7年近くブログなるものを書いてきて、よほどのことが
ない限り一週間ブログを書かなかったことはなかったような気がしている。
ブログを書かずともほとん自分の暮らし向きには変化がない、満たされている、といったことがあるからかもしれない。
以前は何やら書かないと、といった思いがかなり心の中にあったようにも思うが、いい意味で歳のせいだという気がしてならない。
優先順位が微妙に変化してきているのも、事実である。書くことよりも、読んだり、声を出したり、体を動かすこと、生活の雑事に、重きを置いた時間を、優先するようになってきたのである。
毎月一回墨をすり筆で文字を書くことをこの2年半やっているのだが、何度も書いているように、時間は一定なのでブログを書いていない時にはほかのことをやっているのである。
とはいえ、どうしても書きたいことが ある場合は、にわかに川の水が増水するかのように書くかもしれないが、あくまでも五十鈴川だよりは、晩年ライフの渦中を右往左往揺れる、あるがままブログなので平に御容赦を、と願うしかない。
さて、だがいつものように話は変わるが、新しい安倍内閣で、一億総活躍 社会が掲げられている。美しい国といい、なんとも抽象的でぴんと来ない。
そんな私の漠然たる不安に、作家の保坂正康氏が見事にこたえてくださっている。10月10日のM新聞に。
ほとんど政治のことには触れたくないというのが私の個人的な正直な思いなのだが、 なんとも気持ちの悪い表現である、なぜなのかを書くにはまた相当な時間を取られるので止す。
話題を再び変える。竹韻庵にはかなり大きな琵琶の樹がある。
数週間まえ邪魔になる枝を切ったのだが、その際、葉っぱをお茶にできないかと家に持ち帰り、母と私で葉をむしり我が家の、あまり日の当たらないところに干して老いたら、いい色に変色したので、先日S氏と二人で竹韻庵で手でもんで細かくちぎり、なんとかお茶らしい体裁にできた。
そのお茶を私はこの数日飲んでいる。今日もこのお茶をポットに入れて持ってゆくつもりでいる。意外やおいしいのである。単なる思い付きで つくったお茶だが妻がすぐ容器に入れてくれたがなかなかいい感じでおさまった。
63歳の私は、今更一億総活躍の仲間には入りたくはない。社会の片隅で若者の邪魔にならず、そっと静かに琵琶の葉のように枯れて、静かに老いてゆく覚悟を育みたい、と思うのだ。
大先輩、五木寛之氏が書いているように、アンチエイジングではなく、ナチュラルエイジングこそが私には望ましい。
葉が落ちるように、ナチュラルに、自然(じねん)に先人たちは死を受け入れてきた。私もかくありたい、そのためにはどう生きるかを、日々(オーバーだが)五十鈴川だよりは寿命にむかってながれている、いわばそのような思いだ。
父が生きていた年齢までもし私が生きるとしたら、あと20年近くを生きることになる。老いながら未知の時間を生きねばならない。
40歳の時、60歳の自分の姿など想像すらできなかった。今私は82歳の母と時折過ごしながら、自分の20年後を想像する。
母はまったくもって立派としか言いようがない形で、老いを自立して生きている。若い人たちの邪魔にならず、野菜を育て、お裁縫、編み物をこなし、家族の支えとして真の意味で活躍してくれている。
最近時間があるときは、ブログを書いているよりも母と話をしたり体を共に動かしている方が楽しい私である。これからは母との時間を最優先したい。
自然の摂理、その母だってやがては老いてゆく。彼女も十分にそのことを自覚している。目の前に見事に歳を重ねてゆくお手本がいる私は幸せだ。
竹の葉のお茶は 健康に いいようですよ (*^^)v
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