合はさほどの変化がないので、100枚以上を手で書くのは時間的にシンドイ。
この年にして、ようやくにして無為に何もしない時間の大切さを私は感じるようになってきつつある。怠惰というのではない。要するに心と体に正直に生きることにしたのである。
でもそうはいっても、わたくしごと気にお年賀をいただくということは、普段は会えないにもせよ、私自身への思いがなにかあるからこそいただくということになるので、有難いことと受け止めている。
ほぼ半日で宛名を打ち込むことができたが、やり方はすべて妻が指導、五人めぐらいからはひとりでできるようになりあとは単調な入力作業でおえた。
来年からはパソコンにももっと触れるようにしたいと今は考えるようになってきつつある。スマホもそっとやりたく思っている。すべては自分の体との調整をしながら。
何かを得ると何かをなくす。便利、快適世界を追いかけすぎると、肉体が脆弱になり気力が衰える。一番困るのは声を出す肉体が衰えること。 バランス、時代の最後尾を私はゆきたい。
すべては、アナログとデジタルの併用で私には十分に足りる生活を心かけたい、のだ。
ドレスデンの森、娘と怜君 |
あらゆることがゆっくりなのだが、気が付くと進んでいる、そのような塩梅が一番私にはあっているのである。
これは尺取虫のように富良野の400メートルの畑に這いつくばった経験から私が学んだことである。
軽佻浮薄を自認しているので、私はせめて一人の時間くらいゆっくりとゆきたいのだ。歳があけたらいつものように可能な間、在来線で時間をゆっくりと堪能しながら遠方への旅をしたく思う。
時折普段の暮らしから離れて普段の暮らしに帰る。男の私にはこれは絶対的に必要である。年に4回くらいあれば十分である。
若い頃はどこか生き急いでいたが、今はまったくゆっくりとしかゆけない自分を楽しめている。でも思うのだ。生き急いでいたからこそ、何とか今があるのではないかと。
その年代なりに小さな器で、何とか自分にしがみついてきたから、大きな渦に流されなかったのだと。
世の中がバブリーなころ、何せ私は富良野で畑に這いつくばっていたのだから。今振り返るとだが、あのころ違う道をせんたくしていたら果たしてどうなったかは皆目わからない。
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