小さな耕運機がぬかるむようになるまではかろうじていくばくかは作業ができたし、安心して枯草や枯れ木を燃やすことができたので私の決断は吉と出た。動けば前進する。
作業日誌が竹韻庵にはあるのだが、今日10月1日で29回竹韻庵に通ったことになっている。午前中しか作業はしていない。
だが、自分でも随分と竹韻庵の印象は変わってきたように感じている。夏の暑さが嘘のように涼しくなり、単細胞の私は竹韻庵で現場で動きながら、作業の次の段取りを考えつつ進んでいる。
S氏も随分雰囲気が変わってきたといってくださるので、わたくしごときでも誰かのお役に立てるということは、有難き幸せというほかはない。
ほんの少しの間ではあったは、サンナンで農の仕事をさせていただいたのもとても役に立っているし、そのサンナンでいまもギリギリのところで頑張って農の仕事を続けている仲間からも、フリーでやれる時間帯に草刈りなどを手伝ってほしいとの依頼がきた。
金銭の多寡ではなく、依頼があり、その依頼に自分がこたえられるということは、これまでの自分の人生の経験が役に立っているということの証左なのだから、ありがたいことだ。
たびたび書いているように、18歳から生きるがためにいろんな仕事に私は従事してきた。特に私の苦手とする肉体労働をいやでもやってきたことが、つくづく今となってはよかったと私には思える。
まったく人生とは摩訶不思議な旅というしかない。縁えにし
夏の旅での山形の米沢藩のお城のお堀の蓮池 |
(いきなりだが、わけもわからない摩訶不思議な人物たちが大勢出てくきて奇想天外な夢について語るシェイクスピア作品が、だから私は好きなのである)
老いるということは、極端にいえば体がやがては動かせなくなる(動かなくなる)ということだ。だから明日のではなく、今日の自分を動かせるうちに動かす。そのことを意識して感謝する、となにやら物事はシンプルに流れ出す。
オーバーだが明日急に何事かが起こっても、悔いのないようにというきわめて単純なことの繰り返し。今日もまた竹韻庵で愉しく体を動かせたことに、ただただ素直に感謝する私なのである。
お昼近くからにわかに雨脚が激しくなり作業をやめ、濡れた体をふいて着かえてさっぱりしたのち、S氏に抹茶をいただき体を温め、雨音を聞きながら二人でおしゃべり。
小さな畑を漸く開墾しているのだが、その耕しつつある畑地も含め少し景観が変わり、雨の靄が立ち込める竹韻庵を、山荘の小さきベランダから眺めながらの風情あふるるティータイムは、ご褒美のように体に沁み、私の心を饒舌にした。
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