妻は業者に頼むつもりで、数社から見積もりまでとっていたが、18歳から世の中に出て、いまでいえばフリーターのはしりであるかのようにあれやこれやのアルバイトをしながら、ささやかに演劇を学ぶという夢を抱きながら、何とか糊口をしのいできた青春期の人生を歩んできた私には、すぐに自分でやればいいという結論に落ち着いた。
あれやこれやの日々を生きながら、時間を見つけて柱も含めた壁塗りを開始したのが10月の終わりころから。
先週土曜日、二階部分を塗るための足場を組んでもらってからほぼ2週間、ほかのこともやりながら実質5日間くらいで、塗料が無くなるまで重ね塗りをし何とか終えることができた。
そうはたびたび足場を組むことはできないので、手の届かないところは何度も塗った。愛着のある自分の家なので北風を浴びてもまったく苦にならずできたのは、なんと人間とはいい加減であることか。
それはやはり、お金を稼ぐということが(両親がよく言っていたが )いかに大変であるかということが、私のような世間知らずの田舎者にもいくばくかはしみついたからではないかと、思っている。
そこで私はいまだに考える。はたまたお金とは何であるのかと。お金とは何かを私のようなぼんくらが考えてもせんないことのようにも思えるが、時折ふっと考えるのである。
怜君のお母さんの家でのお茶時間ゆったりと時がながれる |
もちろんよくはわからないのではあるが。それは自由とは何かを自分に問うのと、どこか共通した何かのように時折感じることがある。
私が畏敬する高峰秀子さんは言っている、【お金は怖い人を変える】と。シェイクスピアは言っている、間違いの喜劇の中で、【自由も過ぎれば不幸という無知に見舞われる】と。
持てない不自由と、持ちすぎている不自由とも言い換えることも可能ではないか。今はただ単に私は言葉遊びをしているにすぎないのだが。ギリギリの余裕なき今を楽しむ余裕を持てるのか持てないのか、そこが思案のしどころ(ハムレット)
ともあれ話を変える。思わぬ壁塗り体験をやり終えた年の瀬、考えてみると夢が原退職後は畑仕事をはじめやったことがないことばかりをやっている。
特に夏から、竹韻庵では初老男なりではあるものの、かなり肉体を動かし続けたので、ちょっと冬眠したいといったような心境にかられている。
ともあれ、今年もあとわずかであるが、できるだけ煩わしい拝金主義的(偏重的)な現代の趨勢、くびきからはちょっと距離をおいて、わずかなお金に感謝し宝石のように使える時間を大切にしたいだけである。
この年齢になると、無心になって好きなことができるひと時は、まさに黄金時間ではないかと、そっとひとりごちる私である。
0 件のコメント:
コメントを投稿