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2015-12-01

とりとめなき師走初日の真夜中ブログ。

真夜中です。朝というにはまだ早い。目が覚めたので胡乱な状態でつづりたい私です。とにかく静かです。

大都会の喧騒の中にわずか4日間とはいえ、いたせいでしょうか。西大寺の夜の静けさがことのほかしみてきます。

齢を重ねるにつけ、静けき時間をことのほか好むようになってきました。それと共に若き日から芸術や文化に触れることで何とか精神のバランスを保つような、ある意味では騒がしい世界に、すがるような自分がいたのですが、(触れるのをやめるという意味ではなく)そういうことをことさらに追いかけなくても、ずいぶん精神の安定がたもてるようになってきました。

ピーターブルックのお芝居の印象は、とても短い文章では書き記せませんが、齢90歳の老演出家の人間界への絶望の中からの希望への見果てぬ賛歌を、(なにもない舞台、布と棒と4人の俳優と、パーカッション二スト土取利行氏)深く感じました。4人の登場人物が最後そろって太鼓のリズムに耳を静かに傾けるエンディングが強く印象に残りました。

余分なものが何もない舞台は、あらためていろんなことを想像させ、東京までわざわざ観に出かけてよかったと思いました。一方ブルック演出の舞台ももうこれで見納めになるかもしれない、との思いも抱きました。

なかなかうまく言えないのですが、いい意味で芸術や文化的なイベントや、作品や企画などをことさらに追いかけなくても、そろそろいろんなことがリセットではなく、リスタートする年齢に自分が来ているということを今回の帰省の旅と、上京旅で感じ始めています。
昨年の結婚式の後の新しい家族とドレスデンのエルベ川下り

それはあらためてかけがえのない家族を基本にした日常生活を礎にしたライフスタイルを、フィクションではなく 、普段の暮らしの中に見つけてゆきたいというささやかな思いです。

話を変えますが、水木しげるさんがお亡くなりになりました。先日は原節子さんが、加藤治子さんが、加藤武さんが、(書き出したらきりがない)少年時代、青年時代少なからぬ影響を受けた方々が、次々とお亡くなりになります。

さみしくは感じます。だけれどもやがては誰にでも訪れる死をいかように受け入れてゆくのか、千差万別でよいと私は考えています。みなさんやり遂げた人生だったと思います。

生きているからこそ出会えた、家族とも、姉や兄とも、友人ともやがてはお別れがやってきます。来なかったら大変です。新しい生命たちの時代、初老の私はいかに生きるのか。

現時点で、浅薄な私の思うことを書くことは控えます。ところで、昨日私の下の娘が、親知らず歯を抜いたのですが 母が非常に心配しました。美しい心配です。

母は下の娘をまるで自分の子供のように溺愛しています。それは父親である私よりも深い愛であると時に感じ入ります。娘にもその愛が伝わっているように感じます。

上の娘が結婚し怜君という息子ができる。愛は樹が育つようにしか成長しないのだと思い知ります。東京旅で、息子の怜君と娘がご馳走してくれました。

18歳から世の中に出て夢のように幸せでした。それはどんな芸術や文化に触れても味わえない 、いまこの年齢だからこそ味わえた感情でした。

今日から師走です。早い時の流れ、まさに歳月人を待たず、五十鈴川だよりを読んでくださる方良き師走をお過ごしください。

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