人は亡くなり、自分もやがては動けぬ体となり、ブログを書くことも声を出すこともかなわぬ存在となる。生老病死は厳然たる真実である。
だからこそ生は尊いのだという側に私はしがみつく。生き方次第では、人間は途方もなく醜くもなりうる存在でもある。
再三ブログで書いているが、家族とは何かということを、娘が結婚をしたのを機に、はたまた私は考え始めた。まして異国の男性と結ばれたがために、わが人生で異国の縁戚ができたがゆえになおさらなのである。
新たな時代が猛然と水面下で動いている気配を私自身は感じる。人間は揺れ、変化しその時代の渦中を必死に泳ぐ。
夫婦別姓、同性婚、ありとあらゆる制度が、もはや時代に追いついてゆかないような趨勢である。開かれた関係性に法律や制度、私たちの暮らし方、生き方が問われている気がする。
朝から軽いブログで書くことではないが、来年は選挙の結果次第では憲法改正 の流れが大きく加速しそうである。
怜君のお兄さんの子供大きくなったら我が家にホームステイ |
私は私なりに一個人として考えたいというにとどめたい。話を戻す、現時点で死は私にとって、身近とは言わないまでも、そう遠いという感じでもない。
ばかの一つのように書き続けているが、今現在を悔いなく生きることの中にしか、ほとんど私の人生はないのである。
絶対矛盾のなか、ささやかに夢や希望を持ち続けながらも、よしんばかなわぬ事態が訪れた際にほんのいささかでもきちんと善処できるような
態度を保てるのかどうか、それはその時になってみないと分からないが、だから今なのだと、弱い心を激励しているのである。
ところで、今夜は我が家で遊声塾の忘年会がある。我が家で忘年会をするのは10年ぶりくらいではないか、本当に久しぶりである。
なぜ忘年会をすることにしたのかを書くと長くなるので簡単に。遊声塾の面々は今や私にとっては疑似家族のような存在になったからだ。
今年一年、本当にみんな私と共に、自分自身と向かい合う勇気を持ち、声を出し続けた。その面々と忘年会をやりたくなったのだ。
私の生きる原動力であるわが家族一緒に。全員で10名これくらいがちょうどいい人数である。だから今日はこれから掃除や準備をしなくてはならない。
愛と憎しみを共有できる関係性の中からしか、家族の大切な何かは育みえないというのが現時点での私の思いである。
齢63歳にして、ようやく臆面もなく書けるのだが、身近な存在との関係性を深めてゆくことの大事をますます感じる師走の朝である。
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