その二人というのは、ブログで書いているがパリを中心に長いこと活躍されていて(来年1月東京、2月にもパリでの公演が控えている)、こんごは岡山に根拠をおくという舞踏家の女性Kさんと、その方を私に紹介したY女子である。
Kさんとはすでに3度ほどお目にかかってお話をしている。その彼女から私と何かコラボレーションができないかという、思いがけない提案があり、私もいささかの逡巡があったのだが、今私がやっている塾に来ていただき、私が今現在私が声を出している姿を見てもらうのが一番いいと思ったのである。
私も含め塾生6名で、公開間違いの喜劇 レッスンを見てもらった。塾生が多い時は普段私自身は声をあまり出さず、ひたすらコーチングに徹するのだが、この日は私が声を出している姿を見てもらいたいこともあって、私がかなりのパートを声に出して読んだ。
私のブログを長きにわたって読んでくださっておられる方はご存じだと思うが、31歳で最後の舞台を務め34歳で富良野塾を卒塾して以来、普通の生活者の道を選択した私は、夢が原を退職し遊声塾を立ち上げるまでシェイクスピアを声に出していなかった。
ドレスデンからの帰り一泊したプラハの街並み |
声を出し始めておおよそ2年9か月、もうすぐ3年が経過する。 いま私はシェイクスピアを声に出して読むことがようやくにして再び愉しくなりつつある。
当初はコーチングしていても、私自身の体が錆びついていてなかなかイメージしたようには読めない自分自身と格闘していたが(それは声を出す間は続く)最近ほんの少し声を出して読めている自分を感じ始めているからだ。
遊声塾のレッスンを終えた後、KさんとYさんと私の3人でお茶をしたのだが、Kさんは私の声出し姿を確認され、私でいいとのこと、来年春に何か作品を作り表現したいので一緒にやりましょうとのお言葉でした。
ここまで情熱を傾けられたら清水の舞台から飛び降りるつもりで、引き受けることにした。上手くは書けないが、いましかないという直観が働いているのである。18歳からの恥かき人生者である私には、これもまた縁と思うしかない。
向こうから私に手を差し伸べてくださっているのだから、男子たるもの引き受けるしかない、と腹をくくったのである。
それに物事をいいようにしか考えない私の楽天性もある。守りに入りたくないから遊声塾を始めたのだし、新しいことに挑戦するには思いもかけない出会いではないかと。
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来年は64歳になる。いまだわくわくする自分がかすかに存在する。そこを頼りにしての出会いを苦楽しながら、Kさんにすべてをゆだね私はまな板の上の鯉になるつもりで今はいる。
Kさんは舞踏家になり、構成演出家になり、私は声出家になる。30数年ぶりの舞台になるが、まさに春の世の夢のような舞台になればと夢見る。
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