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2015-12-09

冬は憲法に関する本を読みたいと思う、朝です。

安全保障法案が可決した後も、東京では数千人規模のデモが続いている。忘れやすい私ではあるが、報道ほかでささやかにアンテナを張り巡らしている。
唯一の贅沢・冬の私の精神安定装置薪ストーブ

TVではデモに関するニュースを きちんと取り上げているのを、ほとんど見かけなくなってしまった。

私が午後9時以降はほとんどTVをみないせいかもしれないが。

63歳の夏は人生で初めて何度も国会前に 行った。ついこないだのようにも思えるが、ずいぶん前のようにも思える。

国を守るということは、このいまの時代どういうことを意味しているのだろう。私にとっての守るべき祖国とは何か。

国民とは、国語とは、母語とは、日本語とは、人間とは、言葉とは、思考の源泉はやはり言葉である。

デモクラシイの穏やかな哲学を ぼんくらなりに学び続けないと、ようやく手にした宝のような憲法の精神がうたかたのように消えかねない、危うい瀬戸際に我々はいるのではないか、という認識。

絶対矛盾を抱えながらも、現時点では安全保障法案の拙速な可決にはいまだ私は納得がいかない。

ところで、おとといの新聞で韓国で覆面デモ禁止に抗議するデモが行われたという記事を読んだ。主催者発表では4万人、警察の発表でも1万4千人がデモをしたとある。映像では見ていない。

私などは一仕事終えた年齢だがこれからの時代の行く末を思うと、やはり安穏とはしていられないなどと、どうしてもそういった思いにかられる。韓国の人たちは、アクションが早い。

いたずらに社会的な不安をあおるようなデモには冷静な感覚を持ち続けたいとは思うが、あまりに静かな意思表示もいかがなものかと私などは考える。

いいおじさんを忘れて、特に若者たちを含め元気な世代は、それぞれに納得のゆかないことには、表現の自由の範囲で示威行為をしないとまずいと私は思っている。理不尽や不条理なことには怒らなければ。

このブログもそうだが、様々な矛盾を抱えながら、揺れながら考え続けないとやばい。思考をやめることを、忘れることを、権力者側は 望んでいるとしか思えないのだから。

誰かが言っていた。原発事故が起こった時に、やはりもっともっと関心をもって原発に反対しておけばよかったと。

可決された安全保障法案の先行きはまだ判然とはしていない成り行きだが、私みたいな朴念仁でも感じるのは、きっとあの時が歴史的なターニングポイントだったと、後悔はしたくはないがゆえに、どちらに流れるにせよ、選挙権を持つものは、きちんと自分の頭で考えたいものだ。

夜が長い師走、私は静かにじっくりと物事を 考える落ち着いた時間を大切に過ごしたいと思う。空恐ろしいほどの情報が飛び交う、身体が情報に汚染されないように、自分の体が発する情報をこそ大切に、右往左往しながらも、土に近いところから何かを感じる力を冬場は蓄えたい。





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